第17話
教室に入ると、一瞬喧噪が静まり、半数以上の視線がこちらへ集まった。
まるで、長い間不登校だった生徒が久々に登校してきたかのような反応だった。遠慮なく向けられた視線は、腫れ物を扱うかのようにまたすぐに逸らされる。それから一拍遅れて、喧噪も戻ってきた。
俺は何気なく教室を見渡す。白い花はどこにも見あたらない。それを確認してなんとなくほっとしていたとき、長谷部と千野が駆け寄ってきた。
「よかった、志木くん、心配してたんだよ」
弾んだ声で言う千野の隣で、長谷部も大きく頷いた。それから思い出したように、あ、と声を上げ
「昨日さ、ごめんな。おまえの家行くって言ってたのに」
心底申し訳なさそうに言われた長谷部の言葉には、「いいよ別に」と短く首を振る。
「プリントもらったから、それ届けようと思ってたんだよ。でも、そしたら水原が」
長谷部が口にした名前に、俺は思わず彼のほうを見た。彼はなにも気にした様子はなく、軽い口調のまま
「自分のほうが家近いから、自分が届けるって言ってさ。そう言われたら断るわけにもいかないし。いちおう様子見に行くだけ見に行こうかとも思ったんだけど、水原がおまえに何か用事でもあるんなら、行かないほうがいいかと思って」
俺は、ふうん、とごく短い相槌だけ打った。
長谷部も、その用事の内容についてまで聞いてくる気はないようだった。代わりに千野が何気ない調子で
「でもちょっとびっくりした。志木くん、水原さんと仲良かったんだ」
少し迷ったが、否定するのもおかしいような気がしたので、「まあ」と曖昧に頷いておいた。
ふと窓際のほうへ視線を飛ばす。自分の席で、今日の授業の予習をしているらしい水原の姿が見えた。
「手は大丈夫なの?」
昨日から何度目になるかわからない質問をまた向けられて、俺は視線を戻した。千野はかすかに顔をしかめ、包帯の巻かれた左手をまじまじと眺めている。
俺はその手を軽く持ち上げ、「大丈夫」と頷いた。すると千野は安心したように息を吐いたあとで
「でも手滑らせてガラスに突っ込むって、どんだけ抜けてんのよ志木くん」
あからさまに呆れた口調で、ぼそりと呟いた。俺はなにも言わず、黙って一度だけ頷いておいた。
教壇には数学の教師が立ち、組み立て除法のやり方を丁寧に説明している。
俺は真っ白なノートを眺めながら、ぼんやりとその声を聴いていた。やがてそれにも飽きて、何とはなしに視線を彷徨わせる。
そのとき、ふいに気づいた。朝、この教室に入ったときからかすかに感じていた違和感の正体。
三日前まで、両端の列にはそれぞれ六つの机が並んでいた。しかし今日は違う。一つ少なくなっている。俺は顔を上げ、教室を見渡した。そういえば、今この教室に空いている席は一つもない。白い花が取り去られただけではなかったらしい。二人の机ごと、もうなくなっていたのだ。
俺は目を伏せ、一度息を吐いた。シャーペンを机に置く。
立ち上がると、椅子ががたんと思いのほか派手な音を立てた。気づいた先生が話を止め、こちらを見る。
「どうした、志木」
その声に、クラスメイトたちの視線も一斉に俺のほうを向いた。一番前の席に座っている長谷部が、今にも駆け寄ってきそうな顔をしてこちらを見ているのが見えた。
俺はその視線を避けるように顔を伏せ、短く告げる。
「気分が悪いんです」
あながち嘘でもないことが、ありがたかった。
宮下のことを憎みたかった。この先もずっと、俺はそうやって生きていきたかった。
そして里穂の両親にも、同じように彼を憎んでほしいと思った。だけど、穏やかに宮下のことを語る里穂の母親を見ているだけで、どうしようもないほどはっきりと突きつけられた。
だったらあとは、水原しかいなかったのだ。
階段を一番上まで登り、現れた無骨な鉄の扉に手を伸ばす。鍵が閉められているかと思ったが、手首を捻ればその動きに従ってドアノブは回った。
重たい音を立てて開いたドアの向こう、銀色のフェンスに囲まれた殺風景なコンクリートが広がる。ドアノブから手を離すと、ちょっと驚くほど大きな音を立てて扉が閉まった。
フェンスのほうへ歩いていく。ふと空を仰げば、抜けるような青色が視界を埋めた。
フェンスの隙間に指をかけ、下を見下ろしてみる。中庭に並ぶ花壇やらベンチやらが小さく見えた。それらをぼうっと眺めながら、制服のポケットに手を突っ込む。そしてそこから携帯電話を引っ張り出すと、フェンスにもたれかかってそれを開いた。
電話帳をスクロールしていきながら登録された名前を眺める。端から端まで二度視線を往復させたあとで、自分が水原の名前を探していることにようやく気づいた。そしてそのあとで、彼女の電話番号なんて知らないことを思いだした。
携帯を閉じてポケットにしまおうとしたとき、電話がかかってきた。ふたたびそれを開くと、ディスプレイには長谷部の名前があった。
出ると、すぐに昨日と同じあわてた声が聞こえてきた。
『おまえ、今どこにいるんだよ』
時計に目をやるとまだ授業時間は終わっていなかったので、どこから電話しているのだろう、とちょっと怪訝に思いながら、「授業は?」と尋ねれば
『抜けてきた。おまえが急に出て行くから』
当たり前のようにそんなことを言った。それから早口に
『気分悪いっつってたから保健室行ったんだろうと思ったのに、志木いないからさあ。もしかして、また帰ったのか?』
「いや、まだ学校」
『じゃあどこにいるんだよ』
俺は答えずに、フェンスを握る自分の指先を見つめた。すぐに『おい、志木』と長谷部が急かす声を立てる。
ゆっくりと息を吐いたあと、俺は、なあ、と口を開こうとしたが、ちょうどそのとき電話の向こうで風を切るような低い音がした。『ちょ、はるか……』という長谷部のあわてた声が急に遠くなった場所から聞こえ、代わって千野の高い声が耳元で響く。
『あのねえ、いい加減にしなさいよ、志木くん』
俺は思わず携帯を耳から少し離した。どうやら長谷部の携帯を千野が奪ったらしい。
千野が一つ息を吸う音が聞こえた。そしてそのあとは、こちらには口を挟む暇も与えず捲し立てた。
『志木くん、結局逃げてるだけじゃない。つらいとは思うわよ。志木くんがどんだけ赤嶺さんのこと好きだったのかは、もう充分わかったわよ。でもね、自分がつらいからって目背けちゃ赤嶺さんがかわいそうでしょう。そりゃあたしは二人のこと何にもわかってないし、赤嶺さんが自殺を考えるほど苦しんでたなんてことも全然知らなかったし、なにもしてあげられなかった。でも赤嶺さんが、志木くんのことすごく好きだったことくらいは知ってるから、だから』
言葉に詰まったように、そこで千野の声が途切れる。
俺は黙って目を伏せた。前に似たような台詞を聞いたことを思い出しながら、なあ、と電話の向こうへ声を投げる。返ってきた、『え?』という驚いたような声に
「水原、今近くにいる?」
尋ねると、千野は露骨に戸惑った様子で『水原さん?』と聞き返してきた。短く頷く。千野は、『あー、それが……』と困ったように語尾を濁したあと
『あたしたち、今、保健室にいるからさ。ちょっと今近くにはいないけど』
そっか、と呟くと、千野はすぐに『あ、ちょっと待って』と声を上げた。
『それなら今から教室戻るよ。たぶん水原さん、教室にいると思うから。それで水原さん見つけたら、電話に出てもらう。ちょっと待ってて』
彼女は早口に告げると、通話を切った。
俺は携帯を閉じ、空を見上げる。ふいに、里穂の告別式の日もこんな青空だったことを思い出した。
少しして、授業時間の終了を告げるチャイムが鳴った。ふたたび携帯が震えたのは、そのすぐあとだった。
『それがさ、教室戻ってきたんだけど』
開口一番に、千野が困り果てた声で言う。そのとき、背後で鉄の扉が開く重たい音がした。ゆっくりと振り向く。不思議だった。俺はもうその訪問者が誰であるか、はっきりとわかっていた。
『水原さん、教室にいなくて。トイレかなあ。あたし、今から探しに』
「もういいよ」
千野の言葉を遮り、静かに告げる。『え?』と当惑したように聞き返してくる千野に
「もう見つかったから」
それだけ言って、通話を切った。
ドアの向こうから現れた水原は、俺の姿を認めるとほっとしたように息を吐いて、こちらへ歩いてきた。俺はフェンスのほうを向いていた身体を彼女のほうへ向け、素っ気なく声を投げる。
「なんだよ。もう授業始まるだろ」
「だって」
心配だったから、と、水原は昨日と同じ言葉を繰り返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます