第116話 呼び方の問題

 ♡♡♡


 ご主人様は私を置いて慌ただしく出かけてしまった。何があっても心配するなと言っていたけれど、深刻な顔をしていたしご主人様のことが気になってしまう。ああ、もうご主人様とは呼べないんだった。でも、一体なんと言えばいいのだろう? 昨日、屋敷で話をしようと言っていたエルも急に用事が出来たとかで結局話ができていない。


 新しい肌着は間に合わなかった。玄関で精一杯の祈りを込めておまじないをする。そこでご主人様は迎えに来た馬車に乗り、敷地の門のところまでお見送りをした。いつまでも見送っていたかったけれど、白いもじゃもじゃの髪の毛の怪しい人がやって来て、私に手を振ったので屋敷に駆け戻る。


 ご主人様に酷いことをしようとしたマルホンドさん。お屋敷の中に入る前に振り返ってみたら門番さんと揉めていた。笛が鳴らされてお屋敷が騒がしくなる。私は日中自由に使っていいと言われているお部屋で縫い物を始めた。このお部屋は中庭がよく見える。低木に小さな雪のような花がびっしりと咲き誇っていた。


 日がだいぶ昇るまで針仕事をしたけれどなかなか進まない。前よりは縫い目がまっすぐになったけど、やっぱりちょっと曲がっていた。縫い物とにらめっこをしていると勢いよく扉が開かれてびっくりする。エルが立っていた。

「ここに居たんだ」


 エルは扉の側に置いてあるベルを一振りする。女の人が現れてエルに丁寧に頭を下げ消えた。エルが私のところにやってくる。

「昨日は急に居なくなっちゃってごめんね」

「お姫さまってやっぱり忙しいんだね」


「そうでもないよ。昨日はたまたま。また縫い物してるんだ?」

 エルは私に断って作りかけの肌着を触る。

「そういえば、マルホンドが来てたみたいね。これも完成したら鑑定してもらう?」

「それはちょっと……」


 ドアをノックする音がして、先ほどの女の人がお茶とお菓子を運んできた。

「後は自分でやるから置いていって」

 私がカップにお茶を注ごうとするとエルが制止して自分でやり始める。

「ここじゃ、ティアナがお客さんなんだからね」


 お茶を飲みながらおしゃべりをする。

「そういえば、ハリスは大事なティアナをほったらかしにしてどこ行っちゃったの?」

「ご主人様はなんか急な用で呼び出されたみたいです」


「そっか。あ、またご主人様って言ってる。新しい呼び方考えなきゃね。それでさ、昨日のお父さんは無いんじゃない? ハリスがちょっとショックを受けてたみたいだったわよ」

「そうでしょうか? 私、なんかお父さんみたいに頼りがいがあって優しいから、そう言っちゃったんですけど……」


「んー。実際ティアナとハリスは年が離れてるけどさ。それを言ったら私とゼークトも同じくらい離れてるからね。私がお父さんとか呼んだらゼークト立ち直れないかも」

 エルはフフと笑う。


「ところでさ。ティアナはハリスのことを好きなの?」

「もちろん好きです」

「ええと。そういう意味じゃなくてさ」

「どういう意味ですか?」


 エルはため息をついてお茶を飲む。私変なこと言っちゃったかな?

「あのさ。ハリスと一緒にいてどう思う?」

「どうと言われてもよく分からないです」

「それじゃあ、質問を変えるね。ハリスといつまでも一緒に居たいよね?」


「はい。一緒に居たいです。昨日は勘違いで追い出されるかと思って驚いちゃいました」

「ということは一緒にいると楽しかったり嬉しかったりするんでしょう? それで、ハリスが困ってたら助けたいよね?」


「私にできることはあまりないですけど、少しでもお役に立ちたいです」

「美味しい物を食べさせたいのよね?」

「はい。いっぱい食べて欲しいです」

 エルは私のことをじーっと見つめてくる。


「あのさ。側に居たくて一緒に住んでて、役に立ちたいと思ってて、美味しい物を作って食べさせてたらさ、世間的にはほとんど奥さんだよね。それ」

「違います。私はご主人様の買った奴隷で、身の回りのお世話をするのは当然です」

「今まではね。でもこれからは違うでしょ」

「それはそうですけど……」


「このままだとハリスも困るんじゃないかな。仮にハリスのお嫁さんになりたいと思う人がティアナのことを見たら、やっぱりやめようと思ったりするんじゃないかしら。まあ、人によってはティアナのことを追い出してでもお嫁さんになろうとするかもしれないけどさ」


 エルが私の両肩をつかむ。

「ティアナはそれでいいの? ハリスがあなたのせいで独り身のままお爺ちゃんになったり、意地悪をされてあなたが追い出されたりしても」

「それは困ります」


「だったらさ。ティアナが奥さんになってあげたらいいじゃない。ハリスは可愛い奥さんが貰えるし、ティアナは追い出されない。まさに一挙両得ってやつよね」

「私は可愛くなんかないです。追い出されないのは嬉しいですけど、ご主人様には私なんかよりもっと素敵な人が……」


「ああ。もう、じれったいわね。じゃあ、もしもよ、ハリスがあなたに求婚したらどうするの? 断る?」

「えーと……」

「結婚してくれないなら俺は死ぬって言ったら?」


「そんなことはご主人様は言わないと思いますけど」

「言わせる……じゃなくって言ったらの話よ」

「ご主人様には死んでほしくないです」

「じゃあOKするのね。よく分かったわ。そうそう、とりあえず、そのご主人様はやめようか。ハリスって言ってごらん」


「ハ、ハリス」

「そうそう。帰ってきたら、そうやって呼びかけるのよ」

「ちょっと無理です」

「じゃあ、練習しよう。私をハリスだと思って、いつもみたいにお迎えするの」


 エルは私を立たせて少し離れたところに行く。扉を開ける真似をした。

「ああ。疲れた。ティアナは変わりなかったか?」

 眉を寄せて声を低くしてエルが言う。

「ご……、ハ、ハリス。お帰りなさい」


「ほら。抱きついて」

 エルが小さな声で言うので近づいてエルの体に腕を回す。

「目をつぶって上を向くの」

「呼び方の練習じゃないの?」

「それも含めての総合練習よ」


 よく分からないけど言われた通りにしたところで扉が開いてゼークトさんが入ってきた。

「何をやってるんだ?」

「ちょっと予行練習よ」


 エルは私から離れてゼークトさんのところに行く。そして顔を傾けるとキスをした。あれ? さっきのってひょっとして私がご主人様にキスをしてもらおうとする行動なんじゃ? 自然と頬が熱くなる。エルはしまったという顔でこちらを見ていた。

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