第3話
点々と灯る街灯に青白く照らされた緑地公園。伊織はコンビニエンスストアで声をかけてきた男が指示した滑り台の近くへやってきた。犬の散歩をする近隣住人とすれ違ったほか、人影はない。
男は伊織の部屋について何か知っているようだった。ここに来て事故物件ですよ、と言われてももう驚かないようにしよう、と心に誓った。
夜の公園は静寂に包まれている。街灯に飛び込んだ羽虫がバチッと音を立て、伊織はビクッと肩を竦めた。
「来てくれて礼を言う」
滑り台の支柱の裏側にいつの間にか男が立っていた。男は周囲を執拗に警戒している。伊織は男に向き直る。短髪の黒髪で、目はやや落ちくぼんでいるが、微かな光は失われていない。口元には無精髭を生やし、削げた頬はどこかやつれているように見えた。
「サニーサイド蒲田205号室、ぼくは君の前にここに住んでいた」
なんと、前の住人だったとは。伊織は驚きを隠せない。
「ぼくは西島俊介だ、個人で探偵業をしている。と言っても今は休業中だけどね」
西島は自嘲気味に笑う。驚くようなコンタクト方法を取ったのは、伊織を見て信頼できると思ったからだと告げた。
「俺の部屋にいったい何があるんですか」
「その前に、かいつまんで話をしよう」
西島はまた周囲を警戒し、真剣な顔で伊織を見据えた。
「ぼくはある議員秘書のスキャンダルを追っていた。ずばり暴力団関係者との癒着だ」
議員秘書は鳳凰会二次団体岩滝組のフロント企業、鳴岩興産から多額の献金を受けている。その見返りとして、埋め立て地に予定されている災害廃棄物処理場の建設に便宜を図ったという。
「鳴岩興産は古くから地元で操業している中小の工場を片っ端から乗っ取った。公式の立ち退きではなく、二束三文の金額を持たされて追い出された。多くの経営者や従業員が路頭に迷い、泣きをみた」
諸悪の根源の議員秘書は、黒い献金を資金源に議会に立候補する準備をしており、そんなことは許せないと西島は拳を固く握りしめる。
「ぼくは倒産に追い込まれた工場の社長から依頼され、議員秘書の不正を暴くために資料を集めていたんだ」
それを嗅ぎつけた岩滝組に脅迫を受け、事務所やアパートを荒らされた。西島は命の危険を感じて姿を消すほか無かった。
「そんなことが」
伊織は絶句する。西島のやつれようは気の休まらない逃亡の日々のためだったのだ。
「ぼくはどうしてもアパートに隠した資料を取り戻したかった」
西島が失踪して半月ほどは、岩滝の連中がアパート周辺を張り込んでおり、近付くことができなかった。しかし、住人が行方知れずとなり二ヶ月でアパートは強制退去となった。岩滝組も諦めた様子で、しばらく寄りつくことはなかった、ように見えた。
西島がアパートへ戻ろうとしたところを岩滝のチンピラに発見されてしまう。部屋に証拠となる資料を隠していることに気付いたらしく、またアパートに張り込みをするようになったという。
「まさか、天井の物音やベランダの人影って」
伊織は青ざめる。
「君が引越てきて、岩滝組も焦ったのだろう。どうにかして部屋を探ろうとしている」
そんな、ヤクザの曰く付き物件なんて聞いていない。伊織は頭を抱えた。あれは生きた人間だったのだ、そう考えると幽霊よりも怖くなった。
「ぼくの頼みを聞いてくれないか、議員秘書の横暴と政治家と癒着してうまい汁を啜る岩滝組を許すわけにはいかないんだ」
西島は必死に訴えかける。その表情には悲壮感すら漂っていた。伊織はその気迫に圧倒されている。
「ぼくは、母子家庭で育った。母は叔父の工場に働きに出てぼくと兄弟を懸命に育ててくれた、。叔父も叔母も良い人間で、ぼくらを気遣い支援してくれた」
西島は深く項垂れる。
「叔父の会社は鳴岩興産に乗っ取られ、一家離散の憂き目に遭った」
こんなことがまかり通ることを許してはいけない、と西島は震えながら唇を噛む。
「わかりました、協力するよ」
伊織の力強い言葉に、西島はホッと安堵する。
「君にはとんだとばっちりだったね」
西島は申し訳なさそうに頭を下げる。
「これも何かの縁かもしれませんね」
「ありがとう」
西島はアパートの資料の隠し場所を伊織に伝えた。ラインの連絡先を交換し、資料の受け渡しについては安全な方法を考えたいという。
「君に危険が及ばないよう、細心の注意を払うよ」
西島は公園の茂みの奥へ消えていった。
西島の背を見送って、伊織は盛大な溜息をつく。激しい緊張で心臓が大きく脈打っている。西島の話に乗るかどうか、ずいぶん迷った。しかし、彼の真摯な態度に嘘はないと直感できた。資料を手に入れて彼に渡そう。そうすれば、彼も逃亡生活から抜け出すことができる。
スマートフォンの画面には榊からの着信が入っていた。伊織は地図で示された店へ向かう。
夜十時をまわっているが、店内は活気に溢れていた。蒲田駅東口にある焼き鳥“とり庵”ののれんをくぐる。店内にはもうもうとした煙と、炭火の香ばしい匂いが充満している。一番奥のテーブルに曹瑛と榊、高谷の姿があった。
「電話に出られなくてごめん」
伊織は席につき、早速生ビールを注文する。飲まないとやっていられない気分だ。串の盛り合わせがテーブルに置かれた。伊織はつくねをかじりながら西島の話を伝えた。
「失踪した個人探偵、西島俊介か。結紀の調査と合致する」
榊は高谷と頷きあう。伊織の話は裏が取れたということだ。
「隣の部屋から侵入しようとしていたのは岩滝組の奴で、証拠資料を探していたというわけか」
曹瑛はねぎまにかじりつく。先ほどからねぎましか食べていないと榊が文句を言っている。榊は店員を呼び止めて、追加のビールとねぎまを注文する。
「こうなると、幽霊よりも人間の方が怖いよ」
伊織は溜息をついた。
「証拠の資料を西島に渡して、奴はうまく立ち回れるのか」
榊は西島の身の振り方を懸念している。
「警察に素直に持って行くとは考えにくい」
曹瑛も頷く。
「なんで、取り戻した資料を持ってすぐに警察に駆け込めば身の安全も保証されるんじゃないの」
伊織は眉根をしかめる。彼らを断罪する、西島の意思は確かなはずだ。
「甘いな、俺なら証拠資料をカードに取引をする」
榊の縁なし眼鏡の奥の瞳がギラリと光る。
「命がけで取り戻すほど価値ある資料を集めておきながらすぐに表沙汰にしなかった。奴はそのつもりだろう」
曹瑛は真顔でデザートメニューに目を落としている。伊織も合点がいった。西島は危険な取引に挑もうというのだ。
「西島さんは切羽詰まっているようだった。ほっとけないよ」
伊織は顔を上げる。榊と曹瑛がニヤリと笑う。高谷はその様子を見て呆れているが、伊織の顔を見て頷いた。
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