どじょう
藤光
どじょう
バスは通り過ぎていったばかりだった。時計と時刻表を見比べると次のバスまで三十分以上ある。かんかん照りの道端にはバス停を示す標識があるほかは雨よけもベンチもない。
――こういうところはまだ田舎だな。
日陰を探して歩き始めると、ものの数分もしないうちに焼けたアスファルトに向けて汗が滴り落ちはじめた。すぐさまスーツの上着を脱ぎネクタイを緩める。
今年の夏は格別に暑い。
バス停のすぐそばからバス道に沿ってずっと続く桜並木が、わずかな木陰を道に投げかけているが、強烈な照り返しのためかまったく涼しさは感じられない。仕方がないのでぐっしょりと汗で体を濡らしたまま、勇一は歩き続けた。けたたましいセミの鳴き声が降り注ぐシャワーのようでうんざりする。
故郷に戻ってきたのは、二十年ぶりだった。バス道沿いの景色は、限りなく懐かしく、それでいてあまりにもよそよそしい。
――おまえだれや。なにしにきたんや。
離れているうちに変わってしまった故郷の景色に咎められているようで、落ち着かない。
「ぼくや。帰ってきたんや」
小さくつぶやいてみる。ばかばかしい。でも、お前なんか知らんという声は聞こえてこなかった。
信号のない交差点を左に曲がると、長い下り坂があって視界が開ける。子供のころは、坂の両脇に広々と続いていた田畑は地上げされて戸建やハイツ、駐車場に変わってしまっていた。
――こんなに家が建ってしまって……。
ここは世間の住宅不況とは無縁らしい。所狭しと家々が立ち並ぶ様子に、ここに自分がいなかった年月を感じた。
ここは、勇一の知っているふるさとではない。
昔水田の隅にあった大きな肥溜めが今はコインパーキングのゲートに変わり、ぴかぴかのベンツが停められているのを見るに及んでは、そう感じざるを得なかった。
「なにしに来たんや」
実家を継ぎ、老いた父と母の面倒をみている弟の刺々しい声が耳によみがえる――。二十年ぶりに実家を訪ねた勇一を、弟は野良犬を追うかのように家から追い出したのだ。
「あのな、耕二……」
「お前には、お前の家族と生き方があるやろ」
石のような言葉を勇一に投げつけて、弟は玄関の戸を閉じた。そうなのだ。
――おれには、おれの家族と生き方がある。
そう啖呵を切って自分の人生から故郷を切り捨てたのは、何年前――幾つのときだったか。弟は決して忘れておらず、そっくりそのまま兄に投げ返しただけだ。弟は悪くない。
勇一が自分の人生のために選んだ東京の会社から、昨日、転勤の内示があった。
「榎本、転勤だ」
同期の出世頭、人事部長の伊藤からそう告げられたのは、朝のミーティングを終えて部下たちを営業に送り出した十時過ぎのことだった。
「えっ」
とっさには、なんのことだか分からなかった。勇一のオフィスは冷房がよく効いていて寒いくらいだった。
「札幌支社だ」
札幌――。自分の人生には無縁の地名だ。少なくとも、たった今まではそうだった。
「しかし……」
「今朝の役員会での決定だ。異動日は――すまない、八月一日だ」
カレンダーを見るまでもない、今日は七月二十五日。一週間後だ。おまけに、今回の転勤は昇進を伴う異動ではないという。
「通例なら支社への異動は昇進を伴うものだろう?」
同期の気安さもあり、普段は聞けない突っ込んだことまで尋ねたが、伊藤の回答は期待はずれだった。
「通例ならな。向こうの課長席が急に空いたんだ。すぐにも措置しないとだめなんだ」
「今回の異動は『繋ぎ』ということか?」
「おれはそう考えているが……」
伊藤は言い淀む。
『おれは』というのは、同期としての伊藤秀樹はそう考えているが、人事部の伊藤部長としては、そうとは言いきれないということだろう。
札幌支社は、構造的な採算割れ部門を数多く抱えていて、グループ内に慢性的な赤字を垂れ流し続けている。政情が変わったことによる為替の円高傾向が本社の業績をやせ細らせる中、不採算部門の分社化――ありようは赤字部門の切り捨てだ――が、役員会の議題とならない日はないという噂だった。
さまざまな噂が飛び交っているが共通するのは「いずれにしろ、真っ先に切り捨てられるのは札幌支社だろう」という結びの言葉だった。
――その札幌支社に、おれが。
本社から地方への異動は『繋ぎ』でなければ三年間が通例だ。その三年の間に札幌支社が切り捨てられない保証は全くない。分社化の際、本社に戻れるのは部長級以上というのが社内のルールだ。課長である勇一は分社化されれば札幌支社に残されることとなる。
去年、ローンを組んで都内にマンションを買ったばかりだ。来年には娘の高校受験も控えている。
――おれの家族や人生設計はどうなるんだ。
目の前が真っ暗になるとはこういうことか。
「伊藤――。お前の力でなんとかならないのか」
すがりつくような勇一の声に、伊藤の目は一瞬たじろいだが、すぐさま人事部長として厳しさを取り戻した。
「これは決定事項だ、榎本」
「せめて繋ぎだと約束してくれないか」
人事部長である伊藤には、それだけの力がある。問題は――これがリスクをとるに足りる案件かどうかだ。
「異動日まで時間がないのは申し訳ないと思う。引き継ぎは間違いのないようにしてくれ」
「伊藤!」
人事部長は『榎本勇一』というリスクを排除した。勇一が差し伸べた手を振り払うようにして、伊藤はオフィスを出ていった。
無様だ。
せめてもの救いは、部下たちが営業に出払ってオフィスにだれもいなかったことくらいだろうか。この日は長い長い、永遠に続くかと思う一日となった。
「無理!」
家族そろっての夕食後、札幌支社へ転勤になるという話を聞かせると、途端に妻の絵美は目を釣り上げて叫んだ。
「何バカなこと言ってんの! この家はどうなるの? 早希の受験はどうなるの? 札幌支社って倒産するんでしょ! 絶対、無理!」
「あたし北海道好きだよ」
「あんたは黙ってな!」
首をすくめて麦茶の入ったグラスに口をつける娘の早希は苦笑い。妻の剣幕にダイニングは真夏にもかかわらず凍りついた。
「どうして断らなかったの!」
「ばか。断ればクビだぞ」
「向こうに転勤しても、転勤先が倒産じゃ同じことよ!」
妻には札幌支社が潰れるものという誤った思い込みがあるようだ。
――倒産すると決まったわけじゃない。
誤解をときたいという思いにかられるが、取りのぼせた妻には何を言っても無駄だということは、結婚生活で得た教訓のひとつだ。
「私、行かないから。断れないんなら、ひとりで行けば?」
「ええっ!」
声をあげたのは早希だった。娘は、ひとりで北海道なんて、お父さんが可哀想だよ、などと言ってくれるが……。
「なに言ってんの。中学三年のこの時期に転校できるわけないでしょ!」
あんたは自分の部屋で勉強してきな――。早希はダイニングから追い出されてしまった。生ぬるく刺々しい空気が支配する空間に、妻とふたりきりで取り残される気分はなんとも形容しがたい。
「伊藤さんも、伊藤さんだわ」
早希の姿が見えなくなると、絵美の怒りの矛先が少し変わった。
「あなたの同期じゃないの。潰れる支社に転勤させるなんて、友人としてとんだ裏切りだわ」
確かに、今回の件で伊藤は冷たかった。ただ、勇一が伊藤の立場であってもそうしただろうと思う。友人とはいえ、私情を排さねばならないとこともある、会社勤めとはそうしたものだ。
「よりにもよって、なぜあなたなの? ほかにも課長はたくさんいるでしょうに」
「……」
そういえば絵美のいうとおりだ。課長はほかにもいる。どうして勇一なのだろう? 転勤の内示を受けても「なぜ自分なのだろう」とは深く考えなかった。妻が感情を爆発させたように何故だと疑問に思い、どうしてだと悔しがることもなかった。それとも、そうでないからこそ、転勤異動に勇一が選ばれたのかもしれない。会社にとって都合のいい――言葉を替えるなら、会社に飼い慣らされた――社員として勇一が選ばれたのだ。
「とにかく私はいや」
「絵美」
「なんでも会社のいいなりな、あなたがいやなの!」
妻とは話し合いにならなかった。なんのために、だれのために言いなりになってきたと思うんだ――?
しかし、勇一は思いを言葉にすることなく飲み込んだ。そのために尽くしてきた会社が、勇一に報いてくれたものが札幌支社への転勤だとするならば、それはあんまりだと気付いたから。
その夜は眠れなかった。
翌日。
――行ってきます、とマンションを出たものの、勇一が乗ったのは本社へ向かう地下鉄ではなく、東京駅へ向かうJRだった。新幹線に乗り換えて西へ向かうこと四時間あまり、勇一は故郷の町に立っていた。
四時間。
二十年間、一度も帰ることのなかった故郷は東京から半日もかからない距離にあった。ずっと――。ずっと遠いところと思い込んでいたのは、時間的な距離ではなく心理的な距離だったのだ。勇一と故郷の両親や兄弟との。
諸手を上げて歓迎してもらえるなどとムシのいいことを考えていたわけではないが、弟の耕二に鼻先で玄関の引戸を閉じられて目がさめる思いがした。
――おれには、おれの家族と生き方がある。
父が倒れ、その看病に母が体調を崩したときに、思い余って連絡してきた耕二に勇一が叩きつけた台詞だ。
あのとき……。
――親父が倒れた。
――おかんも寝込んでしもうた。このままやったら、この家がだめになってしまう。兄ちゃん、帰ってきてくれ。
耕二の切羽詰まった様子は、電話口から十分伝わってきたが、しばらくは何も言えないでいた。
職場では主任となり、初めて大きなプロジェクトを任され、家庭では結婚四年目に、はじめての子供を授かるというタイミングでの出来事だった。いま仕事を辞め、実家へ戻るという選択肢は勇一にはとても考えられない。弟の声は、疫病神のささやきに聞こえた。
――おれだけやったら、どうにもならん。こっちへ戻ってきてくれ。
そのときの勇一には、弟の自分勝手な言い分に聞こえた。
――この家の跡取りは、兄ちゃんやで。
『跡取り』か、いまどきそんな言葉で人を縛ることができるとは、それまで思ってみもしなかったが、いざその言葉を投げかけられると勇一は激しく動揺した。
家を離れ、家業を投げ出し、老いた親を放って都会で生活する自分が、とても卑怯に思われた。
これから都会で手に入れようとしている地位を捨て、家族と共に故郷へ戻れと、弟が、両親が、そしてなりより自分自身が――勇一に迫り、追い詰めてくるようで息苦しい。恐ろしい。
――兄ちゃん。
逃げ出したかった。
「もうおれは耕二たちとは、別の家族やろ。それはそっちでなんとかしてくれや。おれにはおれの家族と生き方があるんや。もう連絡してくるな」
電話を切った。その後も何度か、耕二からの着信があったが二度と電話に出ることはなかった。そうだ、あれからもう十五年以上経つ。
自業自得とうなだれて実家の玄関に背を向けた。引戸が閉められる前に、奥の廊下から銀色に光る車椅子が出てくるのをわずかに見ることができた。暗い廊下から不審そうに玄関の様子を伺っていたのは、老いて小さく痩せてしまった母親だった。玄関で耕二と押し問答している相手が、遠い都会からやってきた息子だと気付いただろうか。二十年ぶりに会う親と言葉を交わすこともできない。
情けない――。
暑い。いやになるくらいに暑い日だ。アスファルトに陽炎が立つのか、向こうに見える家々が揺らめいて見える。それとも、暑さに目が回っているのか。ゆらゆらぐらぐら、もうどうだっていい。朝から何度も携帯に着信があるのは会社からだろうが、それもどうだっていい。なんだかとても疲れた。
見知らぬ町を行く人はいない。
坂を下りきった一角にコンビニエンスストアがあった。客はいない。勇一が家を離れたときは、実家の田んぼだったところである。耕二が売ったのだ。自分の家の田んぼが知らぬ間にコンビニになっているというのは不思議な感覚だった。子供の頃、泥まみれになって田植えや稲刈りを手伝った記憶は、ここにあった田んぼと分かち難く結びついていたはずだが、都会でも見慣れたコンビニの外観からその思い出を想起することは難しい。ここからは勇一の過去が削り取られてしまっていた。まるで故郷が勇一を忘れたがっているかのように。
このコンビニの向こうに見える丘は、春には父と、つくしやぜんまい、竹の子を採りに入る、村の里山だった。いまは巨大なコンクリートの擁壁をさらした不動産業者の分譲地に変わってしまっている。
この里山を取り囲むように広がっていた田畑のうち、まだ耕作されているものはわずかだ。あらかたは宅地化されているか、耕作が放棄された空き地となっている。
――何もかも、なくなっていくんだな。
ショベルカーやトラックが土煙を上げて行き来する分譲地を見上げながら、ひたいの汗を拭う。汗が目に染む。コンビニで冷たいポカリスエットを二本買うと、レジ袋を手に勇一はふたたび歩き始めた。
コンビニの裏手、いまは不動産業者によって開発されてしまった里山の麓にお堂がある。お地蔵さまが納められた小さなお堂だ。勇一が子供だった頃は、一面に田んぼが広がる中にぽつんと立っているのがよく目立ったが、いまは押し合いへし合いしている住宅の向こうにかくれてしまって見えない。いまでもあるのだろうか。
――あった。
住宅地沿いに流れる川のほとり、かつての里山を背に、きれいに整地された一角にお堂はあった。
――きれいにしてもらっている。
勇一の記憶では、お堂はもっと古くてひとまわりは小さかった。玉垣が巡らされた境内も広くなって、ベンチなんかが置かれている。この辺りが住宅地として開発されたときに、お地蔵さまが納められたお堂も新しくなったのだろう。
わずか三段の石段を上る。真夏の炎天下、木の一本も生えていない境内に人などいない。木製のベンチも強烈な日差しの中で白っぽく見える。
お堂の前にしゃがんで中を伺うと、昔と変わらずお地蔵さまだけは暑さを感じさせず涼しげに佇んでいた。中にはひと抱えほどはありそうな石板が据えられていて、地蔵菩薩が薄っすらと浮き彫りになっている。凝灰岩でできた石板はもろく崩れて、その表情はおろか、姿形もおぼろである。子供の頃は、本当にこれはお地蔵さまかと疑問に思っていた。
それが今日はやけにはっきりと見てとれる。右手の錫杖、口元のかすかな微笑み、視線は伏せられているようでいてまっすぐ勇一に向けられていた。
お地蔵さまの前に、コンビニのレジ袋から取り出したポカリスエットのペットボトルを一本供える。水滴が滑り落ちて、色あせた白木の板にじわりと滲んだ。
――ご相伴。
その場でもう一本のポカリスエットを取り出し、ペットボトルのキャップを勢いよく開けた。しゃがんだまま一気に飲み下す。
ぷはあ。
大きなため息が漏れた。
うまい。五臓六腑に染み渡る――とはこのことか。続けざまにのどを鳴らして飲み干した。
ぐいと手の甲で口元を拭うと、手を合わせ、そっと目を閉じた。小さな境内は、遠くの街路樹からセミの鳴く声が小さく響くほか人や車が行き来する音もない。
静かだ。声が聞こえる。
――転勤だ。札幌支社だ。
昨日からずっと耳の奥でリフレインしている伊藤のフレーズだ。妻のつぶやきが続く。
――会社のいいなりの、あなたがいやなの。
会社から逃げ出しても、家から逃げ出しても――遠く故郷まできても、声は勇一を追ってやってきた声。この声を連れてひとり、おれは札幌へ行くのか。
もう、うんざりだ。
そのとき、突然の風にどっと吹かれて体がよろめいた。今まで、そよとも風のなかったのが嘘のように強い風だった。耳元でごうごうと空気が渦を巻き、横殴りに砂つぶが腕や頬を打つ。目を開けることもできない。勇一はスーツの上着をひっかぶってやりそごそうとしたが、強い風に、肩にかけていた上着はあっという間にさらわれてどこかにいってしまった。
ずいぶん長い間――それでも、一分は経たなかっただろう――吹き荒れたように感じた風は、起こったときと同様唐突に止んだ。あまりに急に止んだものだから、静けさが耳にしんと浸みた。
頭を抱えてうずくまっていた勇一が、腕をほどいて立ち上がると――。
「あ……れ?」
お堂がひと回り小さくなっていた。屋根を支える柱や梁も煤けて黒く汚れている。それより何より、お堂の向こうに見えるのがコンクリートの擁壁ではなくて緑の竹やぶだ。
視線を巡らせると境内もひと回り小さくなって、ベンチはなくなっていた。境内を取り巻く玉垣も先ほどまでの白々とした御影石でできた立派なものではなくて、痩せてくすんだ凝灰岩でところどころ倒れている。
――ここから出入りしていた。
たしか子供の頃は、こんな風に玉垣の崩れたところから出入りしていたように思う。そして、その玉垣の向こうには……、青々とした水田がどこまでも続く光景が広がっていた。
お地蔵さまのお堂は、昔、里山の麓、小川にほとりにあった。一面の田んぼに囲まれていて、村からお堂を眺めると稲の海の向こうに浮かぶ灯台と島のように見えた。
それは昔のことだったはずだ。
しかし、いま勇一の目の前には青々とした水田どこまでも広がっていて、それが穏やかな風に波打つように揺れている。振り返ると、坂道を上った高台に家々の屋根をはるかに望むことができた。すると……。
ううう――。
風に乗って長い吹鳴音が聞こえてきた。村の公民館に設置されている正午を報せるサイレンだ。サイレン? サイレンは勇一が中学校に上がった年に公民館から取り外されたはずだ。それが今、緑に波打つ水田の上を渡り響いてくる。坂の上の集落からお堂まで人家はひとつも見当たらない。遮るもののない空は広く蒼く、むくむくと沸き立つ入道雲の白さが眩しい。
懐かしい光景だ。
もうずっと昔に失われて記憶の中にだけ残っていた景色が、いまが眼前に広がっていた。手に触れることもできる。ざらついた玉垣に手をかけて、勇一は境内から下りた。
水田はどこまでも広がっている、背後の里山のような丘が正面にひとつ、左手の奥にもひとつあるほかは、一面の田んぼだ。青々とした稲の海だ。
お堂の脇を流れている小川もコンクリートで塗り固められておらず、ところどころ石積みで護岸してあるだけ。小川に沿って轍が正面の丘へと続く農道は、舗装されていないがきれいに草が刈り込まれていて、さくさくと草を踏み歩く音が耳に心地よい。
なによりひどい暑さを感じない。
「どいて!」
黄色いタンクトップに紺色の半ズボン、緑のたも網を手にした男の子が勇一をすり抜けるようにして追い越し、あぜ道を走っていった。まだ小学二、三年生くらいか、ペタペタ――駆けるたびにサンダルが男の子の足の裏を打つ。
「おにいちゃん」
声に振り向くと、ひと回り小柄な男の子がべそをかきながらやってくる。走っていった男の子とおそろいのタンクトップに白い半ズボン、その足元は――おやおや。裸足だ。
「まってよお」
たも網をもって駆けていった男の子は、この子の兄なのだろう。日に焼けた弟の顔は、どこで遊んできたのか泥と涙でぐちゃぐちゃだ。
兄を追って弟は、勇一の脇をちょこちょこと走っていったが、ものの数メートルと行かないうちに草に足を取られてつんのめるようにして転んだ。手にしていた青いバケツが、転んだ拍子に乾いた音を立てて勇一の方へ飛んできた。男の子のは途方にくれた表情でバケツを見、農道の草の上に座り込んでめそめそ泣き始めた。この子の兄が戻ってくる様子もない。
「ぼく、大丈夫か」
バケツを拾い上げると思わず声をかけた。まだ小学校に上がる前の四、五歳くらいだろうか。肩の細い華奢な男の子だった。裸足のくるぶし辺りに少し血が滲んでいる。草で切ったのだろう。
「じっとしてな」
ポケットからハンカチを取り出すと、泥をぬぐい細い足首に巻きつけた。男の子は目をまんまるにして勇一を見ている。
「靴、どうした」
「……ぬげた」
男の子が指さす方向に視線を巡らせると、二、三十メートルほど離れた農道の轍の上に黄色いサンダルがふたつ、ひっくり返って転がっていた。歩いていって拾い上げる、踏みつける部分に『ドラえもん』が描かれている小さなサンダルだ。鼻緒はしっかりしている、ちぎれたわけではなさそうだ。
男の子の元へ帰ると、まだしゃがんだまま鼻をすすっていたが、勇一が手にしたサンダルを見ると「ぼくのや」と表情を明るくし、奪うようにして受け取った。いそいそとサンダルを履くと、すぐさま駆け出そうとする。
「まてまて、顔が泥だらけだよ」
手を取って立ち止まらせると勇一はその場にしゃがんで、顔や手足に乾いてこびりついた泥を払ってやる。ぱらぱらと白っぽい泥が落ちて男の子の素顔が現れた。おや、鼻の頭にあるこの小さなほくろは――。
「おにいちゃん!」
この鼻のほくろは弟と同じだ。まだ幼いが、顔だちもよく似ている。
「コウジ!」
耕二……か?
勇一の手を振り切って、ぱっと立ち上がった男の子はたたっと二、三歩走って、兄の紺色の半ズボンに取り付いた。見ると険しい目つきで弟と勇一をかわるがわる見比べる男の子が立っていた。
「コウジ、だれだ?」
「しらない……」
兄のズボンに顔を埋めるようにして、声を震わせている弟。怯えている弟の様子に兄は声を尖らせた。
「おっちゃん、だれや? コウジになにしたんや」
ひょろりと伸びた手足、丸刈りの頭、よく日焼けした顔の男の子は、弟より頭ひとつ分は背が高い。真っ黒な顔の中で右の目尻の脇がかすかに白っぽいのは、三歳の誕生日にふざけていてタンスにぶつけ、三針縫った跡だ。目立たなくなったが、四十年以上経った今も小さなひきつれが残っている。
「コウジくんが、転んだから手当してあげたんだよ」
本当のことだ。足首に巻いたハンカチを指し示すと、男の子はちらと見てやや表情を和らげた。
「……おっちゃん、だれ?」
「お父さんの友達だよ」
必要な嘘だ。
「ユウイチくんだよね、そっちは弟のコウジくん」
「ぼくらのこと、知ってるの?」
「もちろん、榎本勇一くんと耕二くんだろ」
自分たちの名前を言い当てられて納得したのだろう、いままで知らない大人――勇一を警戒していたユウイチの態度が一変した。咎めるようだった目つきは、無遠慮に詮索する視線に変わり、まだまだ幼い声は好奇心が隠しきれない。
「おっちゃん、東京の人なんか?」
ああ、そうか。標準語で話していた。勇一はもう意識しないと関西弁で話せない。
「なにしに来たんや?」
ユウイチの質問は矢継ぎ早だ。
おれは、なにをしに来たんだろう。それとここは……どこなんだ? ユウイチとコウジ、ふたりの視線、よっつの目玉が勇一を凝視している。
「久しぶりに……帰ってきたんだよ。今は遠い場所に住んでいるけど、おじさんが生まれたのはここなんだ」
本当のことだ。
「へえ。遠い場所に住んでるって、またそこへ帰るんか?」
質問が止まらない。思わず苦笑してしまう。
「帰るよ。それからもっと遠くへ行くのさ」
そう。遠いとおいところ。いままで思いもしなかった遠いところへ行くんだ。
「もっと遠くってどこ?」
「北海道」
「ホッカイドウ?」
勇一と兄のやりとりしているのに興味をもったのか、ユウイチの陰に隠れるようにして聞いていたコウジがおうむ返しに尋ねる。
「コウジ、日本のいっちばん北にある県や」
「へえ」
「ごっつい、ごっつい広いんやで」
「へえ~!」
勇一に代わってユウイチが両手をいっぱいに広げて北海道を説明するのをコウジが目をきらきらさせて聞いている。
「どうやっていくの?」
「飛行機だよ」
「ヒコーキ!」
「おっちゃん、乗ったことある?」
「もちろん」
今度は、二人そろって尊敬のまなざし。ついさっき会ったばかりのおっちゃんを見上げている。勇一は、ふたりの頭にそれぞれ手を置いてその場に座り込んだ。尻の下に感じる夏草の感触と強い草の匂い、子供たちがいま強烈に生きている世界を感じる。
勇一とユウイチは話し始めた――。なんで北海道へいくの? 会社がね、転勤するんだよ。会社って東京にあるの? そうだよ、東京にあるんだ。東京も遠いんやろ、人がいっぱい住んどるんやろ? 遠いよ新幹線に乗らないと来れないよ。それに大都会だからね、人もクルマも電車もいっぱいさ。ぼく転勤知ってるで。社宅に住んでるケンちゃんは福岡から転勤してきたんやて。新しいおもちゃとかな、五段変速の自転車とかな、いっぱい持っとるんや。そうか、おじさんもケンちゃんみたく転勤するんだよ。おもちゃは持ってないけどね。
「そうか。すごいんやな! おっちゃん」
ユウイチの言葉に胸を衝かれた。この子にとって、東京の会社に勤めていて、特別でもなんでもなく飛行機や新幹線に乗っている勇一という大人は、なんのてらいもなくすごい人なのだ。
「すごいかな」
「うん。すっごいで!」
なんだか初めて人に認められたような気がして、鼻の奥がツンとなった。涙がこぼれ落ちないように上を向くと、遮るもののない広い夏の空が広がっていた。
ユウイチたちは田んぼの用水路にどじょうを探しにきたらしい。
「コウジがな、どじょうを見たことないって言うんや」
「みたことない」
「そやから、見せてあげるんや」
どじょうなど、勇一にとってはその人生から影も形もなくなった生き物だ。大都会の川にどじょうの姿はない。コンクリートに固められた故郷の川からもいなくなったかもしれない。
人生のいっとき、どじょうやざりがにが勇一の生活の一部として確かな存在感を持っていた時期があった、いまのユウイチのように。でも、いつの間にか興味がなくなり、あやふやになって気がつけばいなくなっていた。
自分もどじょうが見たいと言うと、ユウイチは小さな胸を膨らませて「ええよ。付いて来て」と請け合った。
――行くで。
たも網を右手の持ったユウイチが弟の手を引いて走り出した。コウジはその手を離すまいとしっかり繋いで兄を追う。本当はそんなにどじょうが見たかったわけではなかった。ただ、少しでも長くこの夏空の下の光景を見ていたかっただけだ。いつまでも感じていたかっただけだ。
幼い兄と弟は、白い轍がどこまでも続く夏の道を駈けていった。里山の向こうから大きな入道雲が姿を現している。今日は夕立があるかもしれない。
着信音にメールを確認する。お父さんだ。
一目みて、げっと思ったけれど、早希ひとりで騒ぎ立てるのもなんだか変なので、首をひねりながらリビングにお母さんを探した。――いるいる。
「どうしたの」
テーブルに肘をつき、せんべいをかじりながら録画したドラマを見ていた。フローリングに洗濯物が小山になっているところを見ると、ベランダから取りこんで一息ついたところらしい。窓の外は雨で、結構な吹降りだ。
「お父さんから写メきたんだけど」
「どんな――。でも仕事中よ」
とにかく見てみてよと、お母さんにスマホを渡す。テーブルの上にはいくつか雑誌が広げられていて、籠からせんべいをひとつ摘んで早希も椅子に腰を下ろした。
「げ」
お母さんもリアクションは早希と同じだね。せんべいをかじりながらにまにま笑ってしまう。
「何よこれ。どじょうじゃない」
「やっぱり?」
早希のスマホに送られてきたのは、バケツに入れられた寸詰りのヘビのような魚の写真だった。どじょうだよね、どう見ても。
「何考えてんのかしら」
昨日の夜、お父さんに冷たく当たったからその仕返しかもね。お父さんにだけは素直じゃないんだから、変なお母さん。
テーブルの上に広げられている雑誌の記事に視線を落とすと、夏休みの旅行特集だね。見出しの大きな文字が目に飛び込んでくる。
大通公園、函館山……、旭山動物園?
やっぱりそうだよね。朝から何冊も買いこんできたと思ったら……。素直じゃないなあって、お母さん自分のスマホをチェックして「ここにも!」って叫んでるよ。あはは。
お父さん――。早く帰ってきなよ。
どじょう 藤光 @gigan_280614
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