第86話  三分の三

 1



 朝華の頭から麦わら帽子が落ち、長い黒髪がはらりと揺れる。


「お、おい、朝華……」


 時間にしてほんの数秒だったけれど、その衝撃はとてつもなかった。


「えへ、しょっぱい」


 朝華は勇にぃの首元から顔を離すと、ぺろりと唇を舐めた。


 勇にぃは首元を押さえたまま、顔を赤くしている。暑さのせいかそれとも今の朝華の……


 いつもは大胆な眞昼もさすがに驚きを隠せない様子で、あっけにとられた表情をしている。


「みんな、お待たせ」


 朝華は麦わら帽子を拾い上げると、普段と変わらぬ落ち着いた佇まいでそう言った。


 まるで何事もなかったかのように自然な声色と笑顔。


 しかし、その顔がほんのりと上気しているのを私は見逃さなかった。


「……お待たせ、じゃないわー」


「どうしたの、未夜ちゃん?」


「どうしたもこうしたもない! い、いきなり、なに、だ、だ……」


「だ?」


「こんな公衆の面前で抱き着くなんて、何考えてんの!」


「ああ、そんなこと」


 朝華はあっさり言った。


「そんなことって……」


「未夜ちゃんも眞昼ちゃんも、小さい時は抱き着いたりしてたじゃない」


「そ、それは子供だからでしょーが!」


「そんなの関係ないよ。だって、私たちと勇にぃのだもん。これくらい別に変なことじゃないよ」


「だからって……」


「それに」と朝華は眞昼の方を見て、


「眞昼ちゃんだって、勇にぃと再会した時、テンション上がってそのまま抱き着いちゃったって言ってたよね」


「へ? ああまぁ、そうだけど」


「それと同じだよ。久しぶりに勇にぃに会えて、思わず抱き着いちゃっただけ。勇にぃが帰ってきてから、二人はずっと同じ街で暮らしてて、状況でしょう?」


「まあ、たしかにな」と眞昼。


 スキンシップの距離感に無頓着な眞昼はもうあんまり気にしていない風だった。


「私はたまにしか会えないんだし、そこもくんでくれると嬉しいな」


「うーん」


 言われてみれば、そう……かも?


 いやでも……いくら勇にぃと私たちの仲だからって、もう大人同士なんだし……


「それに、未夜ちゃんも同じような立場になったら、きっと同じことをするって」


「私はそんなことしな……あっ」


 勇にぃが私の正体に気づいた時、感極まって抱き合ったっけ。


「……」


 だけどあれはその場の雰囲気というか、流れみたいなのもあったし、ようやく気づいてくれたっていう嬉しさも背中を押してたし……


「どうしたの?」


「いや、でも普通キスまではしないって」


「キス?」


「とぼけても無駄だよ。『ちゅっ』って音が聞こえたもん」


「ああ、勢いあまって唇がくっついちゃっただけだって。別に口と口でしたわけじゃないんだし。大げさだよ」


「お、大げさって」


「それに、未夜ちゃんがやってた名前当てゲームに、全然普通のことだよ」


「うっ……」


 そ、それを引き合いに出されると……


「三か月近くも別人の振りをして勇にぃに接するなんて、それこそすごいことだって」


「たしかにな」


 眞昼が同調する。


「あん時はあたしも苦労したよ」


「やめてぇ、私の黒歴史を蒸し返さないでぇ」


「ごめんごめん。そんなことより、お土産持ってきたからあとでみんなで食べよう」


 朝華は足元の紙袋を掲げて見せる。


 お土産?


「鎌倉の老舗和菓子店で買ってきたの。お茶請けにぴったりだよ」


「わーい」



 *



 朝華に舐められた首筋が熱い。


 心臓が痛いほどバクバク鳴っている。


 あの感触……


 俺の予想が正しければ、朝華は俺の首を舐めて……


 この炎天下、俺は少なくない汗をかいていた。


 もちろん、首筋にも……


 なんだか開いてはいけない扉が開きかけたので、俺は父の裸を想像した。


「勇にぃ、行こうよ」


「お、おう」


 未夜に呼ばれ、俺は階段を下りた。


 前を歩く三人についていく。


「朝華はいつまで休みなんだ?」


 眞昼が聞く。


「九月の一日までだよ」


「ほー、けっこう長いじゃん。じゃあ八月いっぱいはこっちにいられる感じ?」


「うん」


 朝華は歩きながら街並みを観察するように目を動かしていた。時折悲しそうな色が浮かぶのは、景色のを見つけたからだろうか。


「どうする? このまま〈ムーンナイトテラス〉に行く? それともどこかでご飯食べてく? 朝華はお昼食べた?」


 未夜がみんなを見回す。


「実はまだ。みんなは?」


「私たちも食べてないんだ」


「よし、じゃあ飯食ってくか。俺が奢ってやるぞ」


 近くのファミレスで昼食を取り、俺たちは〈ムーンナイトテラス〉に帰った。



 2



 俺の部屋に未夜、眞昼、朝華がいる。


 こうして四人でこの部屋に集まるのは高三以来か。


 今ではこいつらが高校三年生。


 時間の流れというのは、本当に速いものだ。


 あんなに小さかったこいつらがなぁ。


「どうした? 勇にぃ」


 眞昼が顔を覗き込む。


「なんか、感慨深ぇなって」


「?」


「ちょっと昔を思い出してな」


 思い出が詰まったこの部屋。


 あのベッドに三人がよく寝転がっていたっけ。


 ゲームをしたり、テレビを見たり。


 時には昼寝をしたり、宿題を見てやったり……


 いろんなことをして遊んだなぁ。


 最初は一方的に部屋を占拠されて迷惑に思っていたが、いつの間にかこいつらと過ごす日常を楽しんでいる自分がいた。


 成長した三人に、クソガキ時代の姿が重なる。


 悪戯大好きおてんば娘の未夜は、落ち着きのある文学少女に。


 活発で男の子みたいだった眞昼は、色々大きく育ち、みんなを引っ張るしっかり者に。


 甘えん坊で寂しがりだった朝華は……あんまり変わってないな。


「未夜、眞昼、朝華」


 三人の顔を順に見る。


 めちゃくちゃ今更だけど、改めてこれを言わなきゃな。



「ただいま」



「おかえりなさい」

「おかえりなさい」

「おかえりなさい」



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