第100話  あなたの倖せを見守っています

 1



 窓の外の庭の景色を眺めながら、私は息をついた。


「朝華、準備はいいかい?」


 黒いスーツ姿の父が部屋にやってきた。心なしか表情が硬く、緊張しているようだった。それもそうだろう。


鏡華きょうか灯華とうかは直接向かうそうだ」


 私は制服姿である。冬服だから少し暑い。


「はい、分かりました」


「最後の制服姿を見せてあげなくっちゃな」


「……はい」


「じゃあ行こう」


 私は重い腰を上げた。



 *



 今日は母の命日である。


 七年前の夏、母は交通事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。


 渋滞の最後尾にいた母は、居眠り運転の大型トラックに追突された。母の乗っていた車は前と後ろがくっつくぐらいぺっしゃんこになっていたという。


 母が死んでから、私はできる限り母のことを考えないようにしてきた。


 母との思い出はたくさんあったはずだし、私は母が大好きなはずだった。

 

 けれど、思い起こされる母の思い出は、祖父の死を願う震える声と悲痛な後ろ姿だけ。


 それが嫌で、私はずっと母から目を背けてきた。


 でも一年のうち一日だけ、命日のお墓参りだけは参加しなくてはいけない。


 毎年のことだが、霊園に到着すると足取りが重くなり、体が震える。そして無言で鎮座する墓石と向き合うと、あの呪いの日の情景がフラッシュバックするのだ。


 今年も、ついにこの日がやってきてしまった。


 車窓の風景がだんだんと森に切り替わってきた。源道寺家のお墓は街の南西部の山中にある。ガタガタと揺れる車は、今の私の不安を表しているかのよう。


 やがて車は、狭い駐車場へ入っていく。



 2



「あーちゃん、久しぶりぃ!」


 顔に豊満な胸が押し付けられる。外国の香水をつけているようで、エキゾチックな香りがした。


「暑苦しいです、灯華姉様」


 抱き着いてきた姉の灯華を引きはがす。


「つれないなぁ、半年ぶりだってのに。あっ、そうそうお土産あるから」


「今度はどちらに?」


「いやさ、三蔵法師の辿った道を追体験しようと思って、中国からインドまで弾丸ツアーを――」


 源道寺家次女、灯華。年齢は三十一歳。赤く染めた派手なショートカットに小麦色に焼けた肌、奔放という言葉を擬人化したような人だ。


 彼女は海外を転々としながら生活をしており、日本には年に数回しか帰ってこない。会うたびに髪色が変わり、正月に会った時はたしか緑色の髪で父と鏡華が激怒していたっけ。


 アメリカの大学に通うために移住したはいいものの、何に感化されたのか、卒業後もアメリカに残り、家の会社に就職することもなく、そのまま海外を遊んでまわ――飛び回っている。


「それでさぁ、途中で寄ったタイのカレーが辛くって」


「……三蔵法師の旅程にタイはありましたっけ?」


 そのルートはたぶん違うのでは、と私は思った。


「灯華、お母様の前ですよ。静かになさい」


 鏡華がたしなめる。


「へーい」


「そろそろこっちに戻って身を固めたらどうなの?」


「いやいや、会社は姉貴が継ぐんだし、あたしは自由にやらせてもらうよ。次女の特権」


「はぁ、全く。朝華、久しぶりね」


「ご無沙汰しています、鏡華姉様」


 源道寺家長女、鏡華。年齢は三十五歳。〈ゲンドウジ〉の専務を務めるバリバリのキャリアウーマンだ。

 長く伸ばした黒髪に、射抜くような眼光。すっきりとした鼻筋は母譲りだろう。

 かつて結婚をしていたが、おりしも母が亡くなった年に離婚して今はバツイチ。子供もいない。


 鏡華は私の頬を撫でて、


「お母様にそっくりになって」


 愛おしそうな表情を見せる。


「ねっ、本当にお母さんにそっくりだよ」


 灯華も同調する。


「そうですか?」


 鏡華も灯華も、私と年齢が一回り以上離れており、子供時代は離れて暮らしていたのもあって、姉というよりかは親戚のお姉さんといった関係だった。


「お前たち、行くぞ」


 父の号令で私たちはお墓へ向かう。


 深い山中に造られた霊園。荘厳な空気が漂い、耳に入るのは私たちの足音だけ。虫たちの声も聞こえなければ、風のささやきも聞こえない。


 木々に挟まれた階段を上る。


 一歩一歩進むたびに、足が重く感じる。呼吸が荒くなり、頭が痛くなる――はずだった。少なくとも、去年まではそうだった。


 やがて墓地へたどり着く。周囲を林に囲まれ、静寂に包まれている。入口にあった水道で水を汲み、父が桶を持った。


 皆無言のまま、進む。


 林立する墓石。どこからか漂ってくる線香の香り。


 私たちは源道寺家のお墓の前で立ち止まった。


 墓石に水をかけ、花立てに菊を入れる。線香を香炉に立てると、切ない匂いが立ち昇ってきた。


 父から順番に墓石の前に立ち、手を合わせる。この時ばかりは、灯華もしんみりとした表情になる。


「さあ、朝華」


 父に促され、一歩前に出る。


 毎年、この瞬間が嫌だった。


 避けていた母との思い出が呪わしい記憶となって蘇る。いつも、私が手を合わせている時間が一番短かった。


 でも今年からはもう違う。

 思い出ばかりに囚われていた私はもういない。


 思い出も大切だけれど、それ以上に大切な人と再会できたから。


 目を閉じると、瞼の裏に当時の映像が流れる。



 ――暗い洗面台に突っ伏す母。ちょろちょろと流れる水の音。



 今すぐにでもここを離れたい。でもそれじゃ駄目だ。


 お母さん、私はあなたを乗り越えていきます。


 思い出がすべて消えてしまっても、今の私には勇にぃがいる。



 ――『早く死んでくれ』という呟きを覚悟していた。しかし、背中を向けていた母は何も言わずに振り返った。



「え?」


 その表情は、どこまでも清らかで、暖かい笑顔だった。


「朝華?」


「気分が悪い?」


 二人の姉が私の背中をさする。気づけば、私はしゃがみ込んでしまっていたらしい。


「お母さん……」


 久しぶりに母の顔を見た、いや思い出した。私の思い浮かべる母はいつも後ろ姿ばかりだったから。

 同時に、母との思い出が雪崩のように私の心に流れ込んできた。


「うぅ……」


 私の名を呼ぶ声。忙しい仕事の合間を縫って、遊んでくれた母。幼稚園の頃は、子守歌をよく歌ってくれたっけ。


 視界が滲んで想いが溢れた。


「うわぁああああん」


 お母さん、大好きでした。



 3



「もう落ち着いた?」


 鏡華が顔を覗き込む。


「はい、大丈夫です」


 そして、私は改めて手を合わせた。


 お母さん、私は高校三年生になりました。


 今はとても楽しく暮らしています。


 私はお母さんのことが大好きです。


 今まで目を背けていてごめんなさい。


 人の世界は綺麗なものではありません。大人になってようやくそのことに気づきました。


 お母さんが思い詰めてしまった理由も今では理解できます。あの時、逃げるのではなく、お母さんの支えになってあげることができていたら、違う未来があったのでしょう。


 私は、思い出こそが至上のものだと考えてきました。


 けれど思い出以上に大事なものができました。


 私は今、ある男の人のために生きています。


 その人のことを考えると、心がぽかぽかと温かくなり、時には燃えるように熱くなります。


 その人といる時が、一番倖せです。


 お母さんと同じお墓には入れないけれど、見守っていてくれたら嬉しいです。


 また、会いに来ます。


 お墓参りを終え、私たちは出口へ向かう。その時だった。


「え?」


 私は振り返る。


「どうした? あーちゃん」


「いえ、なんでも。行きましょう」


 木漏れ日の落ちる階段を下りていると、蝉の声が聞こえてきた。



 4



「ええー!」


 未夜が驚いたように目を丸くし、大声を上げた。


 いや、俺も驚いたけど、そこまでか?


「せっかく伸ばしてたのにー」


「いや、未夜が伸ばしてたわけじゃねぇだろ。しっかし、ばっさりいったな」


「涼しくていい感じです」


 そう言って、朝華は髪に手櫛を入れた。


 肩の辺りで切り揃えられた、内巻きのセミロングヘアだ。


 未夜の部屋で推理小説の共作を始めたはいいものの、いつのまにか二人して寝落ちしていた。


 そしてお昼過ぎ、髪を切った朝華に起こされて一気に目が覚めたという次第だ。


 それにしても、背中まであったロングヘアを切ってしまうなんて、なんだかもったいないような。


「もうちょい短くすれば眞昼とお揃いだったのにな」


「眞昼もびっくりするだろうなー」


「未夜ちゃんも短くする?」


「えー? うーん、私は今のとこ大丈夫。っていうか、なんで急に切っちゃったの?」


「うーん、気分?」


「気分て」


 朝華は俺の方を見ると、ぱちりとウィンクをして見せた。


「どうですか? 似合ってますか?」


「ああ、似合ってるぞ」


「よかった」


 ほっとしたように朝華は息をついた。


「たしかに夏だし、いっそ私も、いやいやせっかくここまで伸ばしたし……」


 その日の夕方、部活帰りに遊びに来た眞昼も驚いていたことは言うまでもない。






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