第89話  姉の威厳

 1



「うぇへへ」


 気持ちよさそうに、ベッドで寝息を立てているおねぇ。


 夜通しずっと冷房をかけていたせいか、掛け布団にくるまっている。


 もう、こっちは朝っぱらからラジオ体操に駆り出されたっていうのに、いつまで寝てるんだか。


「この犯罪は美しくないよー」


 わけの分からない寝言まで飛び出す始末だ。


 ママにおねぇを起こしてって言われたけど、別に放っておいてもいい気がする。おねぇってなかなか起きないから起こすのがめんどくさいんだよねぇ。


 でもママに怒られるのも嫌だからなぁ。


「仕方ない、ちゃちゃっと起こしてやるか」



 *



 どん、と何かが私の体に落ちた。


「ぐほっ」


「起きろー」


 痛みが腹部を震源地として全身に駆け巡る。


 その衝撃で目が覚めた。


「起きたー?」


 うう……


 まず視界に入ったのは小さな体だった。


 栗色のロングヘアをローツインに垂らしたいつもの髪型。


 少女向けのアニメがプリントされたTシャツにデニム素材の短パンという夏らしい服装。


 未空が私のお腹の上にまたがり、こっちを見下ろしていた。


「おねぇ」


「え? な、なに? 未空?」


「おねぇ、夏休みだからっていつまで寝てるのさ」


「ふぇ?」


 時計に目をやるとまだ九時前だった。


「まだ九時じゃん。せっかくの夏休み初日なんだから、もうちょっと寝かせてよー」


 私は布団を頭までかぶる。


 まだまだ全然寝足りない。


 昨日は勇にぃと眞昼と朝華と、夜遅くまで一緒に映画を見てたのだ。


 勇にぃに車で送ってもらい、家に帰りついたのは午前零時過ぎだった。


 未空は顎に人差し指を当て、斜め上に視線を送る。


「別に私はいいんだけどー、おっさ……勇さんを待たせてもいいのかなぁ?」


「へ?」


「いーのーかなー」


 なんて言った?


 勇にぃ?


「おーい、勇さーん、おねぇ、二度寝するってー」


 言いながら、未空は部屋を出ていく。


「ちょちょちょ、勇にぃ来てるの? なんで?」


 私はベッドから飛び起き、急いで身支度を整える。


 バタバタと階段を駆け下りてリビングに。


 来るなら言ってよ、もう。


「はぁはぁ、勇にぃ……あれ?」


「なによ未夜、そんなに息を切らせて」


「あれ?」


 ワイドショーを見ていた母が咎めるように言う。その横で、ゲームをしている未空が笑いをこらえながらこちらを見た。


 リビングのソファにはその二人だけ。


 勇にぃはどこにもいない。


「うぷぷ、単純」


 こ、このクソガキ。


「未夜、起きたんなら朝ご飯食べちゃいなさい」


「う、うん」


「くくっ、うぷぷぷぷ」


 私を完全にいやがる。



 2



「もう未空が生意気でさぁ、本当に困っちゃうよ」


 数時間後、私は〈ムーンナイトテラス〉に遊びに行った。


「分かる、その気持ち、すっごく分かる」


「勇にぃも分かってくれる? ほんとにさぁ、私のことを舐め腐ってるんだよ」


「分かりまくる」


 勇にぃは大きく頷いた。


「私に対しては何してもいいって思ってるんだよ」


「うんうん、すごくよく分かるぞ。寝てる間に顔に油性マジックで落書きされたりするんだろ?」


「え? さすがにそんなことしないよ」


 いくら子供でもそんなひどい悪戯はしないだろうに。


「あ、そう」


「それでさぁ、どうしたらいいものか」


「俺の経験上、十年くらい時間を置いてから会えばいいと思うぞ」


「もう、真面目に考えてよー」


 私はオレンジジュースを一気に飲む。


 その時、からんころんと呼び鈴が鳴った。


 入口に目をやると、朝華の姿が。


 黒い薄手のカーディガンに純白のシャツ、下はベージュのショーパンという涼しげな装いだ。


「あ、朝華」


「よう、朝華」


「どうしたの、未夜ちゃん、そんなにふてくされて」


 朝華は私の向かいの席に座ると、カルピスを注文した。


「いやさ、未空が私のことを舐めてるって話」


「未空ちゃん? いい子じゃない」


「そりゃ、朝華や眞昼の前だと猫をかぶってるんだもん。姉としての威厳がズタボロだよ」


 未空が生意気なのは今に始まったことではないが、それにしてもここ最近は私に対する敬意というものを一切感じなくなってきた。


 まるでそう、私の方が妹であるかのように接してくることも……


「お待ち、朝華」


「ありがとう、勇にぃ」


「勇にぃ、私もオレンジジュースおかわり」


「待ってろって」


「未空ちゃんは今年で九歳だっけ」


「そう、悪知恵もついてきて大変だよ」


「ふーん」


 朝華は運ばれてきたカルピスを一口飲んで、


「やっぱり、お姉ちゃんはすごいって思わせるのがいいんじゃないかなぁ」


「というと?」


「生意気って言っても、未空ちゃんはまだまだ子供なんだし、知らないことやできないことの方が多いでしょう? だから、未空ちゃんがピンチになった時に未夜ちゃんが颯爽と助けてあげれば、『お姉ちゃん、すごい』ってなるんじゃない?」


「なるほど、つまりマウントを取ればいいってことだね」


「言い方」と勇にぃがツッコミを入れながらオレンジジュースのおかわりを運んできた。


 朝華は横に立つ勇にぃの手を取って、愛おしそうに指を絡める。


「お、おい、朝華」


「私たちも勇にぃにたくさん助けてもらったものね」


「そうだね……って、まずその恋人繋ぎやめようか」



 3



 まだ日が高い午後四時半、帰宅した私は早速未空の部屋に乗り込んだ。


「みーそら」


「……なに?」


 未空は勉強机に向かっていた。ちょうど夏休みの宿題に取りかかっていたらしい。


「お姉ちゃん暇だし、勉強を見てあげようと思って」


「……いや、いいよ。もう今日の分は今終わったばっかだし、分からなかったとこないもん」


「またまたー」


「後はママに丸つけしてもらうだけだもん」


「お母さんは買い物でしょ? お姉ちゃんがやったげる」


「まあ、おねぇでもいいけど」


「よしよし、じゃあ私がやってしんぜよう」


 私は母の部屋から夏休みの友の答えを拝借し、答え合わせをする。


「うっ……」


 ぜ、全問正解だと!?


 し、しかもこのクソガキ、もう夏休みの友を半分も終わらせている。私が子供の頃は、八月下旬になってようやく終わるか終わらないかの強敵だったのに。


「どう? あってた?」


「全部、正解だよ」


「ま、とーぜんだよね」


 え?  あれ?


 あそこにある原稿用紙は読書感想文……?


 ま、まさか、七月中に読書感想文を終わらせたというのか!?


 本を一冊読み、その上で感想を練って文章にするという三段作業を、夏休みに入ってわずか一週間弱で終わらせたというのか……


 おそろしい子!


「もういい? 私、これからゲームするんだから」


 未空はテレビ台の下にある据え置きゲーム機の電源を入れる。


「じゃ、じゃあお姉ちゃんも一緒にやろうかなー」


 はん、と未空は鼻を鳴らして、


「いいの? またコテンパンにしちゃうよ?」


「の、望むところよ」



 *



「いやぁ、いい勝負だったねぇ」


「十戦しておねぇが勝ったの一回だけなんだけど」


「くっ」


 最近の子供はゲームがなぜかしら上手い。


「も、もう一戦」


「まだやるの? もういいでしょ。ザコねぇとやっても面白くないから、お風呂でも入ってこよーっと。ザコねぇはそこで練習しときな」


 姉の威厳が、音を立てて崩れ去る。


 このままだと未空がさらに調子に乗り散らかすことは目に見えている。


 なんとかして起死回生の機会を窺わなくては。


 どうする?


 力では絶対に負けないから、腕相撲で勝負するか?


 いやでも万が一ということもあるし、ここは確実に勝てるものを選択すべき――









「きゃー」





 突然、未空の叫び声が聞こえてきた。


「未空?」


 なんだ?


 私は部屋を飛び出し、浴室へ向かう。


 滑って転んでしまったのだろうか。

 

 打ち所が悪ければ、大きなケガに繋がってしまうかも……


「み、未空、大丈夫?」


「おねぇ!」


「わっ」


 脱衣所に入ると、裸の未空が抱き着いてきた。


 ケガをしているふうではなく、とりあえず安心する。


「どうしたの?」


 未空はぎゅっと私の腰を抱え、胸に顔をうずめる。


「な、ななな、中に……あれが」


「中?」


 未空を引きはがし、恐る恐る浴室を覗く。


 そこには――


 黒光りするボディ、ぴょんと伸びた二本の触覚。ちょこちょこと壁を歩き回るカブトムシのそっくりさんがいた。


「なぁんだ、ゴキちゃんか。ほい」


 ゴキブリをひょいと摘み上げる。どうやらこの子一匹だけのようだ。


「なんだじゃないよ、うわぁっ、ち、近づけないで」


「はいはい、じゃあお外に逃がしてきますよっと」


 全く、ゴキブリなんかに怯えるなんて、未空もまだまだ子供だなぁ。


「いや、トイレに流してよ。外に逃がしたらまた入ってくるじゃん」


「殺したら可哀そうでしょ? 大丈夫、遠くに逃がしてくるから」


 近くの雑木林にゴキブリを解放し、私は家に戻った。


 すると、未空がタオルを巻いた半裸の状態で待っていた。


「未空、早く着替えないと風邪ひくよ。いくら夏だからって」


「違う、おねぇ待ってたの。一緒にお風呂入って」


「へ?」


「ま、またあいつらが出たら、やばいから」


「しょうがないなぁ」


 そうして、未空と一緒に入浴をする。


「ねぇ、今日のご飯唐揚げだって」


 体を洗っていると、湯船に浸かった未空がぽつりと言った。


「本当? やったー」


「さっきのお礼に、私の一個あげるよ」


「いいの?」


「うん、おねぇって変なとこですごいよね」


「……それ褒めてる?」


 こうして私の姉としての威厳は復権を果たした。




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