第172話 楽な方に転がれば、もう戻れない
1
日曜日の正午過ぎ。
「もしもし、朝華?」
「あっ、眞昼ちゃん。どうしたの?」
「あっ、いやその……」
朝華の声を聞いていると、罪悪感で胸がいっぱいになる。
「今日も、あたし部活が忙しいからさ、みんなのとこ行けないや」
「そう、残念。昨日も会えなかったし、今日の夜は会いたいなって思ってたんだよ?」
「ご、ごめん。じゃ、じゃあね」
「そうだ眞昼ちゃん」
「な、何?」
「勇にぃのことなんだけど」
「ゆ、勇にぃ?」
「うん。勇にぃ、なんだか元気がなくて、何かに悩んでいるみたいなの」
「――っ!」
「眞昼ちゃん、何か知ってるかなぁって」
「い、いや、し、知らない。そろそろ休憩終わるから、切るね」
「うん、変なこと聞いてごめんね」
「じゃ、じゃあ」
「うん、練習頑張ってね。ばいばい」
通話が切れ、ツー、ツーと無機質な音が耳に反響した。通話終了と表示された画面を見つめながら、あたしは息をついた。
ベッドに横たわりながら、自己嫌悪に苛まれる。
本当は、今日は部活なんてない。久々の一日完全オフの日だ。
窓から差し込む日射しはどこまでも明るく、今のあたしには眩しすぎる。
ぼんやりと画面を眺めていると、画面が呼び出しのものに切り替わる。知らない番号だ。
「はい」
「もしもし。龍石ちゃんかい? 熊本エンプレスの吉村です」
「あっ、どうも」
吉村というのは、たしか以前会ったスカウトの中年の男の人の方だっけ。
「先生から聞いたよ。詳しく話を聞きたいそうだね。嬉しいよ」
「あのぅ、まだ決めたってわけではなくて、どういう感じなのかなって話を聞きたいっていうか」
「うんうん、全然いいよ。興味を持ってくれただけでもありがたい」
昨日、顧問の先生に熊本エンプレスからのスカウトについて、詳しい話を聞きたいと頼んでいた。
「ちょうど来週の土曜日に静岡に遠征の予定があってね。龍石ちゃんさえよければ、見学ついでに来てもらえるかな。うちの選手たちのプレイも間近に見られるよ。場所は――」
あたしはペンとメモを取り、吉村の言う市民体育館の住所を書き込む。
「じゃ、来週、楽しみに待ってるよ」
*
『逃げるって選択肢は常に頭に入れておけってことだ』
あたしの誕生日に勇にぃはそう言った。
『嫌なことや辛いことがあったら、それに立ち向かうことももちろん大事だが、努力でどうにもならないこともある』
『時には逃げることも重要だ』
もう、勇にぃと今まで通りの関係ではいられない。本当は告白なんかするつもりはなかったのに、朝華のことやスカウトのことでいっぱいいっぱいになって、気持ちがぽろっと漏れてしまった。
あたしの気持ちを知られてしまった以上、もう、今まで通りに勇にぃに接することはできない。兄妹みたいに、軽口を叩いたり、遊んだり、そういうふうにはもうできない。
かといって、勇にぃからの返事を聞く勇気もない。もし拒絶されてしまったらって考えたら、怖くて怖くてしょうがない……
着信履歴には勇にぃからの着信が何件も記録されている。でも、それに出る勇気はない。
スカウトに応じて、このままバレーがどんどん忙しくなったら、きっと勇にぃに会わずに済む。
逃げることは悪いことじゃない。
そう、悪いことじゃ……
2
月曜日。
「眞昼、お昼食べよ」
未夜が教室の戸口に立っていた。
「あ、おう」
食堂の奥まった席に落ち着く。
「眞昼、最近忙しそうだね」
サンドイッチを食べながら、未夜は言った。
「まあ、春高目指してるしな」
「土日のどっちも遊べないくらい忙しいなんて、大変だねぇ」
「……あはは」
「それはそうと、昨日は大変だったよ。朝華が富士〇ハイランドに行きたいって突然言い出してさぁ、知ってる? 戦〇迷宮。もう死ぬかと思ったよ。私も朝華も勇にぃにひっつきっぱなしで――」
楽しげに語る未夜。
「勇にぃ、楽しんでた?」
「え? いや、勇にぃも絶叫してたよ」
「お化け屋敷のことじゃなくて、富士〇ハイランド」
「うーん、そういえば、行くのになんか気乗りしてなかったなぁ。疲れてたのかな」
昨日のお昼、勇にぃに元気がないと朝華が伝えてくれた。あたしのことで勇にぃにも負担をかけてしまっている。
「眞昼、元気ないね」
未夜は心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。
「疲れてるだけだよ」
「……そう」
もし、あたしが勇にぃに告白した、なんて言ったら、未夜はどんな反応をするだろうか。びっくりするだろうけど、長い付き合いの未夜なら、きっと親身になって話を聞いてくれるだろう。でも、未夜は勇にぃと繋がりがあるので躊躇してしまう。
「今週の土日もずっと部活?」
「……う、うん」
「そっか。眞昼、あんまり無理はしないようにね」
未夜は無邪気な笑顔でそう言った。
3
それから、あたしは〈ムーンナイトテラス〉に足を向けることもなく、毎日が過ぎていった。
金曜日のお昼休み。
未夜はミス研の集まりがあるらしく、今日はお昼を手早く食べ終えると、そのまま部室がある校舎へ行ってしまった。食堂でぼんやりしているのも落ち着かないので、外を散歩でもしようとあたしは昇降口へ向かう。
曇り空の下を、足の向くまま歩く。
グラウンドでは男子生徒がサッカーをして遊んでおり、並木道の路肩には並んで座り込んでお弁当を食べているカップルがいた。
気づけば、あたしは中庭にいた。周りには誰もいない。芝生の上に腰を下ろす。
「はぁ」
そこで――
「わっ」
急に肩に手を置かれたかと思うと、耳元で驚かすように声が響いた。
「きゃっ……なんだ、夕陽ちゃんか」
金色の綺麗な髪に澄んだ青い瞳、英国の血が入った端正な顔立ち。
外神夕陽があたしを見下ろしていた。
*
巨大な胸、透き通るような白い肌にむちむちの太もも。鉄壁聖女の一角を担う眞昼先輩がふらふらと一人で歩いていたのを見かけた夕陽は、その後をこっそりつけてみた。
夕陽の存在に気づかないまま中庭の芝生の上に向こうを向いたまま座り込んでしまったので、ちょっと悪戯をしてみようと後ろから驚かせたら、予想以上の反応でちょっと嬉しい。
「びっくりしました?」
「うん、したよ」
体育座りをしている眞昼先輩の横に、夕陽も腰を下ろした。
「どうしたんですか? こんなところで」
「ちょっとね」
眞昼先輩の声が心なしか硬い。表情も暗いし、いつもの元気溌剌、真夏のお日様といった感じではなかった。例えるならそう、この重たい曇天のような雰囲気だ。彼女の元気が、分厚い雲によって隠されているような。
どうしたんだろう。
「何か、悩み事、ですか?」
「……分かる?」
「ええ、そりゃもう。いつもと雰囲気違いますもん」
「……実はさ。好きな人に、告白したんだ」
「……へぇ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……えええええええっ!」
「ちょ、ちょっと、そんなにおっきい声出さないでよ」
「あっ、ご、ごめんなさい。え、えと、もしかして好きな人っていうのは、男の子、ですか?」
眞昼先輩は両膝の間に顔をうずめ、小さく「うん」と言った。
か、可愛い。
じゃなくて――
頭の上にたらいが落ちてきたようなショックが、夕陽の体を駆け巡る。
ああ、やっぱりそうだよね。
いくら特別に仲がいいといっても、未夜先輩はただの友達なんだね。薄々そうじゃないかと思っていたけど、やっぱり二人はただの友達だったんだ。
二人の仲の良さを勝手に夕陽が勘違いしちゃってたのか。
「……はぁ」
「夕陽ちゃんも悩みがあるの?」
「あ、いやいいです。気にしないでください。めちゃくちゃショックを受けてますけど、お気になさらず」
「そ、そう」
そして眞昼先輩は語り始めた。
普段の眞昼先輩からは想像もできないような、か細い声。それなのに、決壊したダムのように言葉が途切れることはない。
ずっと片思いの気持ちを隠してきたこと。
告白をしてしまうと、関係が変わってしまうと恐怖を感じていたこと。
そして、意図せず相手に気持ちが伝わってしまったこと。
きっと、この人は誰かにずっと打ち明けたかったのだろう。悩みを誰にも話せず、自分だけで抱えてきたのだ。
夕陽はそう理解した。
「――それで、言うつもりはなかったのに、つい、好きって言っちゃったんだ」
「そうだったんですね。それで、相手の人はなんて?」
まさか、眞昼先輩の告白を断る大馬鹿野郎なんてこの世には存在しないだろう。このバレーで鍛えたむちむちボディを隅から隅まで堪能できるのだから。
「……」
「眞昼先輩?」
「まだ聞いてない。っていうか、聞きたくないんだ」
「……はい?」
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