第77話  朝を追いかけて

 1



 ――まるで、人形が出てきたかのような錯覚に陥った。


 背中まで伸ばした艶のある黒髪。雪のように白い肌にほんのり赤みが差した頬。豊満な胸のふくらみを強調するかのようなタイトな白いワンピース。身長は俺の頭一つ分ほど低い。


 薄幸の美少女といった雰囲気の彼女だが、あの甘えん坊の面影はたしかにある。


「よっ」


 眼鏡の奥に覗く大きな瞳は驚きと困惑で揺れ動き、「あっ……」と開いた口は閉じる気配がない。


 ふっふっふ、どうやらサプライズは成功したようだ。


 なるほど、華吉が親バカを発動するだけのことはある。


 あのクソガキがこんな和風美少女に成長するとは。


 朝華との思い出が走馬灯のように次々と浮かんでくる。


「久しぶりだな――」


 そうして俺が一歩踏み出した瞬間のことだった。


 ダッと地面を蹴る音が聞こえたかと思うと、朝華が視界から消えた。


「え?」


 彼女は玄関ポーチから飛び出し、別荘の裏手へと走る。


「え? え?」


 いきなりのことに、俺の頭は状況の理解が進まない。


 なんだ?


 なんで、走り出して……


 まるで逃げるみたいに……


「ちょ待てよ」


 考えるよりも先に体が動いた。


 遅れて俺も彼女の後を追う。


 朝華が裏の林の中に飛び込んでいく。


「おーい、朝華ァ」


 もしかすると、俺が誰だか分からなかったのかもしれない。


 突然男が訪ねてきて、それで身の危険を感じたのかも……


 走りにくい林の中で白い背中を追いかけながら、俺は叫ぶ。


「俺だよ、有月勇だよ」


 声が届いたのか、朝華は一瞬だけ立ち止まったが、再び駆けだす。


「朝華?」


 何が何だか分からないまま、俺は朝華を追いかけ続ける。


「っていうか、はやっ!」



 2



 なんで?


 なんでここに勇にぃが?


「朝華ァ」


「はぁ、はぁ」


 のほほんとした雰囲気。


 私の名前を呼ぶ暖かい声。


 そして、あの柔らかい目。


 記憶の中の勇にぃと変わらない姿に……私は、私は……


 胸の奥が熱い。


 あの頃の思い出が、鮮明に思い出される。


 一緒にプールに行って、自由研究を手伝ってもらって、花火を見て、一緒にお泊りをして、勇にぃの誕生日をみんなで祝って……


「はっ、はっ」


「待ってくれェ」


 私がここにいるのを知っているのは父だけだ。となれば、父が余計な気を回して勇にぃを呼んだのだろう。

 本当に余計なおせっかいだ。




 私は。






 私は。







 会いたくないんだから。



「来ないでください」


 やがて林が途切れ、視界が青く染まる。


「あっ」


 この先は崖だった。


 私は崖の縁で立ち止まる。数秒遅れて、勇にぃが追いつく。


「朝華、俺だ。憶えてないか?」


「……」


 海を渡った風に、髪が煽られる。


 私の心中とは正反対の清々しい青空が眼前に広がる。


 様々な想いが胸の内で渦巻く。


「有月勇だよ。驚かせようと思って、華吉さんと――」


「このまま帰ってください、


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


「え?」


「それ以上近づいたら、私はここから飛び降ります」



 3



「それ以上近づいたら、私はここから飛び降ります」


「は? ちょ、ちょっと待て」


 状況が理解できない。


 俺のことは憶えているようだ。でも、この冷たい態度は……


 なんだ? もしかして十年帰ってこなかったことを怒っているのか?


 有月さんなんて、他人行儀な呼び方までして……


「東京に行ってから、一度も帰省しなかったのは悪かった。でも、それには事情が――」


「もう一度言います。お願いですから、このまま帰ってください、有月さん」



「……朝華?」


 怒りを含んだ声色ではない。気持ちを押し殺したような震えた声、むしろこれは……


「お願いです、綺麗なままのあなたでいてください」


「……どういうことだよ。なんで俺から逃げるんだ?」


「私にとって、あなたは思い出の中の存在なんです。思い出の、最後の砦」


「思い出?」


「思い出は、汚れてしまったらもう二度と取り戻せないんです」


「なにか、あったのか?」


「……」


「……」


 波が岸壁にぶつかって弾ける音が数秒おきに聞こえてくる。


 海面との差は優に30メートルはありそうだ。なんとか隙を見て朝華を安全な場所まで引き戻したいが……


 できるだけ音を立てずに足を上げようとすると、朝華の体もわずかに動いた。


「近寄らないでください、と言ったはずですが」


「危ないから、話なら、向こうでしよう。こっちへ来い」


「あなたが帰れば、私も戻ります」


 なぜそこまで俺を拒絶するのか、朝華の真意がまるで分からない。


 風の音と波しぶきだけが耳に残る。


 無限のように思えた沈黙を破ったのは、朝華だった。


「お母さんが、言ったんです」


「お母さん?」


 朝華の母とは、十年前も会ったことがなかった。

 数年前に不慮の事故で亡くなったと、静岡に帰省してから知った。


「私の祖父が認知症というのは知ってますよね。その介護疲れで……ある日、お母さんが祖父のことをこう言ったんです」


 早く死んでくれ、と呟いた朝華の声は、今にも泣きだしてしまいそうなほどに震えていた。


「私は、お母さんがそんなことを言うのが信じられなくて、辛くて、悲しくて、でもお母さんはその後すぐに交通事故で死んじゃって、お母さんは私の中で綺麗な存在だったのに、今お母さんのことを思い出すと、どうしても『早く死んでくれ』って呟く姿ばかりが目に浮かぶんです。お母さんとの思い出は、たくさんあったはずなのに、汚れて何も見えなくなってしまったんです」


「思い出が……汚れる」


「嫌なことがあっても、辛いことがあってもぐっと我慢して、子供時代の、あなたとの思い出を支えに頑張ってきたんです。でも、そうやって過去を拠り所にしていたら……いつからか、『今』が楽しく感じなくなったんです」


 その時、朝華の足元に水滴の跡が点々としているのが見えた。


「だから私は、あなたとの思い出まで失うわけにはいかないんです。私にとって、思い出は何よりも大切なものなんです。失ってしまったら、もう二度と手に入らないから、失ってしまったら、生きている意味がなくなるから」


 朝華は叫んだ。


「だから私はあなたに会いたくないんです」


「……そういうことか」


 時間が経てば、たいていのものは変化する。


 人にしろ、物にしろ、いつまでも同じ状態でい続けることはあり得ない。


 そして、その変化が取り返しのつかないものにまで及んでしまうことが耐えられないということか。


 大人になるにつれて、人は汚くなる。社会人になって、綺麗ごとばかりで世の中が回っていないことに気づかされた時、たしかに俺もショックを受けた。


 人に対して平気で悪意を向ける人間がこの世にいることに、憤りを感じたこともある。


 俺が、俺の人間性が風に変わってしまっていたら、俺との思い出を純真な気持ちで振り返ることができなくなる。


 そういうわけか。


「悪かったな」


「なにがです?」


「もっと早く東京から帰って、お前らのそばにいてやれば、支えになってやれたかもしれないのに」


「……そんなこと、今さら言われても困ります」


「俺もお前たちとの思い出を支えに十年頑張ってきたけど、結局体を壊して、東京での生活が嫌になって……逃げてきた」


「……」


「当時は根性のない奴だって、自己嫌悪でいっぱいだったけど、今になって思えば、その選択は間違ってなかったんだなと信じられる。困難には立ち向かうべきだけど、辛いこと、嫌なことからは逃げたっていいんだ。そんなもんを耐えたってなにも得られない。心がすり減るだけだ」




「……」



「もし俺のことがなんだったら、このまま俺から逃げればいい」



 俺は一呼吸おいて、



「俺のことが嫌いか?」



「有月さん、が違います。私はあなたを嫌いになりたくないから会いたくないんです」




「……」




「……」




「……」



「……」




「……」




「……」




「もう、勇にぃって呼んでくれないのか?」




「……」




「……」



「……」


「……」


「……そんなの、ずるいよ」



 朝華は振り向くと、はじかれるようにしてこちらに飛び込んできた。涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔が、俺の胸に収まる。


「勇にぃ」


「朝華」


 朝華を抱きしめていると、ふいに涙が込み上げてきた。


「会いたかった、ずっと、ずっと、会いたかった……うわあああん」


「一人で辛かったな」


「ごめんなさい、ひどいこと言ってごめんなさい」


「気にすんな。俺こそ、十年も会いに来なくて、悪かった」


「もう、私を独りにしないでください」


 しばらくの間、俺と朝華は子供のように泣き続けた。




 *




 涙も収まり、朝華が言った。


「勇にぃ、お願いがあるんです」


「なんだ?」


「私は生きていても楽しくありません。だから――」


 俺の胸に顔を寄せたまま、朝華は続ける。








「あなたを、私の生きる目的にしてもいいですか?」




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