第132話 ご来光
1
今日はもう休むことにした。
早めに就寝し、起床するのは深夜。そしてご来光に間に合うように山頂を目指すのだ。
山小屋で食事を摂り、予約していた部屋に案内される。それは部屋、というにはいささか質素であった。広さは四畳半もない。薄汚れた畳に梁がむき出しの天井。壁は薄い板張りで、隣の部屋の音が筒抜けだ。
しかし、ここまでの登山で疲弊していた俺たちにとって、横になることができるだけでそこは十分天国だった。
「あー、疲れた」
「もうへとへと」
未空と龍姫が畳の上に寝転がる。
「ママー、着替えとシートちょーだい」
「はいはい」
光がバックからデオドラントシートを取り出す。この山小屋にはシャワーや浴室などの設備がないのだ。
「有月くんも、はい」
「ああ、サンキュー……あっ、悪い悪い」
俺はすぐに部屋を出る。男の俺がいては、光も子供たちも着替えることができないだろう。
廊下で待つことにした。
すると、食堂の方から従業員の中年女性がやってきて、
「あっ、旦那さん。奥様、これ忘れてましたよ」
そう言って、光の被っていたつば広ハットを手渡す。どうやら食事中に脱いだのを忘れていたようだ。
「すいません。それと――」
夫婦ではありません、と訂正しようとしたのだが、仕事が忙しいのか、彼女は大股で通路の奥に消えた。
「有月くん、もういいよ」
「おう。あっ、下村。これ食堂に忘れてたろ。届けてくれたぞ」
「ありがとう、ないと思ったんだよ」
光に帽子を渡し、今度は俺一人で部屋に入って手早く着替える。制汗剤とデオドラントシートの甘い香りが部屋に充満している。なんだか高校時代を思い出した。
「そろそろ寝ましょうか」
荷物を奥にまとめ、光は言う。
「そうだな」
「もう寝るのー」と龍姫。
「まだ暗くないよー」
芽衣が窓の外を覗いて言う。
すると未空がいち早く横になり、
「いいの。今日はさっさと寝て明日に備えるの」
「でもまだお日様出てるから寝れるかな」
龍姫はポニーテールをほどいて光の隣に寝そべる。芽衣もカチューシャを外し、俺の横に来た。
俺と光で子供たちを挟むように、狭い部屋で川の字になって寝た。光、龍姫、未空、芽衣、俺の並びだ。まだ時刻は午後六時前だが、疲れが溜まっていたおかげで皆すんなりと寝入ることができた。
「有月くん、起きてる?」
「ああ」
「今日は本当にありがとうね。私だけだったら、たぶん面倒見切れなかったよ」
光は龍姫のお腹を撫でていた。子供たちは三人ともすやすや寝息を立てている。
「いいって別に。慣れたことだからな」
「さすがは子供好き」
「……誤解を招く言い方すんな」
「あははっ。でもさ、実際子供を育ててみると、一人でも大変なんだよね。子供ってこっちの考えの範疇を越えたことをいきなりしでかすし、気づいたらいなくなってることもあるし……あの頃の有月くんは三人も面倒を見てて、そのすごさが分かったよ」
「面倒を見てたっつっても、俺は育てたわけじゃねぇからな。ただ、一日の一時の遊び相手になってただけ。ちゃんと朝から晩まで子供を世話して育てあげた親たちとは比べ物になんねぇよ」
「それでも十分すごいって。普通は血の繋がりもない子供の相手を毎日なんてできないよ。たまーに遊んであげるならまだしも」
「……改めて言っとくが、俺は別にロリコンじゃねぇからな」
「分かってるって」
光は顔をほころばせて、
「そうそう、ロリコンと言えばさ、昔、有月くんがメグミを拾ってきた時にさ――」
光と昔話に花を咲かせた。
2
ゆさゆさと誰かが俺の体を揺すっている。
「――うさん」
「ん?」
「勇さん」
目を開けると、暗がりの中に月光が差し込み、芽衣の顔が浮かび上がる。
「どうした、芽衣ちゃん」
芽衣は少し上ずった声で、
「あの、トイレ」
「トイレ?」
そうして下唇を噛み、もじもじと体をくねらせる。
「トイレ行きたいです」
なるほど、おそらく一人で行くのが怖いのだろう。
初めて訪れた場所だし、知らない人も多い夜の山小屋だ。時刻を確認すると、午後九時十五分。
「分かった、よっと」
俺は体を起こし、芽衣を連れて部屋を出た。
古ぼけた電球が吊るされているだけの廊下。薄ぼんやりとした明かりは通路全体を照らすにはあまりに弱く、むしろ中途半端に明るいせいで不気味な印象を受ける。他の宿泊客たちも寝静まっているようで、しんとしていた。
「怖い」
芽衣は俺の手に縋りつくように自分の手を絡める。たしかにこれは一人で行きたくないのも頷ける。まるでお化け屋敷の通路のようだ。
「怖いな」
「うぅ」
芽衣をトイレに連れて行く。
「待っててくださいね」
「うん、ここにいるから」
待つこと数分。
「お待たせしまして」
「おう」
再び芽衣が俺の手を取る。
部屋に戻り、芽衣は元の場所に横になる。俺も寝転がると、芽衣が身を寄せてきた。俺の胸に顔をうずめるように、頭をくっつける。
「んう」
「まだ時間はあるから、ゆっくり寝な」
「はい」
小さな背中を撫でていると、ふと既視感を覚えた。似たようなことが前にもあった。なんだろうと、しばらく考えていると、昔、台風の夜に朝華と同じように眠ったことを思い出した。
3
ジリリリっと目覚ましの音が鳴り響く。
「有月くん、時間だよ」
「んおお。起きるって」
電灯の下で光が子供たちを起こす。時計を見やると午前一時ちょうど。寝ぼけ眼を擦りながら、俺は荷物を整理する。
「おっ、未空ちゃん、ちゃんと起きれたね」
「当たり前よ。おねぇとは違うんだから。それよりあれ、忘れないでよね」
「大丈夫だって」
「あと五分寝かせて」
「ダメ、龍姫。芽衣も起きろ」
「うあ~」
未空が友達二人を起こす。
全員目覚めたところで食堂に向かった。俺たちと同じように深夜に出発する登山客で賑わっている。
簡素な食事を摂り、いよいよ出発だ。
「おお、すごい」
外に出るなり、龍姫は感嘆の声を上げた。
遮るものが何もない、満天の星空が広がっていたのだ。
「おっ、天の川だ」
「どれ?」
「どれ?」
「どれー?」
俺は東の高いところを指さして、
「ほら、あの星の光がいっぱい集まってるのが天の川」
「天の川って、七夕の?」
芽衣が俺を見上げる。
「そうそう。天の川の両端に、強く光ってる星が二つあるだろ? あれが彦星と織姫。で、天の川の中の強い光の星と合わせて、夏の大三角って呼ぶんだ」
「へぇ」
「え、どれのこと?」
「あれよ、龍姫。綺麗ね」
光がうっとりした声で言った。
下に目を転ずれば、今度は夜景に煌めく大地を眺めることができる。天と地で、視界を埋め尽くす光の粒。
皆、一様に目の前に広がる景色に心を奪われて――
「――って目的はこれじゃないでしょっ!」
未空が我に返ったように言った。
「早く登らないと、日の出に間に合わなくなっちゃう」
「はいはい」
そうして俺たちは山頂を目指し、出発した。
暗く、歩きにくい山道をじっくり時間をかけて登る。じゃりじゃりと、坂は砂を撒き散らしたようで歩きにくい。暗さも相まって、芽衣が何度か転びかける。
「あう」
「おっと」
「ありがとうございます」
「焦らず、ゆっくり行こう」
怪我をしては元も子もない。
背後を振り返れば、ヘッドライトの光が数珠つなぎになっている。蛇行した上り坂をゆっくり、そして確実に進む。足に疲労が溜まり、重りのようだ。
「はぁはぁ、けっこうきつくなってきたかも」
未空の声に疲労が滲んでいる。
「おら、みんな頑張れよ。アラサーのおっさんが頑張ってんだぜ」
「ちょっとちょっと、有月くんがおっさんじゃ、私も、おばさんに、なっちゃうじゃない」
「ははっ、悪い」
雑談で気を紛らわせながら、ひたすら足を動かす。
どれだけ時間が経っただろうか。周囲は依然として闇に包まれている。
「はぁ、はぁ」
「ひぃ、ひぃ」
やがて、俺たちは平坦な場所に出た。
「あれ? もしかして……」
光が立ち止まり、俺たちを振り返る。
目の前には荘厳な鳥居が佇み、石造りの社殿が構えていた。
「やったぁ」と龍姫が光の腰に飛び着く。
「ゴールだー」
「疲れたぁ」
未空と芽衣は抱き合って喜びを表現する。
「わぁ、懐かしー」
光が手を合わせて言った。
頂上浅間大社奥宮と記された木柱が、柱のそばに立っている。
ようやくか。
午前四時十二分。
俺たちは富士山の頂上に到着した。しかし感動に浸ったり、休んでいるような暇はない。正確にはここがゴールではないのだから。ここからが今回の登山の真の目的、最後の踏ん張りどころだ。
「ねぇ、どっちに行くの?」
「ええと、あっちだな」
俺たちは再び歩き出す。
馬の背と呼ばれるのも納得するほどの斜面を慎重に登っていく。そこを越えると、石がごろごろしている階段が現れる。その脇の何やら物々しい建物――後で知ったことだが、観測所らしい――を通り過ぎていけば、
『日本最高峰富士山剣ヶ峰 三七七六米』と刻まれた石柱が、俺たちを迎えてくれた。
「こ、ここがゴール? 一番高いとこ?」
未空が聞く。
「そうだよ」
「やっと着いたってこと?」
「そう」
「いやったぁー」
そうして俺たちは、日本で一番高い場所に到達した。
*
「勇さん、あれあれ」
「おう」
俺はバックからコーヒーセット一式を取り出す。
今回の登山の目的は、日本で一番高い場所で朝日を眺めながらコーヒーを飲むことだった。
発案者は未空だ。子供のくせになかなか洒落たことを思いつく。ま、テレビの特集か何かに影響されたのだろうが。
「有月くん、お湯湧いたよ」
「おう」
富士山ほどの標高ともなれば、気圧の関係で沸点が平地よりもだいぶ低くなるが、父に聞いたところによると、味に大きな影響はないらしい。まあ、こんなシチュエーションで飲み食いすれば、たいていのものは美味く感じられるだろう。
「砂糖とミルク入れる人?」
「はーい」
「はーい」
「はーい」
「……はーい」
「下村もかよ」
「えへ」
人数分のコーヒーを淹れ、ご来光を待つ。
すでに辺りは白み始めており、東の空が朝焼け色になっていた。
そして午前四時四十七分。
「あっ、出た」
未空が声を上げる。
地平線に光が滲む。周囲の山肌が赤く染まり、朝の到来を告げる太陽がその姿を現した。
「おお」
これまでの疲れが一瞬にして浄化されるような、神々しい輝きが俺たちを包む。
「綺麗だね、龍姫」
「うん」
俺の膝の上に座っていた芽衣も、その美しさに目を奪われる。
「……すごい」
「くぅう、最っ高」
ミルクたっぷりのカフェオレを飲みながら、未空はご来光を眺める。
やがて燃えるような赤色は次第にその勢いを弱め、ぬくもりのある柔らかな光となってまだかすかに残っていた夜の闇をかき消していく。
4
その日の夕方。
「日本一高い場所から朝日を見ながら飲むコーヒーの美味しかったこと。空の色が黒から水色、白、そんでオレンジに赤と変わっていく様子は、富士山の頂上からじゃないと拝めないよねぇ」
未空はこっちをちらっと見ると、
「まっ、こればっかりは体験したことがないと分からないだろうなぁ」
「ぐっ」
なんて生意気な娘だ。
帰ってくるなりマウントを取ってきやがるとは。この前のキャンプの意趣返しのつもりか?
「へん、日の出なんてここからでも普通に見れるし」
「あーダメダメ。街中から見たってねぇ、それはもう地平線の上に昇った後のものだから、本物の日の出じゃないんだよねぇ。まっ、おねぇは地べたの上で、いつでも見れる偽物の日の出を見ながら、虫取りでもしてればぁ?」
「ぐぬぬ」
「下界のコーヒーで満足してるようじゃ、まだまだだよねぇ」
このクソガキめ……
「ちょっと未夜、どこ行くの。ご飯よ」
「すぐ戻る」
私は〈ムーンナイトテラス〉に急ぐ。
「勇にぃ!! 私も富士山行きた……い。なにやってんの? 眞昼」
勇にぃの部屋に入ると、眞昼がいた。
「ん? 勇にぃ、体がバキバキでヤバいっていうからさ。マッサージしてやってんだよ」
勇にぃはベッドの上にうつ伏せになり、眞昼がふくらはぎをマッサージしていた。
「勇にぃ、大丈夫? 痛くない?」
「ああ、大丈夫。気持ちいい」
「へへ」
密室でいちゃこらしてるのは問題だが、今はそれどころではない。
「未夜、俺はもう富士山を卒業したから」
「私も頂上からご来光を拝みながらコーヒー飲みたい! もう一回行こうよ~」
私は勇にぃの体を揺さぶる。
「いや、お前の体力じゃ絶対無理だって。俺ですらこんなんなんだぞ」
「未夜じゃ一合も登れずにギブアップしそうだな」
「むぅ~」
*
結局、未夜はそれから数日間、未空にマウントを取られ続けたのだった。
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