第103話 それぞれの十年
1
「し、下村かよ」
「あはは、久しぶりだねぇ」
肩にかかった髪を撫でつけながら、光は穏やかな笑みを浮かべる。
下村光。
小中高と同じ学校に通っていた仲だが、同じクラスになったのは高校二年と三年だけである。それまでは名前は知っているけど話したことはない、という間柄だった。
テニス部のエースにしてクラスのマドンナという校内カースト最上位の存在であり、その名の通り周囲に光を振りまくような明るい子だった。
「本当に久しぶりだねぇ、卒業以来だっけ」
「そうだな」
学生時代は日焼けしていた肌も今では白くなり、落ち着いた雰囲気をまとっている。うっすら施された薄化粧が艶めかしい。耳には金のピアスが輝き、記憶の中の同級生はすっかり大人の女に成長していた。
下村組の文字が入ったハッピを着ており、頭には白いねじりはちまきが。
「三月に帰って来たんだってね」
「知ってんのか?」
「たまに寄り合いでさやかさんに会って、話を聞くのよ」
「ああ、なるほど」
話し方も落ち着いていて、まるで別人と話しているようだった。
「ああ、そうそう。いつもありがとね」
「は? 何がだよ」
「世話になってるみたいで」
何のことを言われているのかさっぱり分からない。
「だから何が――」
その時、龍姫がやってきて光に抱き着いた。黒いポニーテールが小さく揺れる。
「ママ、遅いよー」
「ごめんごめん」
龍姫はきょとんとした顔を向けたが、きっと俺の方がきょとんとしていたことだろう。
ママオソイヨってなんだ?
桜の品種か?
「あれ? ママと勇さん、知り合いなのー?」
「ママと同じ学校に通ってたのよ」
「へぇ、そうなんだー」
「ま、ま?」
ま、ま。
まま。
ママ?
「し、下村、まさか……龍姫ちゃんって……」
頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。脳天から足の裏にかけて電流が走る。
「私の子なの」
……マジか。
2
祭りごとに打ち上げはつきものである。
区民館の一室には町内の連中が集まり、宮おどりの町内打ち上げが行われていた。
テーブルの上には仕出し弁当や総菜、酒のつまみなどが並び、大人たちはそれらを肴に缶ビールを傾ける。
子供たちは退屈しているかと思えばそうではなく、なかなか入る機会のない区民館を探検したり、大人に交じってお腹を満たしたり、仲のいい子同士でゲームをしたりと思い思いの方法でこの場を楽しんでいた。
「十年もなんで帰ってこなかったの? 同窓会にも来ないし」
「帰りたくても帰れなかったんだって。月に二日休めればいい方の特濃のブラック企業でさ――」
同窓会なんてあったのか。ああ、まあ、普通にあるだろうな。
「龍姫、ちょっといらっしゃーい」
ほろ酔いの光が娘を呼ぶ。未空たちと遊んでいた龍姫は面倒くさそうにやってくる。
「なに、ママー」
母娘が並んで座る。なるほど、明るいところで見比べてみれば、たしかに二人はよく似ているし、龍姫は高校時代の光の面影がある。
「勇にぃ、龍姫ちゃんが光さんの娘さんだって知らずに遊んでたのか?」
眞昼が呆れたように言ってコーラを飲む。
「いやだって、誰もそんなこと言ってなかったし」
「苗字が同じでしょ」と未夜。
「でも下村なんてそう珍しい苗字じゃねーし、まさか娘とは……」
いや待てよ?
未空の同級生ということは龍姫は小学校三年生の九才。俺と光は今年で二十九歳になる計算だから……
高校を卒業した年に妊娠して、二十歳で産んだのか……
光は龍姫を膝の上に乗せる。
「ママ、本当に勇さんと同じ学校だったの?」
「そうだよ」
「どんなだったのー?」
「そうね、今とあんまり変わんないかな」
「ふーん」
「そうそう、うちのメグミは高校の時に有月くんが拾ってきたのよ」
「えー! そうなの!?」
見れば見るほどよく似ている。言われるまで気づかなかったが、一度そうだと分かると、露骨なくらいそっくりじゃないか。
「ねぇ、もういい?」
龍姫が子供たちのグループに戻っていく。
「旦那さんは俺の知ってるやつか?」
「……!」
そう聞くと、場が一瞬凍りついたように静かになった。
「ゆ、勇にぃ、それはあんまり聞かない方がいいって」
未夜が震える声で言う。
「はぁ? なんでだ?」
「いいのよ、もう昔のことなんだから。旦那はね、いないの。龍姫を産んですぐに別れちゃった」
光はあっけらかんと言った
「そ、そうなのか」
これはまずいことを聞いてしまった。
「本当にあの男は屑でどうしようもなくって」
光はビールをぐいぐい煽り、隣にいた未夜の肩に手を回す。
「ひ、ひぃ」
「未夜ちゃんもあんな男には捕まっちゃだめよ。人生の先輩として教えてあげる」
「も、もうその話は五十回くらい聞いてるんですけど……うわぁああ、助けてぇ」
そうして光は未夜をずるずる引きずって酒と肴が豊富に残っている席へ移動する。
「光さんの前で旦那の話は禁句なんだよ。特にこういうお酒の席ではね。今回は未夜が犠牲になったか」
眞昼は恐ろしいものを見るように言った。
「勇にぃ、まだ飲みますか?」
「ああ」
横に座っていた朝華がビールを注いでくれた。それを一息に飲み干す。
「うぅ」
くらっとしてきた。
「大丈夫か? あんまり飲みすぎんなよ」
眞昼が俺の顔を覗き込む。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
夜風に当たって火照った体を冷やす。
祭りの余韻が街に残っている。浅間大社の方角を見ると、少し明るくなっており、笛や太鼓の音がかすかに聞こえた。
「ふう」
まだ頭が混乱している。
「子供、か」
そりゃそうだろう。
もう三十を間近に控えたアラサーなんだ。
子供がいてもおかしくない年齢。
結婚をして、子供を産んで、育てて……
そういうことは自分にはまだ無縁のことだと思っていた。
光に子供がいたことに驚いたが、もっと驚いたのはそれにショックを受けている自分がいるということだった。
別に光に好意があった、というわけではない。人としては好きだけれど、女性、異性として好きだったわけではない。
なんというか、自分と同じ子供時代、青春時代を生きてきた人間が、もう親として次世代を見守る立場にいたことにショックを受けたのだ。
俺が東京で心身ともに疲弊するばかりだった十年で、光は子供を産んで母親として、子供を育ててきたのか。
それに引き換え、俺はいまだに彼女の一つもできたことがない。
人生経験の差をはっきりと見せつけられたような心地だった。
「はぁ」
俺もいつか、誰かと結婚をして、子供を儲けて、育てていくんだろうか。
そんなビジョンを想像してみるが、どうもリアリティがない。
大人ではあるけれど、本当の意味で大人になり切れない。
恋愛経験の有無だろうか。
今は未夜、眞昼、朝華とわちゃわちゃしているのが楽しいけれど、いつの日か、あいつらもそれぞれ恋をして、大人になって、俺のもとを去っていくのだろう。
そう考えると、胸の奥がずきっと痛んだ。
*
中に戻ると、未夜がやってきた。
「勇にぃ」
「話は終わったのか?」
「おばさんが割って入ってきて、その隙になんとか抜け出してきたよ。光さんのあの話はほんとに長くて暗くて重くてーで、気が滅入っちゃうんだもん」
母と光が酒を飲みながら何やら熱く語っていた。
「勇にぃってさ」
「あん?」
未夜は神妙な表情になって、
「もしかして……光さんのこと好きだった?」
「はぁ?」
「いや、なんかショック受けてたみたいだったから」
「んなわけねぇだろ。自分と同世代のやつにもう子供がいるってことがなんかショックだっただけだよ」
「そ、そっか」
未夜は顔をほころばせる。
その日の打ち上げは午後十一時まで続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます