第183話 無責任のつけを払うのは……
1
正午の鐘が秋晴れに響き渡る。お昼休みは飲食店のかき入れ時。ここ〈ムーンナイトテラス〉もほかの飲食店同様にこの時間帯は混み合う。
比較的まったりと過ごせる午前とは打って変わり、数分おきにお客さんが訪れ、あっという間に席は埋まってしまう。
「勇、これ運んで」
「ほいほい」
キッチンと洗い場、そしてホールを行ったり来たりの大忙し。ほっと一息つく間もない。しかしながらこの忙しさは苦ではない。働いているという実感が湧く上、頭が仕事のことでいっぱいになるため、余計なことを考えずに済むからだ。
手を止めると、昨晩の眞昼の感触が背中に蘇るような気になる。というか、そのことを思い出した時点でもう危うい。情欲という名の雑念を振り払うように体を動かす。
「お待たせしました――っとと」
「勇、何やってんの!」
キビキビと動きすぎて足がもつれ、転びかけてしまった。だが、そんなことで止まる俺ではない。気を抜くと、眞昼に押し付けられた胸の感触が俺の理性を揺さぶってくるのだから。
眞昼がまさかあんな直接的なことをするとは思わなかった。肩を揉むふりをしてあのダイナマイト級の胸を押し付けてくるとは、なかなか男心を分かっている……じゃない、先が恐ろしい。
「……はぁ」
いっそのこと、欲望に流されることができれば、と思ったりもする。
眞昼のことも朝華のことも、どちらも手籠めにして侍らせてしまうようなクズ男になることができたなら、こんなに悩む必要もなかったのだろうか。
世の中には愛する妻や子供がいるのに家庭の外で女を作る男や、愛人を何人も囲うような男がいると聞く。
そういう男ならば……いや偏見はやめよう。
男ならば誰だって、今の俺を取り巻く状況は最高のシチュエーションに決まっている。若くて可愛い二人の美少女に言い寄られるなんて、ラブコメ漫画の世界ならば鉄板だ。
それにもしこれが俺ではなく、例えば俺の友人の話であったなら、俺はきっとそいつのことを羨ましく思ったに違いない。
だがいざ自分がその渦中の人物になってみると、嬉しさよりも精神的疲労が勝ってしまう。
自分の選択が彼女たちの人生に大きな影響を与えてしまう。その責任は重大だ。
やがてお客さんがはけていき、午後一時を過ぎる頃には一組の老夫婦がテラス席で仲睦まじくお茶を楽しむだけとなった。
「ふう」
今日はいつもよりも回転が速かったな。
「じゃ、お先に休憩もらうわね」
母が先に休憩に入るために階段を上がっていった。母が二階に上がって二分ほど経過したところでカランコロンとドアベルが鳴った。
「こんにちは」
入口に目をやると、そこにいたのは下村光だった。
*
しっとりとした艶のある黒髪を結わえて右肩に垂らし、スレンダーなボディで白いTシャツとタイトなデニムをさらっと着こなしている。テニスに青春を捧げたスポーツ少女の面影を残しながらも、成熟した大人の女の色香をまとっている。
「なんだ、下村か」
「いらっしゃいませ」
光はカルピスを注文すると、カウンター席に腰を下ろした。
「今日はちょっとさやかさんに用がありまして。ほら、秋祭りの打ち合わせを――」
「ああ、今休憩いってるから、呼んでくるよ」
「あ、悪いからいいよ。待たせてもらうから大丈夫」
この街では年に二回、五月と十一月に大規模な祭りが催される。五月に行われるのは流鏑馬演武を目玉にした流鏑馬まつり。十一月には浅間大社周辺の区が山車を引き回す秋祭りが開かれ、どちらも賑わいをみせる。
話を聞くと、その打ち合わせを今晩下村家でやるので、母に出席を頼みに来たという。
「なんか食ってくか?」
「おっ、商売上手。そうだね、それじゃあナポリタンを一つ」
「はい」と言って父がキッチンへ向かう。いいタイミングだ。
「そういやさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「ん、何?」
わざわざ聞く必要もないくらい分かり切ったことだとは思うが、第三者、それも女の意見というものも重要だろうから俺は一応聞いてみる。
「二股ってどう思う?」
「は?」
光の眉間にしわが寄る。
「いや、変な意味じゃなくて……ほ、ほら、最近芸能人の浮気でそういうのが多いだろ? 昨日もワイドショーでやってたし、そういうことをする男って下村はどう思うのかなって――」
「最低よ最低。そんなことをする男は
「あっ、そう」
「だってそうでしょう? こっそり二股かけるくらいなら、きっちりお別れをしてから次の女の子のところへ行くのが人の筋ってもんだよ」
「だよな、う、うん」
なんだか光に変なスイッチが入ってしまったみたいだ。普段は温厚で明るい光だが、声色にドスが利いてきた。そういえば、彼女は旦那と別れて子供が一人いるシングルマザー。その方面で地雷を踏んでしまったのかもしれない。
「あー、じゃあ例えば、男はまだ誰とも付き合ってないし結婚もしてない状態で、自分のことを好きって言ってくる女の子二人と同時に付き合うっていうのは」
「それが一番最低じゃないの」
「ですよね」
当然の答えである。倫理的にも社会的にも、二股をかける行為は許されない。やっぱり俺はどちらかを選ぶしかないのだ。眞昼か朝華か……
「本人たちが納得してるならともかく……何? もしかして有月くん、股かけようとしてるの?」
じろりと、まるで任侠物の登場人物のような鋭い眼光が俺を見据える。
「馬鹿、そそそそそ、そんなわけないだろっ」
やがて父がナポリタンとカルピスのおかわりを持って戻ってきた。
「美味しそう。いただきまーす」
2
午後三時過ぎ、店にやって来たのは小さなお客さんだった。
未空、龍姫、芽衣の三人だ。
「いらっしゃい」
「勇さん」
芽衣は俺の前に来ると微笑みながら見上げる。小さい頃の朝華のようで可愛い。
「二人ともコーラでいい?」
未空が聞くと、
「私、サイダー」と龍姫。
「私はコーラでいいよ」
芽衣が言う。
三人は窓際の四人掛けの席に落ち着く。仕事の合間によく一緒に近くの公園でバスケをしたりして遊んでいるので、今日もバスケに誘われるのかと思ったが、未空たちはボールを持っていない。その代わりに三人はそれぞれ細長い包みを持っていた。
注文された飲み物を持って三人のところへ向かう。
「それ何?」
俺は謎の包みに目を落とす。
「これ?」
未空はコーラを一口飲み、包みを手に取って卓上に広げる。中から出てきたのは二本の木製の棒。
「バチか」
「今日から太鼓の練習があるんです」
龍姫が言う。よく日に焼けたテニス少女は自分のバチが入った袋を手に取る。
「ああ、太鼓ねぇ」
なるほど、三人は秋祭りの山車の上で太鼓を叩く役を務めるようだ。山車の上では太鼓や笛の演奏をするのだが、その練習が今日から始まるらしい。
「もう何回もやってるの?」
「三人とも今年が初参加です」
龍姫が代表して答える。
「懐かしいな、俺も子供の頃やったよ」
「へー、勇さんもですか?」
芽衣が言う。
「そうそう、山車に乗って、友達と一緒に太鼓を叩いたなぁ」
思えば、秋祭りも十年ぶり、か。最後に秋祭りに参加したのはクソガキたちがまだ一年生の頃……
「未夜たちも太鼓をやってたぜ」と昔の話をすると、未空は目を丸くして、
「えっ、おねぇが?」
信じられない、とでも言いたげだ。
「あのおねぇがお祭りに参加するなんて」
「まぁ、あの頃は未空ちゃんたちよりも小っちゃかったから」
一年生の頃の未夜のクソガキぶりといったら、とてもこの子たちの前で言えるようなものではない。未夜の名誉のために黙っておいてやろう。
「龍姫ちゃんのお母さんもよく山車の上で笛を吹いてたかな」
「あー、ママはお祭りとか大好きだから」
「今年はお母さんもやるのかい?」
「分かんないです。二、三年くらい前まではやってましたけど」
下村家で秋祭りの打ち合わせをやる、とお昼頃に来店した光が言っていたし、祭りには何かしらのかかわりを持つのだろう。
しばらくして、三人は練習を行うために区民館へ向かった。
*
区民間には練習に参加する町内の子供たち、そして教える役の大人たちがもう集まっていた。その中で一番目立っている、はっぴ姿のパパ――春山太一の姿を見て、私はため息をつく。
「パパ、なんで本番じゃないのにはっぴ着てるの?」
パパは太鼓の練習のコーチ役として毎年参加しているそうだ。こういうイベントごとで親が一緒に参加するのは気恥ずかしいが、まあ、それはいい。問題はその服装だ。他の大人たちはもちろん私服姿である。はっぴを着込んでいるのはパパだけだった。
「おう、未空。遅いぞ」
「ちょっと、マジで恥ずかしいから脱いでほしいんだけど」
「何言ってんだ、これが祭りの正装。いわばユニフォーム」
「ユニフォームで練習しないっしょ」
「おお、二人も来たか」
「こんにちは」
「こんにちは」
龍姫と芽衣はぺこりと頭を下げた。
「はぁ」
再び重い息をつき、私は片手を額に当てる。
「未空、お父さんも一緒なんだね」
龍姫が準備をしながら言う。
「いいなぁ」と芽衣。
「いやいや、恥ずかしいだけだって。しかもあんな格好で……」
本当にはっぴのままやり通す気らしい。頭が痛くなってきた。
「私ら、お父さんとかいないから羨ましいよ」
「ねー」
「そうかなぁ」
「おーし、みんな集まれー」
父の号令に従って子供たちが集まっていく。
そして練習が始まった。
*
さて、今回もお知らせがございます。
詳しくは次のページへGO!
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