第49話

 俺が発電所から帰ってきて以来、スラムの周辺でゴキブリを見かけない期間がしばらく続いていた。でも最近は昔と同じようにゴキブリが出現し始めている。

 ただ、クララさんが設置してくれた監視システムのおかげで、スラムの人が不意にゴキブリに襲われる心配はほとんど無くなった。ゴキブリの出現パターンのようなものも分析されて、以前より効率よく柑橘類の木も植えられている。

 それら柑橘類の木を視界の中に入れつつ、俺はスタート地点だったビルを目指して走っている。最近運動をしてなかったから、すぐに息が上がってしまう。ゼーゼー言いながら走っては休み、また走る、を繰り返して進む。ビルの中で突然目覚めたはずのマイは、今どうしているのか。自分の身に何が起きたのかも分からずに、混乱していないだろうか。俺がたどり着くまで、その場でじっとしていてくれればいいんだけど。

 限界を超えるような走り方をしている。涙とよだれが溢れ出るのを気にせず、体は苦しいけど、そんなことはたいして気にならない。走れメロスもこれぐらい走ったのかも、という考えが自然に頭に浮かんで来て、ちょっと笑ってしまった。

 遠くに高いビルが見え始めて、そこでだいたいの方角と道を俺は思い出した。もうすぐだ。


 久しぶりに西新宿にやってきた。相変わらず凄い景色だ。高いビルがぎっしりと立ち並んでいて、そのすべてが廃墟だ。半分崩れたようなビルがたくさんある。……さて、スタート地点のビルはどれだったかな。俺は肩で息をしながらあたりを見回す。

 交差点の端っこに赤いものが落ちているのに気がついた。消化器だ。なんとなく武器になるかと思って、俺がビルの上で拾ったやつだ。47階から地上までわざわざ持ってきたけど、重すぎるからあきらめて捨てた。これがここにあるってことは……。目的のビルはそうだ、俺の目の前にあるやつだ。ついでに、スタート地点の階層が47階ってことも思い出した。素晴らしい。

 俺はビルに駆け込んだ。エレベーターはもちろん動かないので、階段を走って上る。と言いたいところだけど、もう体力の限界だ。這いつくばって、よろよろとよじ登るようにして上を目指す。辛くはない。嬉しい気持ちに焦りが混じって、それが俺の体を突き動かしている。ある意味、ハイになっている。足がつりそうになりながら、俺はついに47階に到着した。

 非常階段から転がり出る。ゼーゼー言いながら足を引きずって進む。昔の俺の足跡が、ホコリで真っ白な廊下の上に黒く残っている。まさか、ここにまた来ることになるとは思わなかったな。

 部屋の前まで来た。何も物音はしない。俺は一度大きく深呼吸してから、ゆっくりとスライド式のドアを空けた。


 ゴキブリだ。部屋の真ん中に、2メートルぐらいのゴキブリがいる。背中がスッと冷たくなった。嘘だろ……。絶望的な気持ちが押し寄せたその瞬間、ゴキブリの姿がフッと消えた。え? どういうこと? そしてゴキブリがいた場所に、いつの間にか倒れている人の姿があった。俺は駆け寄る。マイだ! だけど全裸だよ。素っ裸のマイの小さな体を、俺は自分の胸元に抱き寄せた。


「マイ! マイ! おい、生きてるよな? おい!」

 マイの体を乱暴にゆさぶった。口元に耳を近づけると……ちゃんと息をしてる! 生きてる!

「よかった……」

 涙が溢れ出て止まらない。俺、こんなに涙もろかったっけな。この世界に来てから、なんど号泣したんだろう。なさけない……けどなんか、思いっきり泣けるっていうのは悪く無いな。

「……タクヤ?」

 マイが薄く目を開いた。

「マイ! 大丈夫?」

「うん……。私、生き返ったのかな?」

「あ、うん。そう、生き返ったみたい。おかえり。体は大丈夫? どこか痛かったりしない?」

 涙でぐちゃぐちゃになりながら、俺は笑顔で言った。

「大丈夫。だけどすごく眠いの。あと、ちょっと寒い」

「あ、ごめん。今上着を着せるから」

 俺は自分の上着をマイに着せた。俺のはサイズがでかいから、一応これで下まで隠れる。

「心配かけてごめんね。というか……私死んじゃったもんね。最後死んじゃうときにね、タクヤがすごく悲しむだろうなって思ってたの。本当に辛かったでしょう? ごめんね」

「うん……」

 俺は震える声で言った。

「ごめん……。私、もうちょっと寝りたい。今、『はだかんぼう』なのも気にならないくらい、眠いの」

「うん。眠りなよ。俺、ずっとここにいるから」

 俺がそう言うと、マイがニッコリと笑って目を閉じた。俺はちょっと心配になって、マイの口元に耳を近づける。……大丈夫。ちゃんと息をしてる。マイが生きてる……。

「ねえ」

 いきなりマイが目を開いたのでびっくりした。マイの体を取り落としそうになってしまった。

「どうした?」

「私ね、生き返る前に白い部屋にいたの。タクヤに聞いてた転生の話と似てるよね。それで『すきるがちゃ』っていうのをやらせてもらったよ。子供達の面倒をたくさん見たから、そのご褒美なんだって。意味はよく分からなかったんだけど……くじ引きみたいなものだよね」

「あ、そうなの? それはなかなか気が利いてるな。それで? どんなスキルをもらった?」

「『ゴキブリの変異種に変身できる』だって。それでレアリティが『エスマイナス』だって。これって凄い?」

「……凄いよ。マジかよ」

 あれ、まてよ。だとすると、さっきのゴキブリはマイだったのか。これは凄い……っていうか、なかなか酷いな。俺の恋人はゴキブリに変身できるようになったのかよ。

「やった! 私、ゴキブリと戦えるかもね! すごいスピードで走ったりもできるかも」

 にっこりと笑ったマイが可愛すぎる。ゴキブリに変身できることを純粋に喜んでいるみたいだ。まあ、生き延びる上では、相当有用なスキルであることは間違いないだろう。ただねぇ……いろいろ大変なことも起きそうだけどな。

「うう、眠い。もっとタクヤとおしゃべりしたいのに……」

 マイが目をこすって辛そうにする。

「いいから! おしゃべりはあとでたくさん出来るよ。今はゆっくり休んでよ」

 俺は言った。そしてマイのおでこにキスをした。マイが嬉しそうに微笑んで、目をつむった。なんという可愛いらしさ。

「……タクヤ」

 マイが目をつむったままつぶやいた。

「うん」

「さっき頭の中に聞こえたんだけど、ロッチーって言う人が……遊びに来て欲しいんだって。タクヤと私とね……一緒に来てねって。タクヤは友達だし……私とは仲間だって言ってた。……でもロッチーって誰かなぁ。優しい声だったけど……」

 マイがそこで力尽きて、小さな寝息をたて始めた。

 ロッチーさん……。マイと通信が出来るのかよ。つまりそれは、マイがゴキブリになったから、ということなのか。まいったね。なかなか凄すぎてちょっと笑ってしまう。涙がいつの間にか乾いていた。


 マイの体を抱えながら、俺はビルの外の風景をぼんやりと眺める。まだ明るいけど、暗くなるまでにスラムに帰らないとな。マイを背中におぶって帰るとして……。マイが生き返ったことをどうやってみんなに説明しよう。これ、結構大変じゃね? 紗季さんに相談して、「教会の奇跡」みたいにできないかな。いや、そんなんで受け入れてもらえるかな……。

 あと、寝ている間にマイが無意識にゴキブリに変身するとか、普通にありそうな気がする。マイのスキルがどういう仕組みになっているのか、今のところまったく分からない。そこらへんは一度、コズエ先生に相談したほうがいいかもしれない。近いうちに、マイを連れてキタムラ医院へ行こうか。この際、スキルや転生の話もすべてしてしまって、協力を仰いでみるべきかな……。それもまた大変だろうなあ。ただ、先生とクララさんならあっさりと受け入れてくれて、面白がってくれそうな気もする。


 やらなきゃならない事がたくさんある。だけどこれでようやく、俺はマイと一緒に落ち着いた生活が始められるはずだ。みんなで頑張って、カレーの屋台を繁盛させよう。物資の研究をさらに進めて、俺は最高のカレーを作りたい。試してみたいことがたくさんある。

 ……それでは。そろそろマイを背負って、47階から地上まで階段を降りますかね。もう俺の体力はゼロに近いんだけど。これまた、なかなかのベリーハードですね。

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