第78話 すいません、ブレーキがついてないんですが
1
「う、うーん」
蝉の声がうるさい。
もう朝か。
薄ぼんやりした視界が、窓から差し込む朝日を受けてだんだんと鮮明になっていく。
少し肌寒いのは、冷房がついたままだからだろう。ひんやりとした空気が室内に満ちている。
ん?
冷房?
俺の部屋にはエアコンはないはずだが……
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。数秒のち、ここが源道寺家の別荘であると気づく。
昨夜は華吉、朝華と共に中華料理を食べに行って、そのままここに泊まっていったんだ。
「ん?」
布団の中に、なんだか妙な圧迫感とぬくもりを感じる。
不自然に膨らんだ掛け布団。
よく見ると、まるで呼吸をするように小さく上下している。
「……」
いや、まさかな。
俺は恐る恐る布団をめくった。
「あっ」
中には朝華がいた。
俺の胸に顔を乗せ、朝華は満足そうに寝息を立てている。
「な、なんで?」
昨日ベッドに潜り込んだ時は一人だったと記憶している。いったい、いつの間に……
いや、それよりも驚くべきは朝華の服装だ。薄手のキャミソール一枚に下着だけという、とんでもない格好。彼女の大きな胸が押し付けられた腹部に熱がこもり、一瞬理性が吹っ飛びかけた。
こ、これはまずい。
というか、この柔らかな感触、こいつもしかしてノーブ――
全身の血が下半身に集中していく。
やばい。俺はとっさに父の裸を想像して昂ぶりを相殺する。
あ、危なかった。
「おい朝華、起きろ」
彼女の小さな背中を叩く。シミ一つない、シルクのような肌だ。
「朝華」
「うぅん? あ、勇にぃ。おはようございます」
とろけた甘い声を出し、朝華はいっそう体を絡めてくる。
「おま、何やってんだ。いやマジで」
「勇にぃと一緒に寝たくなっちゃって。えへへ、子供の頃を思い出しますね」
悪びれる様子もなく、朝華は俺を抱きしめたまま動こうとしない。
ほのかに香る花のような甘い匂いと朝華の体温が、俺の理性を揺さぶる。
「勇にぃ、あったかいです」
「今はもう大人同士なんだから、そういうことは――」
言いかけて口が止まる。
朝華が目を潤ませて俺を見つめていたのだ。
「私のことが……嫌なんですか?」
「……嫌なわけないだろ」
「えへへ、じゃあ私のしたいようにさせてもらいますね」
それからしばらくの間、朝華は俺から離れようとしなかった。
やっぱりこいつは、十年経っても甘えん坊のままか。
昨日、朝華はこう聞いてきた。
俺を、自分の生きる目的にしてもいいか、と。
おそらく、今の朝華には精神的な拠り所が必要なのだろう。今を楽しむことができず、思い出を心の支えにしていたくらいだ。
その代わりが俺で務まるのなら、可愛い妹分のためだ、一肌脱ぐことはやぶさかではない。それにもしあの場で朝華を拒絶したら、本当に崖下に飛び降りてしまうのではないかという危機感もあった。
だから俺はこう答えた。
『朝華のしたいように、していいよ』
とは言ったものの、まさか子供の時と同じようにべったりくっついてくるとは……
子供だったからよかったことも、今の基準に照らし合わせると完全にアウトではなかろうか。あの頃は高校生と小学生だったから、兄妹のような関係で健全だったのに、今はおっさんと女子高生。半分犯罪じゃないか。
「朝華、そろそろ起きよう。シャワー浴びたいんだ」
「はい、分かりました」
そうして俺は浴室へ向かう。さすがは金持ちの別荘。個室に専用の浴室まで完備しているとは恐れ入る。
「ちょっと待って朝華」
「はい?」
朝華はきょとんとした目を向ける。
「なんでついてきてんの?」
「背中を流してあげようと思いまして」
そういって、朝華はにこりと微笑んだ。
「背中って……」
キャミと下着だけという姿は目のやり場に困る。
「いや、いいよ」
「遠慮しないでください」
「遠慮というか……シャワー浴びるくらいだから……はっ!」
ここでまた断ると、拒絶されたと勘違いするかもしれない。朝華は昔からそういうところに敏感だった。となると……
「朝華、それより腹減ったからさ、朝食の準備ができているか見てきてほしいな。頼めるか?」
「はい、分かりました」
朝華がぱたぱたと出ていく。
「あ、服を着てけ!」
「はーい」
「全く」
無事にシャワーを浴び、身支度を整えていると、華吉がやってきた。青い顔をしているところを見ると、二日酔いのようである。
「やあ、おはよう」
声がいつもよりこもっている。
「おはようございます」
「いやぁ、昨日は飲みすぎた。まだ頭が痛いよ」
「大丈夫ですか?」
「勇くんはしゃっきりしてるな」
「俺はほどほどだったので」
昨晩は深夜まで華吉と晩酌をした。朝華もいたのだが、もちろんアルコールは飲まず、夜遅くまでおっさんたちの酒盛りに付き合わせてしまった。
「今日は私はゆっくり休んでいることにするよ。朝華の相手は任せた。久しぶりに君に会えて、やっぱり喜んでいるようだね」
「え、ええ」
「それじゃ」
何はともあれ、こうして無事に朝華と再会することができたんだ。
三人のクソガキ全員と再会することができて、ようやく帰ってきたという実感が湧いてきた。
まあ、ここは湘南だが。
2
心が軽い。
まるで羽が生えたようだ。
昨日まで鬱屈していた自分が嘘のように思える。
目に映る全てが新鮮で、まるで初めて色というものを認識したかのように、世界は鮮やかだった。
「ふんふふーん、ふんふふーん」
私は軽やかな足取りで廊下を駆け、勇にぃの部屋に戻った。
「勇にぃ、もう少しで朝ごはんですよ」
「おう」
勇にぃの姿を見るだけで、心が満たされていく。そして彼に触れれば、全身に幸福の源が注ぎ込まれていくような心地だった。
勇にぃの手を取り、両手で包み込む。ごつごつした大きな手。昔から私を撫でてくれた、大好きな手。
「どうした? 朝華」
「なんでもありません」
今この時間が永遠に続けばいいと思えるほどに、私は幸せだった。
勇にぃのいない人生なんて考えられない。
この人のために生きよう。
私は改めてそう思った。
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