美月の勘
太郎がロールケーキを携えて桜子の前に立った。桜子に贈るためのロールケーキであり、さくらに貢ぐためのではない。太郎はまださくらが桜子だと気付いていない。太郎は緊張していた。
「ははっは、はじめまして! 佐倉太郎といいます」
「! はじめまして。あれ、そのロールケーキ、ありがとう!」
さくらが半ば強引にロールケーキを奪った。太郎は本当は幼馴染に用意したものだということをさくらに伝えられなかった。
(ぷっふふふ。タロったら、全然気付いてないわ。私に夢中じゃん)
「あぁあ。それは、その……。」
「えっ?」
「はい。時間でーすっ!」
(桜子のためのだったのに、仕方がない。またあとで買おう)
太郎の思惑通りにはいかないようだ。
太郎が2回目の握手を終えたとき、ファンの集団が現れた。彼らは、ロールケーキの美味しい喫茶店へ行き、ロールケーキを買い、ATMに寄り、現金を引き出して帰って来た。無論、桜子と握手するためだ。田中も混ざっていた。
「ロッ、ロールケーキ! プレゼントです」
「では、こちらにお並びください」
その集団は、係の人の案内に従順だった。素早く列を作ると、順番にロールケーキを手渡し、握手券を受け取った。同時に現金でも握手券を買い取った。そして、今度は握手会の列にと並んだ。そして10秒に1人が順に桜子と握手した。
「田中雄大。高2です。イロモノかと思ってたので、びっくりでした」
「今度は和太鼓の演奏するから、楽しみにしててね」
「はい、時間です」
「はじめまして……。」
……………………。
太郎には、見ていることしかできなかった。それでも太郎は楽しかった。少しでもさくらさくらのそばにいるのがうれしかった。夢中だった。さくらさくらがまさか桜子とは思っていない。桜子のことも明菜のこともすっかり忘れていた。
同じ頃。直ぐ近く。小さなライブハウスのホール。ステージには14人のアイドルが立ち尽くしていた。人気急上昇のぴえんぴえんのメンバー。笑顔を振りまくどころか、曲を披露することもなかった。観客が0名では致し方ない。
「どっ、どういうこと」
「こんなこと、どうしてっ」
「みんな、ついて来てくれるって言ってたのに」
「さっきまでいたわ。ピンクのシャツの人、歩いてた」
「なのにこんなこと。ひどい」
1人、2人と膝をついて泣き崩れた。この日は絶対的エースの三枝ひえんを家族旅行で欠いてはいたものの、渋谷で午前中に出演したライブには80人を集めている。今日参加したメンバーも自信に満ちていた。
ライブ系アイドルは、土日祝日ともなれば1日に2・3ヶ所のライブを掛け持ちすることは珍しくない。この日のぴえんぴえんは、渋谷・原宿・新宿と、山手線を北上して3ヶ所を巡る予定だった。
その予定はSNSで公開される。ファンはそれを見て参戦を決める。付いてまわると公言するファンも少なくなかった。
それが、どうだろう。2ヶ所目となるここ原宿には、誰もいないのだ。ぴえんぴえんのファンだけではない。DDと呼ばれる推しを持たないファンもいない。前代未聞の事態だ。
結局、誰も歌いも踊りもしなかった。不幸中の幸いといえるのは、ファンが誰もいなかったこと。ステージ上であっても、ファンが誰もいなければ、楽屋と同じようなものだ。ぴえんぴえんの悪評が広まるということはなかった。
水森邸。築20年ながら手入れが行き届いている。その当時から分煙という発送を持ち込んでいたのは家主の渡辺の先見の明による。
松田が渡辺と広い喫煙所に行っている間、明菜と美月は2人きりになった。そのときに美月が明菜に言った。
「明菜。松田さんには気をつけるのよ」
「どうして? 親身になってくれるし、とってもいい人に思えるわ」
「それは仕事。決して貴女への好意ではないわ」
「分かってるわ。私だってもう子供じゃないもの」
「でもね、私の勘が松田さんを危険人物だと告げてるの」
「言い過ぎよ! 何を根拠に?」
「だから。勘よ、勘!」
「大丈夫よ。私だってビジネスパートナーだって割り切ってるわ」
「それだったらいいけど……。」
「それに私には、ロウくんがいるものっ!」
「あら? 別れないの?」
「松田さんは、私たちの恋も応援してくれるのよ」
「そう。そうね。私ったら心配し過ぎねっ」
美月はうなずきながら言った。明菜が松田と仕事をすることが不安ではあったが、明菜に太郎がついているなら大丈夫だろうと、自分に言い聞かせるように。
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