27. メープルシロップ。

 とろとろとろ……こんがりと焼けた食パンの真ん中に、黄金色に輝くメープルシロップを垂らす。

それは一瞬積み重なってからゆっくりと綻び、パン全体にその足を伸ばしていく。

パンから一粒宝石のように煌きながら落ちかけたメープルシロップは指でそっと受け止められ、それは口へと運ばれる。


「美しいねえ、そして甘くて美味しいねえ」


 ヒカルは恍惚とした表情で頬杖をついてパンとパンの上を流れるメープルシロップを眺めていた。

 いつまででも見ていられるが、せっかく焼いたパンと温められて緩やかになったメープルが冷めて固くなってしまうのはもったいない。

手を合わせて「いただきます」と小さく言い、食パンを指で挟んでそっと持ち上げた。

 サクッ……とても良い焼き加減だ。

 目を瞑って深い甘みを味わう。

 ヒカルは普段はほとんど朝食を摂らないが、お気に入りのメープルシロップが家にあるときは厚切りの食パンを3枚ほど食べてしまうほどのメープル好きであった。

 ちょうど最後のひとかけのパンの耳を口に放り入れたとき、ドアがノックされた。

「ほい」と間抜けな返事をしてそちらを見ると、ドアを開けてマコトが現れた。

今日ヒカルとイノウエは休みだが、彼は勤務日だったはずだ。


「休日なのに突然ごめんな」

「ううん全然。珍しいね、どうしたの?」

「明後日はこのまま入院がなければ3人揃って休みだから、みんなでどこか旅行に行かないかってイノウエさんが。息子さんも連れてくるみたいだよ」

「あの可愛い可愛い息子くんが……!」


 息子くんの行きたいところにしようよ、と言ったが、もちろんマコトもそれはすでに提案していたようだ。

 しかしイノウエいわく、息子はどこでも楽しめるし、私はあなたたち2人が楽しむ顔を見たいのよ、とのことだったという。


「マコトは?」

「特にないよ、ほら、ヒカルが決めて」


 即答だった。本当に彼は行きたいところは特にないらしい。

 ひとりで決めなければならない状況に、優柔不断なヒカルは頭を抱える。

 そのとき、机の上の皿に乗った一粒のメープルシロップが目に入った。


「……メープル」

「え?」

「メープルシロップの生産地に行きたい」


 希望する場所が何かの“生産地”というのが予想外だったのか、マコトはしばらく何も言わずに怪訝な顔でヒカルを見ていた。

そしてパンくずが落ちた机を見て、今朝ヒカルがメープルシロップをかけたパンを食べたからそういう希望をしたのか、と1人で納得する。


「もう秋だし良いと思う、息子さんにとってもそれなら社会科見学みたいになりそうだしな」

「じゃあ俺、これから本屋で旅行雑誌見てくる」


 気を付けてな、と言い残し、あくびをしつつ下の階へマコトは降りていった。

 あいつ、男の俺がすぐそこの本屋に行くだけで“気を付けて”だなんてずいぶん気が利く良い男だよなあ。

 しみじみとそんなことを考えながらヒカルは重い腰を上げて皿を片付け、出かけるために青いシャツとホワイトジーンズというさっぱりとした服に着替えた。


 本屋には、“これからが見頃! 紅葉特集”や、“栗、芋、かぼちゃを使った最新スイーツ”などと銘打った雑誌が並んでいた。

 メープルメープル、と呟いて、棚を端からくまなく見ていく。すると、メープルシロップの文字が目に止まった。


「メープルシロップ採取体験⁉︎」


 思わず口に出してしまい、後ろを通っていた客からの視線を感じる、慌てて口をつぐんでその雑誌を手に取った。

 メープルを生産しているのはサイタマ、ヤマガタ、ホッカイドウの3ヶ所程度しかない。

トウキョウから日帰りで行けるのはサイタマくらいであろう。

嬉しいことに、その採取体験とやらを行っているのはサイタマの林業家だった。

 ヒカルは他の雑誌も探し何度か手に取ったが、その初めに見た雑誌よりメープルシロップにフォーカスしたものはなかった。

 その雑誌を購入して彼は弾むような足取りでクリニックへと帰っていった。


「この時間ならちょうど帰った頃に休憩かな」


 そう呟いて、真夏に比べていくらか鳴りを潜めた、とは言えども未だ肌を焼くような日差しを浴びせている太陽を見上げる。


 イノウエに雑誌を見せると、「衣織いおりもメープル好きだからきっと喜ぶ」と大賛成が得られた。

ヒカルはイノウエの息子であるイオリが産まれたばかりの頃から知っていて非常に可愛がっていたので同じものが好きと知って嬉しがった。

そしてそれにマコトは気付き「単純」とぼそりと言い、聞こえてしまったヒカルが怒る、という茶番が繰り広げられる。

 マコトに雑誌を見せると、少し抵抗を示していた彼ですら興味を惹かれていた。

 そうして明後日の休暇は全会一致でサイタマへ行くことに決まった。

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