第139話  海の恵み

 1



「あらー、あらあらー」


 母の甲高い声がキッチンから聞こえてくる。


「すごいわねぇ」


「今回のためにたっぷり用意しておきました」


 朝華が説明している。


「お酒もたくさんありますよ」


「あらー」


 断片的に話を聞くに、どうやら食材の話のようだ。今回のために食材を準備してくれたらしい。


「じゃあ、いい時間だし、さっそく作ろうかしら」


 ジュースを飲み終えた子供たちが玄関の方へ向かっていく。


「よし、龍姫、芽衣、探検隊再開だよ」


「おー」

「おー」


「未空ちゃん、外に行くの?」


 俺は尋ねる。


「うん」


 今度は別荘周辺を探検するらしい。


「あっ、そうだ。未空ちゃん、林の奥は崖になってるから気を付けるんだよ」


 この別荘は丘の中腹に建っており、先端部分は崖となっているのだ。

 一か月半前、朝華を追いかけていた際にその崖にたどり着いたことを思い出し、俺は忠告をした。


「そうなのー? 分かったー」


 楽観的な返事である。


 たしか30メートル近くの高さがあったように思う。落下したら大人でも危険な高さだ。子供たちならなおさらだろう。お守りとしてついていこう。


「勇さんも探検したいの?」


 龍姫が振り返る。


「勇さんも一緒に探検しますか?」


 芽衣が手を繋いでくる。華奢な手は強く握ると折れてしまいそうだ。


「しょうがないなぁ、じゃあ、勇さんは部下ね」と未空。


「はいはい」


 未空を先頭に、強烈な日射しから逃れるように裏手の林に入っていく。道らしい道は整備されておらず、鬱蒼と生い茂った草をかき分けながら進む。


「そういえばな、未夜たちも昔は探検隊を作ってたんだ」


「おねぇが?」


「そうそう。空き家に忍び込んで出られなくなって、泣き喚いてさぁ」


「うぷぷ、あとでおねぇに聞いてみよ」


「おっ、いいもの見っけ」


 龍姫が不意にかがむ。


「いいねぇ、それ」と未空。


 龍姫が拾ったのは手頃なサイズの木の枝だった。探検してる感が出せる上に草木をかき分けたり蜘蛛の巣を払ったりと、実用的な面でも活躍するアイテムだ。


「私も探そっと」


 未空は地面を注視し始める。


 子供たちの無邪気な様子と自然に目を和ませながら、ゆるやかな傾斜を登り詰める。以前訪れた時は朝華を追いかけ、説得するのに必死だった。時折木々の切れ間からちらっと眼に入る海や、磯と木の香りに包まれる心地よさに改めて気づく。


 いい場所だ。


 気持ちのいい汗をかきながら坂を登り、やがて視界が緑から青に切り替わる。


「おお、いい眺め」


 未空は達成感に満ちた声を上げる。


 丘の突端の崖に到着したのだ。


 前方には空と海の青が広がり、水平線で混じり合っている。ぼんやりと浮かぶ雲に向かって、黒い鳥が揚々と飛んでいた。西側に目を向けると源道寺家のプライベートビーチを見下ろせる。


「ほわー、高いなー」


「あっ、龍姫ちゃん、危ないよ」


「分かってるってー」


 柵も何もないため、足を滑らせたら一巻の終わりだ。俺の手を握る芽衣の力が強くなった。 


「怖いです……」


 芽衣を抱き寄せる。


「うーわ、こんなとこから落ちたら死んじゃうよね」


 未空は声を震わせた。


 一か月半前、朝華はあの崖の縁にいた。


 思い出を心の拠り所にしていた彼女の心を支えてやると、そう約束をしてもう一か月半。


 この夏休みの間、少なくとも俺の見る限りでは朝華は毎日を楽しんで過ごしていたけれど、それももうすぐ終わる。あと少しで朝華は神奈川に帰らなければいけないのだ。


 朝華の心は自立ができるまでに回復しただろうか。


 亡き母親との確執や二度と戻らない子供時代の思い出を乗り越えることは容易ではない。


 兄貴分として、それだけが心配だ。



 2



 別荘に戻ると、なにやら香ばしい匂いが漂っていた。ちょうど昼食が出来上がったようだ。


「あっ、帰ってきた。勇にぃ、みんな、ご飯ですよ」


 朝華はちらっと芽衣と繋いだ手を見ると、


「仲良しさんですね」


 とにこやかに言った。


 食卓にはシーフードをふんだんに使った料理が並んでいる。刺身にたたき、フライなどなど。主食は魚介類たっぷりのペスカトーレで、トマトの酸っぱい香りが食欲をそそる。

 中には氷を浮かべた器にサイコロ大の四角い何かが浮かんでいる謎の料理もあった。


 テーブルの端に座ると、右隣に朝華が並んで腰かけた。


 和やかな昼食が始まった。


「――それでね、行き止まりが崖でねー」


 子供たちは先ほどのと同じように探検の成果を親たちに報告している。


「勇にぃ、エビあげる」


 向かいに座った未夜がエビを俺の皿に移す。


「別に殻がついてるわけじゃねぇだろ?」


「いやぁ、なんか最近エビそのものが苦手になっちゃって」


「勇にぃ、牡蠣どうぞ」


 朝華は殻付きの牡蠣を取り分ける。


「おいおい、これって生か?」


 さっきから気になってたが、夏場に生の牡蠣はやべぇだろ。


「岩牡蠣ですよ。産地直送なので新鮮です」


「あたしも食ったけど旨いぞ」


 眞昼が言う。


「いや、旨いだろうけど、大丈夫かぁ」


 高校生の頃、生牡蠣を食って当たったことがあった。全身の穴という穴から水分がとめどなくあふれ出し、地獄の苦しみを味わった記憶がある。


「えっとね、岩牡蠣って夏場が旬だから大丈夫だって」


 未夜がスマホで検索してくれた。すると、遠くの席にいた未空が、


「おねぇ、食事中にスマホはだめだよ」


「う、うるさーい」


 どっと笑いが巻き起こる。


「さぁ、勇にぃ。勇気を出して」


「お、おう」


 レモンをちょこっと絞り、恐る恐る岩牡蠣を箸でつまんで口に運ぶ。


「……旨い!」


 口いっぱいに広がるとろっとろの旨味。


「海のミルクと言われてますから、栄養たっぷり、滋養強壮にも効果がありますよ」


 朝華は微笑んだ。



 *



 食事を終え、午後は海で遊ぶことにした。


 水着に着替えていると、ドアがノックされる。


「勇にぃ」


「朝華か」


 黒いビキニを着た朝華がやってきた。白い肌に黒地の水着が映えている。


「日焼け止めが切れてしまいまして、勇にぃ、余ってませんか?」


「あるぞ」


「ありがとうございます」


「……!」


 日焼け止めを受け取ると、朝華はなんとその場で塗り始めた。


 朝華の華奢な手が柔肌の上を撫でるようにして日焼け止めが塗られていく。首筋、谷間や内ももなどなど。目の前でそんな煽情的な動き――本人にそのつもりはないだろうが――を見せつけられては、俺は父と太一の水着姿を想像せざるを得ない。


 塗り終わったかと思いきや、不意に朝華は後ろを向いて、


「背中は勇にぃが塗ってくださいますか?」


「は?」


「手が届かなくって、お願いします」


「い、いやいや、そんなもん、未夜とか眞昼にでも頼めって……」


「……はい」


 朝華は俺の言うことも効かずに日焼け止めを手渡すと、そのまま無言で壁の方を向いてしまった。


 白いうなじに肩甲骨や腰のラインが美しい。出るとこは出て、引き締まるとこは引き締まっている、まるで芸術品のような体……


「ぬ、塗るぞ」


「はい」


 なめらかな手触り……


 ぬりぬり。


「……」


 ぬりぬり。


「……」


 ぬりぬり。


「ひゃっ」


 朝華がびくんと体を震わせた。


「もう、勇にぃ、くすぐったいです」


「いや、変なとこ触ってないからな!」


 ぬりぬり。


「……」


 俺は脂ぎった男たちの相撲大会を想像しながらなんとかやり切った。


「終わったぞ」


「ありがとうございます。じゃあ行きましょうか」


 朝華に連れられて、部屋を出た。



 3



 青い空、白い雲、焼けた砂浜に広大な海。別荘のある丘の横手に位置する、源道寺家のプライベートビーチである。


「綺麗だねぇ」


 未夜は海に入る。ぱちゃぱちゃと跳ね回るたびに、水色のビキニに包まれた膨らみが大きく揺れて目に毒だ。


「気持ち―」


「全く、おねぇはあんなにはしゃいで子供みたい」


 未空は溜め息をついた。青と白のチェック柄のワンピースタイプの水着を着て、普段はローツインの長い髪をポニーテールにしている。


「ほら、未空」


 未夜はかがんで未空に向けて水をかける。宙を舞う水が太陽の光に煌めく。


「わっ、もう、やったな」


 姉に負けじと海に入り、未空は全力で水をバシャバシャし始めた。


「きゃっ」


「おりゃー」


「ちょっ、未空、的確に顔ばっか狙わないでっ」


 平和な光景だ。


 春山姉妹が水の掛け合いをしている様を眺めながら、俺たちはビーチにパラソルを設営する。


「あれじゃあ、どっちが妹だか分かんねぇな」


 眞昼が言った。彼女の白いクロスホルタービキニに収まる大きなお山は今にも零れ落ちてしまいそうで、眞昼が動くたびにヒヤヒヤする。ビーチバレーをやるつもりのようで、朝華と一緒にネットの準備を始めた。


 父と母はビーチチェアーに寝転がり、肌を焼くようだ。


「やっぱりバカンスは海よねぇ」


「……そうだな」


 それにしてもこの年になって母親のビキニ姿を目にすることになろうとは……


「いい波が来てるぜ」と太一。


「パパー、気を付けてねぇ」


「おう」


 未来はブラジリアンビキニを着ていた。胸と臀部は同じぐらいのサイズで、まるで土偶のようである。とんでもないダイナマイトボディーだ。


「行ってくる」


 太一はサーフボードを持って海に突撃していった。


「太一さんって、サーフィンやるんですね」


 光が聞くと、未来は困ったように眉根を寄せて、


「遊ぶことに関しては全力なのよねぇ、いい歳なのに」


「あはは」


 光はぴっちりしたセパレート水着の上にラッシュガードを羽織っている。学生時代を思い出すようなスレンダーなボディだ。


「勇さん、砂のお城作りたいです」


 芽衣が言った。


 フリルの可愛い白のセパレート水着だ。


「じゃあ波の届かないとこでやろうか」


 パラソルの横に砂の城を建設することにする。


「私もやる―」


 龍姫が参加してきた。赤いビキニ姿の彼女は、胴体部分だけ日焼けしてらず、白いお腹が目立っていた。


「私の勝ち―、おねぇはざこだなぁ」


「ああ、もう、いきなりびしょびしょだよー」


 未夜たちが上がって来た。


「お城づくり? 私もやる―」


 建造業者に未空が参戦する。


「それにしても」と未夜は俺の横に座り、


「みんなと一緒だと楽しいねぇー」


「そうだな」


 みんなの活気を煽るように、太陽が輝いていた。



 *



 うふふ、海の恵みで、たっぷり栄養と体力せいりょくをつけてくださいね。





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