第15話
ごめんなさい。
宮下くんを憎まないでください。
水色のシンプルな便箋には、見慣れた里穂の字で、それだけ書かれていた。
宛名はない。それは里穂を知るたくさんの人へ向けられた、彼女からの最後のメッセージだった。
しかし俺には、その言葉ははっきりとした意志を持ち、俺へ向けられているように思えた。まるで、今俺の抱いている心の奥底に横たわる感情まで、里穂はすべて見透かしていたかのように。
「あの日里穂が手術を受けたのはね、盲腸じゃなかったのよ」
コーヒーの入ったカップを両手で包むように持ったまま、しかしそれをいっこうに口へ運ぶことはなく、彼女は口を開いた。
俺は便箋を見つめていた視線を上げ、彼女の顔を見る。彼女はいかにも力無い笑みを浮かべ
「里穂ね、盲腸じゃなくて、子宮の病気だったの」
俺はしばし黙って彼女の顔を見つめていた。
その言葉の意味をきちんと理解するには、少し時間がかかった。まぶたの裏に、従兄弟の息子と楽しそうに遊ぶ里穂の姿が浮かんだ。
「じゃあ」掠れた声が、喉からこぼれる。
「子どもは」
それだけで彼女は俺の聞きたいことを察したようだった。
「子宮を摘出しちゃったから」
ふっと目を伏せ、呟くように言う。その先は、聞かずともわかった。
俺も黙って目を伏せれば、しばらく沈黙が続いた。時計の針が動く、規則正しい小さな音だけが落ちてくる。
「嘘ついててごめんね」
やがて、里穂の母親がそう言って静かに沈黙を壊した。
俺はなにも言えなかった。首を振ることもできず、ただ膝に置かれた自分の拳を眺めた。
息を吐こうとしたら、「なんで」と、喉の奥から声が押し出された。
「なんで、そんな嘘をついたんですか」
里穂の母親はしばらく黙っていた。
やがて、ごめんね、ともう一度繰り返し
「心配かけなくなかったんだって。とくに和紘くんと繭ちゃんにはね、絶対に言わないでおいてほしいって強く釘を刺されていて」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ」口を開くと、いつの間にか口の中がひどく渇いていたことに気づいた。
「宮下は知っていたんですか」
少し間をおき、里穂の母親は丁寧に頷いた。
「私たち家族の他に知っていたのは、宮下くんだけだった」
「なんで宮下だけ」
「宮下くんね、よく家にご飯食べに来たりしていたのよ」
俺の言葉に対し、里穂の母親はあまり噛み合っていない返答をした。
視線を上げる。彼女は軽く顔を伏せ、両手で包んだカップを眺めていた。その口元に穏やかな笑みが浮かんでいるのを目にした瞬間、正体のつかめない冷たさが身体の奥に広がった。
「あの子の家庭ね、あんまりうまくいっていないみたいだったの」
穏やかな口調のまま、彼女は言葉を続ける。それでよけいに落ち着かない気分になった。黙って相槌を打てば、彼女はさらに重ねた。
「ご両親じゃなくて、親戚の方と暮らしてるらしくて。まあ、あんまり詳しくは知らないんだけどね。そんなに突っ込んで聞けるようなことでもなかったし」
そのことなら、きっと俺は彼女より詳しいところまで知っている。もちろん宮下本人から聞いたわけではないし、調べ回ったわけでもない。里穂の口から聞いたのだ。
宮下の両親は早くに亡くなっていて、今彼は親戚のおばさんと暮らしていること。しかしそのおばさんは滅多に家に帰らないらしく、ほとんど一人暮らしをしているような状態になっていること。
里穂が何の意味もなく他人の家の暗い事情を俺に聞かせるわけがない。この話をしたあとに、里穂は俺に言った。いろいろ大変な思いをしてきた人なのだ、無愛想に見えるかもしれないけれど、どうか誤解しないで、友達になってあげてほしい、と。
俺は膝に置いている拳に力をこめた。短く息を吸い、口を開く。
「宮下は、全部知っていて、それで里穂の傍にいたんですよね」
そう、と里穂の母親は静かに相槌を打った。「じゃあ」こみ上げた冷たさに押されるように、続けた。
「もし宮下がいなかったら、里穂は死ななかったかもしれない」
押し殺したその声は、静かな部屋に重たく落ちた。
里穂の母親は黙っていた。その目は相変わらず、ぼんやりとコーヒーのカップを見つめている。俺は奇妙な焦燥に駆られ、さらに言葉を投げかけた。
「そう考えたことはないんですか」
聞きながら、俺はすでに返ってくる答えがわかっている気がした。だけど聞かずにはいられなかった。握りしめた拳はぞっとするほど冷たく、しかし汗が滲んでいた。
やがて、里穂の母親はゆっくりと顔を上げた。
まっすぐに俺を見る彼女の目は、ひどく静かで、穏やかだった。彼女はまるでこちらを気遣うように笑い、首を横に振ると
「もしかしたら、そうなのかもしれない。でも、それはもう誰にもわからないのよ。ただね」
目を細め、呟くように言う。
「絶対に、宮下くんを憎むことはできない」
息を吐くと、少し呼吸が荒くなっているのに気づいた。それを整えるため何度かゆっくりと呼吸を繰り返してから、尋ねる。
「……手紙に、そう書いてあったから?」
里穂の母親はふたたび首を横に振り、それから
「里穂が、笑っていたから」
と言った。
「私が見つけたとき。なんだか幸せそうに笑って、眠っていたの。宮下くんと一緒に」
俺は黙って彼女の顔を見つめた。彼女もまっすぐに俺の目を見ていた。
それから彼女は淡く微笑み、独り言のような調子で続ける。
「それで私たちがどれだけ救われたか、わからないもの」
そのとき、握りしめていた拳から力が抜けるのを感じた。
ふっと視線を落とす。目の前には、里穂の母親が用意してくれたカップが置かれている。中のコーヒーは、きっともう冷たくなっているだろう。思いながらも、手に取った。
里穂の母親も、それでようやく思い出したようにカップに口をつけた。
いつもブラックでは飲めない俺のため、横にはスティック状の砂糖とミルクも用意してあった。だけどなんとなく、なにも入れずにそのまま啜ってみた。
やはりすっかり温くなっていたコーヒーは、長く後を引きそうな苦みを口の中一杯に広げる。けれど、俺はそれを残さず飲んだ。
外に出ると、空はもう真っ暗だった。
玄関まで見送ってくれた里穂の母親に軽く会釈をしてから、ドアを閉める。
それから門を出て、里穂の家から百メートルと離れていない自分の家へ向けて歩きだそうとしたところで、足が止まった。
門に面した細い道路の向こう、小さなシルエットが目に入った。
驚いて見つめている間に目が暗闇に慣れて、その顔がしだいに鮮明になる。
彼女の視線は、まっすぐにこちらを向いていた。しかし俺と目が合うと、怯えたようにその視線はぱっと外される。
当惑しながらも歩み寄れば、彼女はまるで大目玉でも食らったかのように顔を伏せた。
「……なにやってんの、水原」
尋ねれば、彼女は困ったように口ごもっていたが、やがて
「心配、だったから」
なんだか途方に暮れたような声で、ぽつんと言った。
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