他者性の人工言語論

Fafs F. Sashimi

#0 巨人・加速・死者


 ツイッターの人工言語界隈と接触するのをやめたのはいつ頃からだっただろうか。昔はあれだけ人工言語界隈の人間たちと言語に疎いマグルの言葉を見つけては煽り尽くしたというのに、手切れはあっけなかった。若気の至りというのも永遠には続かない。ふと、知識マウントを取ることに無意味さを感じると人工言語界隈に関わっていた時の理解不能なあの情熱も消え去っていってしまった。

 そして、私は悠里と大宇宙の中に引きこもるようになった。


 それ以来、私は私なりに人工言語に関して様々な方向から考えをこねくり回してきた。そうして今書いているのが「他者性の人工言語論」である。


 これには私の人工言語界隈史の理解のようなものが強く影響している。どのような界隈史の理解が正しいのかという議論はここではしないことにする。なぜなら、「正しい界隈史」と他者性の人工言語論に繋がる「Fafs F. Sashimiの界隈史の理解」は必ず別ものであるからだ。

 それはともかく。

 話はザメンホフとエスペラント、セレン・アルバザードとアルカから始まる。2013年頃、日本の人工言語界隈は(今はどうなっているか知らないが)芸術言語の創作者が殆どを占めており、セレン氏の影響力が非常に強かったと記憶している。一方でセレンやアルカの考え方に反発する芸術言語の作者も居た。エスペラントというものから人工言語創作を知ったFafs F. SashimiやKPHT=YYはそのうちの二人であった。二人はひょんなきっかけ(実はDS Lite版のうごくメモ帳で出会ったのが最初であった。今も彼のDSのうごくメモ帳には私が歌ったリパライン語版Bad Appleがあるという。今の文法からしてみればめちゃくちゃな歌詞翻訳も懐かしいものだ)から意気投合し、シェアワールドとして創作を絡ませることをきめた。KPHTのゴック語、Fafsのパライン語からその創作は有理……「悠里」という名前を得るに至った。

 しかし、2013年の事件を皮切りに人工言語界隈はセレン氏の人工言語の理想を実現するための方法論――いわゆるセレニズムに対する批判の風が強まっていった。セレニズムという言葉自体はTwitterで遡れる限りで2015年頃から使われている。ポストセレニズム時代の始まりだ。セレニズムが人工言語を言語学の対象として扱っていたものの言語に優劣を付ける立場に批判が集まった。

 セレニズムはアルカを自己評価するためのものさしに過ぎないという理解が強まり、ポストセレニズムは新たな人工言語の規範を求めた。

 ポストセレニズムに同意する者が集まって形成された人工言語学会(人工言語研究会とは別である)の人工言語学の立場は人工言語を言語学とは無関係な分野「人工言語学」として扱う立場として画期的なものであった。


 しかし、私が人工言語界隈に不信感を抱き始めたのはその頃からであった。セレニズム時代の界隈人工言語が人工世界を基盤としてアプリオリ性の高い言語を作る傾向にあったこと自体に批判の目が向けられたことが始まりだった。そして、人工言語を計るための形式主義的なものさしが界隈を挙げて推されたことが当時のFafsにとっては容認できなくなっていった。TP(トキポナの語彙数の倍数で表す語彙数の指標)などが現れた時点ではまだFafsもDRP(単語ごとの辞書記述の平均値)などの概念を提唱しており、この流れに同調していた。

 ユーフォニー指数をFafsが受け入れることはできなかった。ユーフォニー指数が表す自然言語性の指標が悠里での人工言語の手法とは無関係に絶対的な評価として一部で受け取られたことが理由である。

 人工言語とは既存の言語をどの階層(OSIモデルの言語版のようなものを思い浮かべると良い)で暗号化されたかでしかないという捉え方をすることですら、考え方としては非常に興味深いが受け入れがたくなってしまっていた。

 また、悠里が人工言語界隈で目立つようになってから悠里がセレニズムを継承したものと捉え、批判する傾向も見られるようになっていった。jekto.vatimelijuの参加以降、悠里の設定基礎づけの取り組みが加速しウェールフープ学や科学的な根拠に基づく設定の再考察が行われるようになっていった。このような傾向にアレルギー的な反応を見せた人は少なくなかった。私も再考察における衝突を通して、形式主義が苦手になってしまった。


 そしてそのあとに出てきたポストセレニズム以降の人工言語知識人の一部や悠里界隈の人間が形式主義的なものさしに加速主義的に拘泥しているように見え、特にそういったものさしで自分の言語が計られ、何らかの判断が行われたことはFafsに強い反感を抱かせた。特にこの時期は形式主義自体への反感は無かったが、どちらかというと形式主義を元に攻撃的な独断をされたことに反感を抱いていた。

 Fafsが形式主義自体に反感を持ち始めるのは「啓蒙の弁証法」やレヴィナス哲学を勉強してからである。「倫理と精神」では「ある行為がその行為に主体的に関わらないままに被る行為は全て暴力的である」という仮説が現れており、このようなレヴィナス特有の他者と暴力の考え方や「啓蒙の弁証法」における道具的理性の批判がすなわち本論執筆時の形式主義に対する態度の基礎となっている。

 リパライン語がリパライン語である理由を求め始めたのは、悠里内でラネーメ文化圏創作が加速するとともに「ラネーメ文化」としてある創作設定が認められるのに対して、「リパラオネ文化」としては認められないということがよくあるように見えたからである。それはラネーメ文化などのイメージがはっきりしていたのに対して、リパラオネ文化のイメージが薄かったからだと考え、リパラオネのアイデンティティを求めようとした。これは本論の唯一無二の他者性を求めるという方向性を定めたのだろう。


 形式は内容に先行しなくてもいい。

 言語を対象とする人工言語創作は言語学を通して人工言語を把握することはできるかもしれないが、言語学を理由として創作的あり方を自明化することは、そういった創作的ルールがあるなら別としてそれのみでは出来ないのだ。つまり、例えば「上唇と下の歯で閉鎖を作って調音する音をもつ言語は(生理的に不可能ではないが)存在しない」という類型論のテーゼを絶対的な理由として創作的な人工言語にその音を実装してはならないわけではない。


 計測と内容を混同しているとする批判もあるかもしれないが、この時点ではという現象学的な前提が私の考えにはある。そこでは形式主義はもはや人工言語を数値で表すことやカテゴリーに入れることではない(他者論という観点から言えば、全体的な方向性ではあるが)。

 だからこそ私の関心は形式主義批判ではなく、私には全体性の強い創作が多いように見える中で他者性の強い創作の考え方をまとめ、私なりに紹介できないかということなのだ。以下では全体性に対する他者性の優位が語られているが、それはこの他者性の人工言語論を進めるための前提でしか無い。そもそも、レヴィナシアン(笑)としての私が絶対の優位を持つものを語るのには困難が伴う。


 視野狭窄に思えるかもしれないが、ともかくこのような経緯と私自身の社会言語学(少数言語保護・言語権)、フレイザーの呪術研究、一般意味論、啓蒙の弁証法、レヴィナスの他者論を中心としたその他現象学の考え方が総合されたものがやっと今整理されようとしている。

 重要なことは他者性の人工言語論とは、ほぼ信仰的な死者の神託だということである。

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