03「彷徨えるシットローズ号」

 ロータローが甲板に出ると、潮風に出迎えられた。

 周囲をぐるりと見渡せば、青い空と海が果てしなく続くばかりである。なんという絶景だろう。水中で溺れずにこうして船上に立った状態で見れば、海もそんなに悪くない。むしろ良い。ロータローは海に対する評価を上方修正した。

 こんな景色を眺めていれば、異世界転移から僅かな間で何度も傷ついた心が癒されそうだ。


 未だに痛みが残る首に片手を添えながら、もう片方の手で手すりに寄り掛かる。

 風が肌を撫でる感触は涼しくて心地よい。頭が冷やされたロータローは、冷静な思考を取り戻しつつあった。


「……それにしても」


 成り行きで文字通りお荷物な異世界生活が始まってしまい、先ほどはそれを受け入れるしかなかったロータローだが、心の底から納得しているというわけではない。

 そりゃ、理由はともあれ自分を拾ってくれたキロリッターに感謝の気持ちがないと言えば嘘になるし、何かしらの形で恩返しをすべきなのだろうが、それでもいつかはちゃんと人間の町で暮らしたいものである。

 最初に出会ったこの船が例外なだけで、陸地では普通に人間が生活を営む町が沢山あるのだろうし。

 先ほどの船員の話を信じるなら、この船はあともう数日で陸地に着くようだ。そこで隙を見つけて逃げ出すことでも出来れば……いや、待てよ。

 戸籍も身分も荷物も何もないロータローが人里に下りて、はたしてまともに暮らせるのだろうか?

 …………。

 たぶん、無理なのではないだろうか。

 なにせロータローは、元の世界ですらまともな生活を送れていたとは言い難い引きこもりである。

 おまけに、先ほどのキロリッターの部屋に掛けられていたプレートを思い返す限り、この世界ではロータローが知らない文字が使われているのだ。この世界の識字率がどの程度かは知らないが、ロータローの年齢で『文字を読む』という基礎教養が欠けているのは、かなり致命的と言えよう。


「ったく、どこの誰かは知らないけどよ。人を異世界に召喚するなら、異世界語を喋られるだけじゃなくて読めるようにもしといてくれよな」


 ぼやくロータローだが、その言葉は誰にも届かないし、返事も来ない。眼下から船体にぶつかった小波の音が聞こえてくるだけだった。


「もしこのまま人間社会に溶け込もうとするなら、知識が関係しない肉体労働で日銭を稼ぐしかないってことか? ……雇用されるなら、まだいい話だ。何せここは異世界。俺がいた地球では違法になっていた奴隷制が残っている可能性だって十分にある。もしそうなら身元不明の若い男なんて、格好の餌食になっちまうぜ」 


「なーにブツブツ言ってんだい」


「どぅわおっ⁉」


 突然後ろから話しかけられたロータローは、驚きながら振り返った。

 そこには顔の半分が腐り落ちた、見覚えのある女がいた。

 心臓に悪い登場の仕方と心臓に悪い顔だ。あと、こうしてちゃんと立った状態で向かい合うと、向こうの身長が遥かに高いので、威圧感が凄い。


「なんだ、アンタか。ええと……たしかキロリッターがサスライと呼んでたっけ」


「ああ、そうだよ。アタシはキャプテン・サスライ。船員たちにはキャプテンと呼ばせているが……アンタの立場は微妙だからねえ。まあ、好きな方で呼ぶがいいさ」


 サスライ。

 流離さすらい。 

 偽名を疑いたくなる安直なネーミングだ。

 怒られそうだから、口に出して言わないけど。

 代わりに、自分の名前を告げるロータローだった。


「サトー・ロータローね。妙な名前だ。生まれはどこだい?」


「あんたに名前の妙さを指摘されたくねえな……大陸の東に位置する小さな島国だよ」


 異世界モノでよくある回答を言うロータロー。テンプレに倣った方がやりやすいだろうという目論見があったが、それ以上に一度はこういうラノベやアニメで見たことがあるやりとりをしてみたかったという欲求もあった。

 ロータローの答えを聞いたサスライは原型が残っている方を破顔させ、「ぷっ」と吹き出した。


「はっはっはっは! 『大陸』とは、ずいぶん洒落の利いたことを言ってくれるじゃないか!」


「は?」


 どうして自分が笑われているのか理解できない。この世界ではロータローが知らないジョークでも流行しているのだろうか?

 サスライはひとしきり笑ってから落ち着きを取り戻すと、ロータローの首を指差した。そこには、キロリッターの牙の痕であるふたつの赤い点が痛々しく残っている。


「その様子だと、もうとっくにキロリッターに会いに行ったようだね」


「お、おう。あまりに衝撃的な出会いすぎて、死ぬかと思ったぜ」


「おや、歯形がもうひとつあるね……ははあ、なるほど。こりゃクサリにも噛まれたんだな。船に乗った初日でアイツに会うとは、アンタってトコトン運がないんだねえ」


「あれ? そういえば今更気になってきたんだけど、アンデッドって噛まれて移ったりしないよな?」


「んなわけないだろ。病気じゃあるまいし」


 そういうのはゲームや漫画の中だけの話なようだ。


「そういうわけで、アンタはキロリッターの食事として拾われたんだ。まあ、精々頑張るこったね」


「なんだか今日は全然励まされない励ましを言われまくってる気がする……」


 項垂れるロータロー。

 気分を切り返るべく、他の話をすることにした。どうせキロリッターとの件は、今の段階でアレコレ話しても意味がなさそうだし。


「この船って見たところ、アンデッドだらけの幽霊船だけどさ。ひとつなぎの大秘宝的なのを追い求めての冒険だとか、偉大なる航路的なものの踏破だとか、何かそういう目的があって航海してるのか?」


「この船に目的なんてないよ」


「え、ないの⁉」


「フラフラと彷徨うばかりだね。たまに買い物や荷運びの依頼で島に向かったり、偶々島に漂着したりすることはあるけども、基本的には自由なんだよ。時に海賊、時に運び屋、時に船乗り、そしていつだって幽霊船! それがアタシたち『シットローズ号』なのさ」


「目的もなく彷徨うだけの船、ねえ……」


 場所も分からない里帰りの途中であるキロリッターが乗っているのも納得だ。

 そんな船に、自堕落で目的もない生活を送っていたロータローが拾われたというのは、なんだか運命的である。

 ロータローがそんな親近感を一方的に感じていると、「キャプテーン!」と船の頂上付近から声がした。

 見上げてみると、双眼鏡を手に持った骸骨がいる。「目が無い骨なのに双眼鏡が使えるのかよ」と突っ込みそうになったロータローだが、骸骨の声から察するに、何やらそういう突っ込みの暇を与えないくらいにただならぬ事態が発生しているようだ。


「七時の方角に海上憲兵だ!」


「なんだって? アトランティスの犬どもが……こちとら、今日のトラブルはさっきので十分だってのに!」


 サスライはそう言うと、懐から双眼鏡を取り出し、海の一方向を見た。つられてロータローもそちらに目を向けると、水平線付近に何かが見える。双眼鏡を持っていないロータローではその全貌ははっきりとは分からないが、どうやら海上憲兵とやらの船のようだ。

 海上憲兵。

 名前からして、海の警察的な役割の組織だろうか。どうやらこの異世界にもある程度の秩序はあるらしい。

 いかにもアウトローっぽい『彷徨えるシットローズ号』にとってはなるべく会いたくない相手なのだろう。先ほどのサスライの「時に海賊」というセリフが事実なのなら、追われる理由も十分にありそうだし。


「キャプテン、どうします?」船員のひとりが指示を請う。


「ここでアイツらを潰したところで、他の海上憲兵が虫のように湧いてくるのは分かり切っているからねえ。それに、次の島まであともう少しだ……野郎ども! ここは逃げるよ!」


 サスライが号令をかけると、船のアチコチから呼応するように声が上がった。

 一瞬、「もしここで船から逃げて海上憲兵に拾われたら助かるのだろうか」という考えがロータローの脳裏を過る。しかし、幽霊船に乗っていた身元不明の若者なんていう怪しすぎる存在を秩序側の組織が見逃すとは思えない。ロータローは泣く泣く「ここで海上憲兵に助けを求める」という手を諦めた。

 そういうわけで『彷徨えるシットローズ号』は全速力でその場を去って行ったのであった。


 ◆


 『彷徨えるシットローズ号』が海上憲兵の船から逃亡してから数日が経った。


「あー、疲れた。サスライの野郎。俺が溺れていた時には働かせる場所がないからって見捨てようとしたくせに、いざ船に乗ったら何かと細かい雑用押し付けやがって……! 『どうせ血を吸われるとき以外は暇なんだろ?』だって? その通りだけどさあ⁉」


「ちゅうちゅう」


「働かされるなんて引きこもりの名折れだぜ。座右の銘の『努力は非効率』が音を立てて崩れていきそうで涙が出ちまう。この船に乗ってる奴って殆どがゾンビやスケルトンだろ? あいつらの体って死体だし、不衛生だから、掃除には向いてないんだってさ。掃除すればするほど汚れが増えていくらしい。そこでこのスーパークリーナーロータロー様の出番ってわけよ! ……まあ、途中で俺を嗅ぎつけて現れたクサリに追い回されて、結局全部台無しになったんだけどさ」


「ちゅうちゅう」


「そういえばサスライで思い出したんだけどさ、この前あいつから出身を聞かれた時に『大陸の東に位置する小さな島国』って答えたら、なんかすげえ笑われたんだよな。もしかして俺が知らないだけで、何かのジョークになってたのか?」


「ふぁー? ふぁふぁふぁー、ふぉー、うふぉー⁉」


「ちょっ、やめろやめろ! 吸いながら喋るなって! 痛いし、なに言ってるのか分かんねえし!」


 流石に二度目ともなれば、血を吸われながら話をする程度には慣れてきたが、それでも傷口の中で牙が擦れる感覚には、未だに慣れないロータローだった。

 悶絶の声を上げることで、ようやくキロリッターは首筋から口を放す。彼女の表情は驚愕に染まっていた。なんだか、あり得ない話を聞いたみたいな反応だ。


「アンタ、それマジで言ってんの?」


「はあ? ま、マジだけど……」


 言っている意味をイマイチ理解できてないロータローに対し、キロリッターはロータローの首筋にある、まだ塞がっていない傷口に舌を這わせた。暫くの間、舐め取った血を口の中で遊ばせていたかと思うと、驚いたように目を丸める。


「これは……嘘をついてない味だわ」


「血の味でそんなことが分かるのかよ⁉」


「フン。私を誰だと思ってるの? 血を吸い続けてゥン百年のキングオブノーライフキングことキロリッター・トングラム・センチメンタルよ。ちょっと血を舐めればその人の簡単な健康状態や簡単な思考、果ては発言の虚実くらい一目瞭然ならぬ一口瞭然なんだから」


「すげえ!」


「ちなみにロータローが血を吸われている最中に『金も払わずに美少女とこの距離で触れ合えるのってかなり役得だなあ、グヘヘ』と興奮していたことも全部筒抜けよ」


「そんなこと思っ! ……て、ない、ぞ?」


 きっぱりと否定できないのが、思春期男子の辛いところであった。


「というわけで、ロータローが嘘をついてないことは分かったんだけど……うーん」


 キロリッターは顎に手を添えると、まずロータローに呆れたような視線を向け、次に思い悩むような顔で見つめ、最後に憐みの籠った目を送った。


「まあ、アンタの年齢を鑑みれば、仕方のない話なのかもしれないわね。そうだとしても、この世界に生きていて『』を知らないなんて、信じがたい話だけど。かなり田舎の生まれで、ロクな教育を受けてなかったのかしら? そういえば字も読めないようだし」


「ぐっ……」


 ロータローがこの世界の常識らしきものを知らないのはたしかだし、異世界文字を読めないのも事実なので、なにも言い返せない。それに、『ロクな教育を受けてない』という指摘も、自ら教育を受ける機会を投げ捨ててニートになったロータローにとっては、あながち間違った指摘とは言い難いし。

 キロリッターはオホンと咳ばらいをし、「血液提供の報酬代わりに教えてあげるわ」と話を続けた。


「『大陸』なんてないのよ。いえ、正確には『昔はあったけど、今はない』と言った方がいいかしら」


 それから続いたキロリッターの話を纏めると、以下の通りだ。

 かつて、魔王を名乗る存在により、この世界は恐怖に陥れられていた。

 人里を襲う軍勢。魔王の気まぐれひとつで齎される災厄。容易く奪われる命。

 世界が滅ぶまであと僅かかと思われたある日、救世主が現れた。

 その男の名はエデンといった。伝承においては剣に優れ、天使の寵愛を受けた勇者とされている。

 エデンは旅の途中で多くの戦士を仲間に引き入れ、ついに魔王軍の本拠地に突撃した。

 両者の戦いは熾烈を極めたが、最終的に勝ったのは勇者一行だった。


「この勝利が今から二十年前のことね。そして、世界から大陸がなくなったの」


「どうしてそうなるんだよ⁉ 勝ったのは勇者なんだろ?」


「魔王は最後の悪足掻きとして、世界にある陸地の殆どを道連れにして、地の底の冥界に消えたのよ」


「なんて傍迷惑な奴なんだ……」


「ええ、ほんとにね。おかげで地上は大混乱。次々と冥界に落ちていく大地や蠢く島々、それに巻き込まれる生き物たち。それまで魔王軍が齎してきた被害すべてを余裕で上回るくらいには酷い事件だったわ」


 キロリッターはそう言うと、体をぶるりと震わせた。見た目に寄らず長生きしている彼女にとっては、二十年前に起きた災害でも、つい昨日のことのように記憶に刻まれているのだろう。

 それにしても、大地の殆どが崩落したとは……ロータローがかつていた地球でも聞いたことのない大災害である。


「こうして後に残ったのは、更に広くなった海と小さな島々だけ。それまで使われていた世界地図は、一夜にして役に立たなくなったわ。これら一連の出来事こそが、通称『大いなる死』よ」


「なるほどな。色んな意味でスケールのデカい死だぜ」


 どうりで『大陸』と口にしたら笑われたわけだ。この話を知った後で考えてみれば、世間知らずが過ぎる発言だったのだから。ロータローは自分が笑われた理由について、今更ながらに納得した。


 そしてもうひとつ納得したことがある。

 それはキロリッターの旅。

 故郷の場所すら分かっていない里帰りなんて方向音痴ってレベルではないと思っていたが、『大いなる死』の話を聞いた限り、どうやら原因はそうではないらしい。

 大方、何かの用事で故郷を離れている際に『大いなる死』が発生し、そのまま離れ離れになってしまったのだろう。

 いや、どこかで故郷が小さな島として残っているなら、まだいいところだ。

 もしかしたらキロリッターの故郷は『大いなる死』に巻き込まれて、とっくに消滅しているのかも……なんて。

 そんな予想が野暮なことくらい、コミュ障のロータローでもわかっていることなので、わざわざ口に出して言わない。

 それに、この推測は『大いなる死』を伝聞の形で知ったロータローですら、すぐに思い至ったのだ、当の本人であるキロリッターなら、とっくの昔に考えているだろう。


 彼女はその上で、里帰りの旅に出たのだ。


「信じらんねえ……」


 ゴールが何処かも分からない。そもそも存在するかも怪しい旅。

 まさに彷徨だ。

 並の精神力では耐えられないだろう。


「なに? どうしたの、目をパチクリさせちゃって。新たな知識を授けてくれた私の姿にありがたみを感じたのかしら? まったくロータローってば、私に借りばかり作っちゃっているわね。次からは感謝の表れとして、血をもっと増量させておきなさい!」


「…………」


 ロータローの心情を露知らず、キロリッターは偉そうに鼻を鳴らした。


 こうして夜は更けていく。


 上陸の時は、あともう少し。

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