第11話 山の秘湯
曹瑛はカーテンを開き、窓を開けた。粉雪とともに冷たい風が部屋に吹き込む。この様子では夜の間に雪はまた降り積もるだろう。部屋は二階、窓の下は柵があり、その向こうは雑木林が広がっている。木々の隙間から芦ノ湖を見渡すことができた。
曹瑛は窓際のソファに腰を下ろし、足を組んでマルボロに火を点ける。紫煙に誘われて榊もポケットからフィリップモリスを取り出した。
二人窓際のソファに座り、ただ黙ってタバコを吹かす。曹瑛は窓の外をぼんやりと眺めている。
「雪は嫌いだ」
曹瑛はふうと細い煙を吐き出し、また窓の外を見つめる。榊は黙って耳を傾けている。
「ハルビンは冬になれば深い雪と氷に閉ざされる。ときに命を奪う過酷な寒さに凍えながら、無情に降り続ける白い雪を恨めしく思っていた」
子供の頃のことを言っているのだろうか、榊は曹瑛の過去をほとんど知らない。
「雪合戦、俺の勝ちだったな」
曹瑛がニヤリと笑う。
「な、お前は俺の策にハマっただろう」
榊もムキになって言い返す。ポセイドン像から大量の雪を降らしてやった。
「当たらなければどうということはない」
「良く言うぜ」
まるで子供のケンカだ、そう気がついて榊もおかしくなって吹き出した。吹き込む粉雪の冷たさにタバコを揉み消し、窓を閉めた。
「さて、どうするかな」
榊が腕組をして神妙な面持ちになる。曹瑛はテーブルの下に置かれたボストンバッグに目線を向ける。総額八億の宝石か、厄介なものを持ち込んだものだ。奴らはこれを取り返すために今度は慎重を期してくるはずだ。
「山側か、湖側か」
榊は窓の外を鋭い眼光で見つめている。
「湖側はかなりの傾斜だ。それに雑木林が広がっていて、積雪もある。素人なら山側を選ぶだろうな」
曹瑛は先ほど窓から洋館周辺の環境を確認していた。湖からの侵入はかなりの困難を極めると判断した。
「しかし、湖も捨てがたい」
榊は眉根を顰める。
「すべての可能性を否定するわけにはいかないだろうな」
「ああ、そう思う」
曹瑛の言葉に榊は深く頷く。
ドアをノックする音が聞こえ、高谷とライアン、伊織が顔をのぞかせた。
「榊さん、どっちにするか決まった?」
「湖か、山か、悩ましいところだ」
今度は曹瑛が眉根を寄せた。
「貴様、まさか」
「芦ノ湖を一望できる広々とした絶景露天風呂か、山の上にある秘湯か」
榊はどこの温泉にするかを決めかねていたのだ。曹瑛は呆れて脱力した。
結局、これ以上雪が積もれば移動が難しいだろうということで、山の秘湯へ向かうことにする。アルファードに着替えの荷物を詰め込み、さらに山の方へ登っていく。車はスタッドレスを履かせているとは言え、曲がりくねった山道で油断はできない。榊は慎重にハンドルを切る。
日は落ちて周囲は白い闇に包まれている。徐行しながら10分ほど進んだところに明かりが見えた。こじんまりしたログハウスの入り口にランタンがかけられていた。
「うわあ、一気に冷えてきたね」
車を降り立つと、吐く息も凍りそうなほど骨身に染みるほどの寒さだ。伊織はトランクを開けて荷物を取り出す。
「このぶんだと夜はかなり気温が下がるだろうね」
ニューヨークの寒さに慣れているライアンも堪えるようだ。白い頬を真っ赤に染めている。ライアンはボストンバッグを2つ手に取った。
ログハウスに入ると、室内は暖房が良く効いていた。地元客らしく老人が三人、ストーブの前で談笑している。カウンターのおばちゃんに料金を支払い、脱衣所へ向かう。
こじんまりした内湯で身体を流し、露天風呂へ向かう。
「これは絶景だな」
榊が思わず感嘆の声を上げる。張り出した湯船の先に白く煙る山脈の影が浮かぶ。竹細工の柔らかい明かりが湯気煙る露天風呂を照らし、幻想的な風景を醸し出す。
「すごいね、自然の中に溶け込んでるみたいだ」
伊織は周辺を見渡す。一帯が高い木々に囲まれており、深い森になっている。
「泉質もいい」
肌を滑り落ちる湯に榊は満足そうだ。日々の疲れが溶けてゆくようだ。ライアンは幸せそうな榊を慈しむような瞳で見つめている。
ほぼ貸し切り状態で箱根の秘湯を満喫し、車に戻った。
「私のバッグが戻ってきたよ」
ライアンが黒いボストンバッグの中身を確認する。
「うまくいくもんだね」
伊織は感心している。
洋館を出るとき、ライアンがこれ見よがしにボストンバッグを2つ持って出てきた。ひとつは宝石が入っていたものだ。これで留守にする洋館が狙われることはない。あの二人組はかなり小心者と見た。温泉の脱衣所に無防備に置いておけば、これ幸いとライアンのバッグと入れ替えて慌てて持ち去るだろう。バッグの中身はガラクタを詰めておいた。
「でも、中身に気が付いたらすぐに取り返しにくるだろうね」
高谷が心配そうな表情を浮かべる。伊織も渋い顔で頷く。
「その時は掴まえて、黒幕の正体を聞き出す」
曹瑛は口角を上げて笑う。榊もライアンも楽しそうだ。
洋館に戻ると、夕食の準備が出来ていた。ダイニングテーブルの燭台に蝋燭が灯り、それぞれの席の前にはランチョンマットが用意されている。
熊代夫妻が温かい野菜スープを運んできてくれた。地元の食材を使った創作フレンチで、手作りドレッシングの新鮮なサラダ、山菜と茸の和え物、ワカサギの刺身、牛フィレ肉のグリルバルサミコソース、ガーリックトースト、デザートの濃厚なブラウニーまで夫妻の手作りだ。
「料理もすばらしい、ぜひここが本格的にオープンしたときには料理を提供してもらいたい」
ライアンは夫妻の料理を絶賛した。厳選された素材に細やかな味つけは文句のつけようがない。
「昼間はレストランとしても客が見込める」
榊も納得している。熊代夫妻は引退したとはいえ、腕は全く落ちていないようだ。
「片付けは今日のところはいいよ。早めに帰って欲しい。雪もかなり降ってきたしね」
「ですが、ライアン様」
渋る夫妻をライアンは早めに帰らせた。この後、奴らが再び侵入してくる可能性がある。宝石を奪われたと知って、次はなり振り構わず襲ってくるだろう。
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