第39話 掃除
診療所が18時に締まった。結局、時間までに終わらずにヤンがノラーラの分を手伝ったが、彼はいつになく顔色が悪かった。
「いずれやっていれば慣れますよ。今日は、そのまま深夜2時くらいまでは練習しておいてくださいね。私は掃除してますから」
「えっえっ!? ヤンさんは帰るんじゃ……」
「安心してください。掃除を終えるまではいますよ」
ヤンの笑顔に、ノラーラは死ぬほど嫌な顔をした。しかし、それはこちらも一緒だ。なにが楽しくて、こんなおっさんと残業しなくてはいけないのか。これが、イルナスだったらと、ヤンは大きくため息をつく。
「掃除なんていつでもやれるんですから、今日はもうお帰りになった方がいいんじゃないでしょうか?」
「そんなことを言っているから。あなたは3流の魔医なんですよ。最近の論文読みました? 医における衛生環境がどれだけ重要か。ここは汚すぎなんです」
「……っ」
グサッとした言葉とともに、ヤンは薬剤の調合を行って特性の除汚薬、除菌薬をつくり、雑巾につける。ここの医館はとにかく汚い。ノラーラの性格自体が管理することが苦手なのだろう。カルテも、資料も乱雑だし、食べ物がそこら中においてある。床には使いかけの包帯や血がこびりついている。
「ノラーラ先生も白衣をキチッと洗って、清潔さを保ってくださいな。そうやって、自己管理の一つもできないから、破産宣告なんてする羽目になるんですよ。
「な、なんでそれを!?」
「だいたい見たらわかりますよ」
「……っ」
なんて女なんだと言わんばかりのノラーラだったが、ヤンは気にしない。むしろ、お前が気にしろよ、と言わんばかりに、ノラーラの周囲で雑巾がけを始める。
「本当は先生に自分で掃除して欲しいんですが、あなたは練習がありますからね。時間が惜しいですから、今回は私がやります。あと、ノラーラ先生は看女にも意味不明な雑用を押しつけてましたが、それをやめさせて明日から私の指示に従って頂きます」
「い、意味不明って!? 私はれっきとした医療行為を――」
「指示が下手ですし、無駄も多いんですよ。だから、看女がなにをやっていいかわからずに、とりあえず忙しいフリをしているんですよ」
見ていると、看女は患者さんと必死にコミュニケーションを取ったり、歩ける患者をサポートして寄り添ったりしていた。これは、ノラーラが『医は仁』という考え方に基づいて、患者に寄り添うような方針にしているらしいが、ヤンからしてみれば馬鹿野郎である。
「優先順位が違うんですよ。第1に確かな治療技術。第2に衛生環境。第3に効率的な動き。その次か次の次くらいですよ、今の看女がやっているのは」
とにかく、今日は最低限の掃除だけを行い、明日以降彼女たちにはまず衛生環境を整えてもらう。それに、整理されていない乱雑な資料から、宝探しのようにカルテを探し回ったり、非効率的な行動が多数あった。ヤンが今日のうちに状況を把握しておけば、ある程度効率的に立ち回れる指示も出せるはずだ。
「し、しかし患者さんたちの心のサポートはどうするんだ?」
「なんで、傷ついたと申告されてもいないのに、気を配るんですか? 目の前の傷や病気に集中してくださいよ」
「……っ」
仮に重症患者であれば、そんなケアも必要なのかもしれない。あるいは、上級貴族の大医館であれば。しかし、ここは下級領地のど田舎の平民の医館だ。そんな心を病むこと自体が少ないし、そもそも患者自身が医館にそれを求めていない。
「だいたい小説に影響されすぎなんですよ。なんなんですか、この『最強の魔医』シリーズ。『医は仁』。夢見すぎです。妄想もいいところです。現実を見てくださいよ。ノラーラ先生は最強魔医ではないじゃないですか。元下級貴族が資産管理もできずに破産宣告して、帝国の血税を貪って、下級領地の田舎の平民魔医として強制的に従事させられている存在じゃないですか。しかも、最新の医療論文も読まずに、毎晩酒を飲んで、たまに首都の戯館に行って、どれだけ自分が平民のために尽くしているかを自慢するだけの自己満足野郎じゃないですか。もう少し身の程をわきまえてもらわないと、困ります」
「……っ」
多分に予測が入っている推理だが、反論もしてこないということはその通りなんだろう。愕然とするノラーラを放置して、ヤンは雑巾がけを始めた。とにかく、20時までには戻りたい。と言うか、一刻も早くイルナスのいる家に帰って、リラックスしてグデーっとして、童子の頭をなでて、頬をスリスリして……
「はぁ……」
「ど、どうしたんですか?」
「いや……おっさんだなぁ、と思って」
「……っ」
ノラーラは心の底からヤンの死を願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます