モラトリアム勇者

谷内直希

第1話 落ちて光る

 体がふわりと宙に浮く。コンマ数秒前まで踏みしめていたはずの地面の感覚は、もう思い出すことが出来ない。今まで感じていた全てのは、一瞬にして消え去った。

 そして、僕はただただ落下する。空気の感触を全身で感じながら、重力に身を任せる。目下に迫る地面は全てを受け止めてくれそうで、今更なにを考える必要も、時間もない。

 僕一人ではどうしようもなかったのだ。


 * *


「おい、君。大丈夫か?」

 力強い声と、頬をペチペチと叩かれる感触。肩に置かれた手は僕の体を揺り動かしている。

「ん……」

 朦朧とした意識の中、僕は重いまぶたを開けた。目に差し込む太陽の光が鬱陶しいほどに眩しい。

 光を避けて視線を左に移すと、無精髭を生やした男性がこちらを覗き込んでいた。五十歳ほどだろうか。赤茶の髪と、澄んだ青い瞳が印象的だった。

「崖から足を滑らせたか?」

「崖?」

 僕がそう聞くと、男性は顎をクイッと動かした。その方向に目をやると確かに、ゴツゴツとした岩肌の断崖があった。十メートル、いや、もう少し低いだろうか。寝転んだ状態からでは正しい高さがつかめない。

 とりあえず起き上がろう、そう思って頭を持ち上げた瞬間、全身に痛みが走る。

「ぃだっ!!」

「おいおい、無理しちゃ駄目だ。そのままでいいから答えられるか? 君はどこから逃げて来た?」

 どこから逃げてきた……?

 何の話だ? と思考を巡らせる、いや、巡らせようとして気づいた。

「僕は…………誰だ?」

 ポツリと漏れたその言葉は、僕の置かれている状況を穿うがっていた。

 自分が誰か分からない。ここがどこか分からない。どうしてここに倒れているのか分からない。この状況を説明するための一切の記憶が僕の中には存在しなかった。

 これはさしずめ記憶喪失というやつだろうか。

 いやいや、流石にそんなはずはない。記憶なんてそう簡単に失ってたまるものか。

 必死でなにかを思い出そうと虚空を見つめるが、残念なことに記憶の欠片さえ見つかりそうにない。そもそも、なにを思い出せばよいのかさえ分からなかった。

「だ、大丈夫か?」

 虚ろな目で呆然としている僕を見かねてか、男性は心配そうな声で聞いてきた。僕はその声に意識を引き戻される。

「んあ、大丈夫……じゃないです」

「まあそうだろうな。なら、とりあえず私の家にでも来なさい。少しの間なら面倒を見ることは出来る。立ち上がることは出来そうか?」

 そう言って男性は横たわる僕に向かって手を差し伸べる。とても分厚くて、そして優しい手だった。僕はその手をぎゅっと掴み、全身に力を込めて起き上がる。悶絶するほどの痛みと引き換えに、僕は二本足でしっかりと地面に立つことが出来た。

 青と白で満たされていた視界に、新しく緑が加わった。青々とした若葉は風に吹かれて、心地よい音を奏でている。

 こうして辺りを見渡してみると、どうやら僕は道のど真ん中に倒れていたらしい。この道を通れば否応なしに視界に入ってくるだろう。

「さ、君が乗りなさい。私は隣で歩いて行くよ。村まではあと少しだ」

 男性は手綱を持って、馬の体をポンポンと軽く叩く。

 もう既に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、お言葉に甘えて馬に乗せてもらうことにする。正直、今の状態で歩けるとは到底思えない。

 見ず知らずの人の家に招待してもらうというのはかなり抵抗があった。しかし背に腹は替えられない。なんてったって僕は自分の家が分からないのだから。

 とりあえず、僕はこの男性にお世話になることにした。


 * *


「さ、着いたぞ。ここが私の住む村、コトハ村だ。そして、私がこの村の長を務めている」

 村の入口に入ったところで男性はニコッと笑い、少し誇らしげに自分の手を胸に当てて言った。

「そう言えば自己紹介がまだだったな。私の名前はルーク・ラッセルだ。よろしく頼む」

「ああ、僕の名前は……えと、ごめんなさい、まだ思い出せないです」

「大丈夫だ。名前くらいそのうち思い出すだろう。それよりどうだ、いい村だと思わないか?」

 馬にとことこ揺られながら、村を見渡してみる。汗水垂らして農業に勤しむ人、陽気そうな商売人や真摯に仕事に打ち込む職人、時折聞こえてくる子供たちのはしゃぐ声。この村に満ちる活気がひしひしと伝わってくる。

 そんな村の様子を見ているうちに一つ思い浮かんだことがあった。

「あの、一応確認なんですけど……僕ってこの村に住んでいないですよね?」

「ああ、住んでいないと思うぞ。私はここに住んでいる全員の顔を覚えているつもりだからな。どうしてだ?」

「いや、なんだか知っているような気がして……。でも勘違いだったみたいです」

 多分、自分の中にある不安をどうにか取り払おうとして、無意識のうちに色々な可能性を探っているのだろう。この村が自分の村だったら楽なのに、という気持ちが心の奥にあるからかな。

 なんとなく知っているような気がしてしまうのだ。

「そうか。だが、この村に訪れたことがあるのかも知れんぞ。私とて一々訪問者の顔などは覚えていないからな」

 本当にそうだったら嬉しいのだけれど……。もしかしたら僕のことを知っている人が見つかるかも知れないし。


「さて、これが私の家だ。ようこそ、歓迎しよう」

 目の前の家は…………なんというか、思ったより普通だった。木材と石材を組み合わせて作られた二階建ての住居。村の長と言うくらいだから、てっきり豪華なお屋敷にでも住んでいるのかと思っていたけれど、それは見当違いだったようだ。

 いや、別に小さいわけではない。他の家と比べたら大きい方だろう。しかし、それは普通の範疇に入るということだ。

「とりあえず中に入って横になりなさい。疲れているだろう? 食事の時間になったら起こしてやるから、ゆっくり休むといい」

「ありがとうございます」

 出会ったばかりの僕に対して、どうしてここまで優しくしてくれるのだろうか。ルークさんの厚情に感泣してしまいそうになる。

 僕は馬を降りた後、ルークさんに家の中を軽く案内してもらい、二階にある部屋のベッドに横になった。柔らかいベッドの上に寝転んだ僕の意識は一瞬にして遠くなっていく。

 ああ、疲れた…………。



 トントンと軽く肩を叩かれ、僕はハッと目を開ける。

「ほら、起きなさい。そろそろ夕食の時間だ」

 部屋の窓から燦々さんさんと降り注いでいた陽光はいつの間にか姿を消し、辺りは薄い暗闇に包まれていた。いったい僕はどのくらいの時間寝ていたのだろう。

 かなり長い間眠っていたことは間違いない。おかげで体の痛みがかなりマシになっている。それに意識もかなり明瞭だ。今なら何か思い出せそうな気が……

「……ユイト」

 何を考えるわけでもなく、その言葉は僕の口から漏れた。

「ん? 何か言ったか?」

「ユイト……。そうだ、ユイト! ユイトです、僕の名前」

「おお、そうか! 思い出せて良かったな、名前は大事だ。……きっと残りの記憶もそのうち思い出すだろう」

 小さなことでも、自分の情報について思い出せたのは大きな進歩だと思う。名前という情報が今の状況で役に立つかと問われれば、そうではないだろう。しかし、自分の名前を知っているという当たり前の状況が、こんなにも安心できるものだとは思わなかった。

「さ、おいで、下で夕食を食べよう」

 ルークさんの後を追って僕も部屋を出る。一階から上ってきた香ばしいスープの香りが漂っている。なんて幸せな香りだろう。そんなことを思っていると腹の虫がぐうと鳴いてしまう。

 階段を下り終えたところで、僕は立ち止まった。僕の目の前、リビングのテーブルを囲んで座る一人の青年が目に入ったからだ。

 ルークさんの息子だろうか? ルークさんに似た赤い髪と澄んだ青色の瞳、それにきれいに整った顔立ちは好青年というのに相応しいと感じた。

「は、初めまして」

 どうして知らないやつが自分の家にいるんだよ、と思われているのではないかと、恐る恐る声をかける。

 しかし、それに対する返答は、予期していたものと違った。

「ああ……、初めまして。話は父さんから聞いたぜ。なにやら記憶が無くて大変らしいな」

 先にルークさんが話してくれていたみたいでホッとする。そして、二人はやはり親子だったらしい。

「俺の名前はエリック。エリック・ラッセルだ」

「僕は……ユイトです。よろしくお願いします」

 ほんのついさっき思い出したばかりの名前を名乗る。そしてその名前がしっくり来ていることに、妙な安心感を覚える。

「そんなに畏まらなくていいよ。歳は十七か十八くらいだろ? 俺とあんまり変わらなそうだし」

「いや、そういう訳には……」

「いいよいいよ。堅苦しいのは好きじゃないんだ。気軽にエリックって呼んでくれ」

 そう言って彼は満面に笑みをたたえた。

「そ、そう? じゃあ……エリックで」

「ああ、俺もユイトって呼ぶよ」

 初対面のはずなんだけど、なんとなく、旧友であるかのような親しみを感じた。昔に何度か会ったことがあるような感じ。まあ実際はそんなことはなくて、ただ単にエリックが人と距離を縮めるのが上手なだけだろうけど。

「さ、食事にしようか」

 ルークさんはそう言ってパンを取り出し、トロトロの野菜が入った黄金色こがねいろのスープを皿に注ぐ。それに加えて、こんがりと焼かれたソーセージ。三人分の食事が手早くテーブルに並べられた。

「いただきます」


 まずはスープを口に運ぶ。食べる前から分かっていたけれど、見た目通り、期待通りの味だ。この上なく美味しい。

 空っぽの胃が温かいスープによって満たされていく。スープがゴクゴクと喉を通る音が気持ちいい。

「エリック、なにか変わったことはあったか?」

 ルークさんはソーセージを口に運びながらエリックに向かって言った。

「いや特にない。いつも通りだな、良くも悪くも……」

 エリックはそう言って肩をすくめる。

「そうか……」

「あの、何かあったんですか?」

 そんな気はなかったのに、つい口を挟んでしまった。

「ん? ああ、俺は仕事で魔獣狩りをしているんだけどな、最近は数が異常に増えていてさ、少し厄介なことになってるんだよ」

「魔獣?」

 いまいちピンとこない。名前は分かるのだけれど、はっきりとしたイメージがわかないと言うか……。

「それも覚えてないのか? まあ、普通に暮らしていて魔獣を見る機会はほとんどないか……」

 覚えていない、とはまた違う気がするけど、それをわざわざ訂正したりはしない。

 そう言えば、僕が覚えていることと、覚えていないことの違いは何だろうか。何か共通点がありそうな気はするのだけれど。

「魔獣っていうのは人を襲う化け物のことだよ。生きているわけでも、死んでいるわけでもない。殺してもそこに死体は残らない。……本当に気持ち悪い奴らだよ」

 エリックは遠くを見るような目で言った。

「それで俺はみんなを守るために戦っているわけさ。王国政府も、魔獣のことは俺達みたいな奴に任せっきりだからな。詳しく知らない人が多いけど、お金も貰えるれっきとした職業だ」

 そう言ってエリックは壁に立てかけてあった剣を手にとった。鞘から少しだけ剣身を抜いて僕に見せる。ピカピカに研がれた剣身に僕の顔がきらりと映った。

「話を聞いただけだけど、なんか感心しちゃったな。会ったばかりだけど、エリックってすごくしっかりしてる気がする」

「さあな。でも、手が届く範囲にいる人達、少なくともコトハ村の人達は俺の手で守りたいと思ってるのは確かだ」

 なにか信念を持ってそれを実行できている人は本当に凄いと思うし、心から尊敬できる。今の僕からすれば、なおさらそう感じる。信念を持っていないどころか、自分が誰かさえ分かっていない僕は、これからどうやって生きていけばいいのか考えあぐねる。

「ちなみにその石は何なの?」

 剣の隣に置いてあった鮮麗な瑠璃色の石。ガラスのように透き通っていて、どこか神秘的な美しさを感じる。見ていると吸い込まれてしまいそうだ。

「これは魔法石って言って、魔法を使う時に必要な道具だ」

 魔法ねえ……。

「普段は首にかけて持ち歩いてるんだけど、持ってみるか?」

 なるほど、ペンダントみたいなものか。僕は興味があったのでコクリとうなずく。

 エリックは魔法石を僕に手渡してくれた。近くで見るとまた違った印象を受ける。芯にある力強さを感じると言うか。

「まあ、普通の人が持っていた所で何も起こらないんだけどな。魔法の才能がある奴じゃないと――」

 突然話すのをやめ、唖然としたエリックの視線は僕の手の中にあった。僕の手に包まれた魔法石は、まるで月明かりのような優しい光を放っていたのだった。

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