レッド・ユニコーン

第1話

 赤坂に自社ビルを構えるグローバルフォース社東京支社の企画室。刑部おさかべ千弥ちひろは表計算ソフトのファイルを一時保存し、ひとつ大きな伸びをした。月末の役員会で提出する資料の作成が一段落ついてホッと息をつく。

「千弥さん、根を詰めすぎじゃないですか。休憩しましょうよ」

 正面に座る秋庭文美あやみは千弥の3つ年下の後輩だ。千弥を慕っており、よく学んでくれる。千弥がトランスジェンダー女性ということを文美は知っている。外資系のオープンで多様性を認める社風もあるが、彼女をはじめ社の人間たちは自然な態度で接してくれるのは千弥にとって居心地が良かった。


「ね、コーヒーでも飲みましょう」

 フロアには社員が業務の合間にリラックスできるようにと座り心地の良いソファやコーヒーサーバーが用意されていた。文美は2杯分のコーヒーを淹れて千弥の座るソファにやってきた。

「これ、駅前に出来た新しいお店の」

 文美がテーブルに置いたブラウン地の化粧ケースにピンク、グリーン、ブルーとパステルカラーのマカロンが詰まっている。いつも売り切れでなかなか買えないんですよ、と文美が教えてくれた。


「ありがとう、うん、美味しい」

 千弥が選んだのは塩キャラメルだ。ふんわりとした食感にキャラメルの上品な風味が口の中に広がる。

「千弥さんのネイル、綺麗ね」

 文美は千弥の指先に注目する。オフィスカジュアルに合う、控えめなラメ入りピンクベージュのネイルが形の良い爪を彩る。文美はコスメやファッションに興味があり、いつも最新情報にアンテナを張り巡らせている。あれこれとおせっかいにも教えてくれるので、彼女とは会話が弾む。この休憩時間も良い気分転換だった。


「え、なんだこれ」

「こっちもだ」

 不意にフロアが騒がしくなる。パソコンに向かっているスタッフが慌てふためいている。

「どうしたの」

 千弥はソファから立ち上がり、挙動不審な男性スタッフのモニターを覗き込んだ。画面に映る異様な光景に、千弥も思わず目を見張る。モニターの上で文字がまるで熱帯魚のようにふわふわと浮遊している。


「これ、何のソフトなの」

 千弥は眉根を寄せる。

「ワードですよ、企画書を書いていたら突然」

 業務で一般的に使用している文書ソフトだ。こんなグラフィカルな動きをするはずがない。画面上を浮遊していた無数の文字が突然落下した。

「これはウイルス感染よ」

 千弥は反射的にLANケーブルを抜いた。男性スタッフも我に返り、慌ててケーブルを抜く。


 隣の営業推進部の島でも騒ぎが起きていた。全社的なサイバー攻撃に見舞われている。

「みなさん、システムトラブルが発生しました。外部との接続を遮断します。復旧の目処は立っていません。繰り返します・・・」

 情報システム部門から焦りを感じる声音のアナウンスが流れてくる。オフィスは一気に騒然とし始める。

「これって、一体」

 文美も真っ暗になったモニターを見て青ざめている。フロア内の数十台のパソコンが一気に再起動を始めた。


「なんだこれは」

 部下に落ち着きなさいと声をかけていたマネージャーの林が頓狂な声を上げた。再起動した画面にはどぎつい真っ黒な背景に赤いユニコーンのエンブレムが映し出された。エンブレムがノイズに揺らぎ、次の画面にメッセージが現われた。

「全社のシステムは制御不能、データはすべてロックした、解除したければ、解除キーを入力しろ・・・」

 汗でずれた眼鏡をくいと持ち上げながら、林は淡々と画面の文字を読み上げる。

「まるで強迫だわ」

 女性管理職が口許に手をやり、青ざめている。画面には解除キーの請求先とリンクが表示されていた。


「これは、ランサムウェアね」

 千弥の言葉に、文美が首を傾げる。

「悪意のあるコンピューターウイルスに感染させて、標的のシステムをロックしてしまう。解除するには金銭を要求する。ランサムは身代金という意味」

 ランサムウェアに感染し、電子カルテシステムがロックされて病院の診療がストップした事件は記憶に新しい。世界でも有名企業にランサムウェアで身代金を要求する事件が相次いでいる。


 情報システム部門が現在復旧を試みているアナウンスが流れるも、モニターには身代金要求の画面が表示されたままだ。強制終了をしても同じ画面のままリンク先へジャンプする以外の操作はできない。

「業務が完全に停止した・・・」

 林が呆然として呟く。パソコンが無ければ何もできない。不意にデスクの電話が鳴る。女性スタッフがこわごわと受話器を取る。

「はい、刑部さんですか。ここに」


 千弥が電話口に出ると、相手は思いがけない人物だった。

「そう、大変なのよ。何もできなくて」

 電話の相手は穏やかな口調で千弥に指示を出している。

「わかったわ」

 千弥は深く頷いた。千弥は赤いカバーのタブレットをバッグに入れ、フロアを出て行く。

「もう帰るんですか」

「ええ、ちょっと用事があるの」

 エレベーターで一階へ下り、ガラス張りの吹き抜けのロビーを抜けて足早に千代田線赤坂駅へ向かう。千弥はスマートフォンの乗り換え案内アプリで神保町駅を入力した。

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