第9話 ボストンバッグ奪還
「勝負をつけてやる」
榊は曹瑛に向かい、雪玉を連投し始めた。足元の雪を掬っては固めて投げる。ヤケクソに見えるその弾道はめちゃくちゃで、ポセイドンの影に身を隠した曹瑛を掠めるものもあれば、明後日の方向へ飛ぶものもある。
「見苦しいぞ、榊」
飛来する雪玉がうっとうしいのか、曹瑛が叫ぶ。カウンターで投げた剛速球がアポロンの立つ台座に当たって砕け散った。
「俺は榊さんを守る」
兄を守ろうと熱くなった高谷も曹瑛に向かって雪玉を飛ばし始めた。高谷の隠れるベンチからは、曹瑛の姿が確認できる。高谷から身を隠そうとすれば、榊に狙われる。
「チッ」
曹瑛は舌打ちをしながら高谷に雪玉を飛ばし、牽制する。
「ぶわっ」
曹瑛の投げた雪玉が高谷の額ではじけ飛び、高谷はのけぞる。しかし、高谷は体勢を整えて果敢に曹瑛に挑んでいる。
「結紀、お前」
榊は唇を噛んだ。自分のために曹瑛を倒そうとしている。榊は高谷の自己犠牲の精神に涙ぐむ。
「もう少しだ、すまん結紀」
榊は曹瑛に怨嗟の雪玉を投げ続ける。必死になりすぎてアポロン像の支柱から身体を乗り出していた。そこへ横から雪玉が飛来する。反射的に上腕で防ぎ、振り向けば冷酷な表情を浮かべたライアンが庵の柱に身を隠しながらこちらを狙っている。
「ライアン、貴様」
「悪いね、英臣。君が敗北すれば、私は君と同室になれる確率が高まる」
ライアンは口の端を歪めて笑う。その表情に榊は思わず背筋が凍った。
「ライアン、卑怯だぞ」
高谷がベンチから顔を出して叫ぶ。
「これは真剣勝負だ。私は全身全霊をかけて戦う」
「お前も敵だっ」
高谷はライアンに向けて腕を振りかぶった。しかし、距離が離れすぎており、足元にも届かず、雪玉は勢いを失って落下した。榊は曹瑛を狙い、せっせと雪玉を飛ばしている。
「どうした、そんな腕で俺を倒せるのか」
曹瑛は榊のコントロールの悪さを嘲笑う。しかし、榊は挑発に乗ることなく無心で雪玉を投げつけてくる。
「かかったな、曹瑛」
不意に、榊が口角を上げて笑う。
「なにっ」
曹瑛はその意味を理解し、頭上を見上げる。その瞬間、ポセイドン像に降り積もった大量の雪がバランスを崩して落下する。
「貴様、これを狙っていたというのか」
曹瑛は落下してくる雪の塊を避け、ポセイドン像の影から飛び出した。
「仕返しだ、瑛さん覚悟っ」
体勢を崩した曹瑛に向かって伊織が正面から走ってくる。両手で大きな雪の塊を持ち上げて、こちらに向かって投げる気だ。曹瑛は意外な伏兵に目を見開く。
「そうはさせない」
曹瑛は雪を掬い取って素早く丸めると、伊織が掲げる頭上の巨大な雪塊を強く固めた雪玉で撃ち抜いた。雪玉が砕け、伊織の頭上に降り注ぐ。
「うわっ冷たい」
自損事故に遭った伊織は思わず足を止める。
「やったな」
伊織は怯むことなく足元の雪を固めて、なり振り構わず曹瑛に投げ始める。
「全然効かないぞ」
あまりにへなちょこな雪玉に、曹瑛はおかしくなって吹き出した。伊織もつられて笑い始めた。ベンチに隠れていた高谷も顔を出して、雪を掬って振りまいた。
「ははは、もう誰が優勝かわからないや」
高谷も笑い転げている。榊とライアンも物陰から姿を現わした。そのまま逃げも隠れもしない雪合戦に突入する。
***
―同じ頃
「さすがにトランクから荷物は下ろしてますよね」
「ああ、ボストンバッグはきっとあの建物の中だ」
加瀬と二宮は身を低くして柵の向こうから洋館の様子を伺っている。奴らは庭で楽しく雪合戦をしている。この隙に洋館へ忍び込み、ボストンバッグを取り戻したい。
「穏便に済ませられませんかね、サービスエリアで取り違えたって」
加瀬は二宮の頭を小突く。
「バカか、そんなこと言ったらあいつら中身を確認するだろうが」
「まあ、そうっすね」
二宮は頭をさすりながら項垂れる。そもそもヤクザが穏便てなんだ、加瀬は腑抜けている二宮に苛立つ。
「でも、バレてやしませんか」
「呑気に雪合戦なんかやってるくらいだ、まだ中身には気がついてねえ」
バッグの中身を見れば、きっと慌てて警察に駆け込んでいるだろう。まだ中身に気付かれていない、それは幸いだった。やはり自分は悪運が強い、と加瀬は思う。
「あ、なるほど」
「いくぞ」
雪合戦に熱中している男たちを尻目に、加瀬と二宮は庭を避けて回り込み、洋館の玄関を開けた。
赤い絨毯が敷き詰められた玄関ホールには高価な調度品が並んでいる。二宮はポカンと口を開けている。
「ぼけっとするな、ボストンバッグを探すぞ」
加瀬は周囲を見渡す。大理石の彫像、大きな柱時計、ランプの乗ったテーブル。加瀬はアンティークのソファに目を留めた。ソファの周辺に荷物が置いてある。リュック、カート、そして黒いボストンバッグもあった。
「あれだ、間違いない」
加瀬と二宮は興奮に逸る心をを抑えながらソファの方へ近付いていく。
「何をしている」
不意に背後から声がした。慌てて振り向けば、頭から雪をかぶった長身で細身の男が立っている。庭で雪合戦をしていた男たちの一人だ。いつの間に戻ってきたのだろう、男の気配を全く感じられなかったことに、加勢の背筋に冷たいものが落ちた。
男は無表情だが、その瞳は鋭い光を放っている。加瀬はたまらず目を逸らした。二宮もまずいと思っているのか、落ち着きの無い様子でそっぽを向いている。
「たまたま通りかかって、ここはレストランじゃないのか」
加瀬は半笑いでその場しのぎのでまかせを言う。
「ここがレストランだと思うのか」
男の声には感情が無い。その目は明らかにこちらを疑っている。目的のボストンバッグはすぐそこだ、胸元に隠したドスでこの男を脅しつけて奪って逃げるか。一瞬そう思ったが、この得体の知れない男の妙に圧力のある気配に押されていた。ここは下手に動かない方がいいだろう。
「瑛さん、どうしたの」
ドアを開けて仲間が戻ってきた。全部で五人、ここは大人しく引き下がるのが得策だ。
「勝手に入って悪かったよ」
加瀬と二宮はそそくさと洋館を出ていった。
「あの人たち、どこかで」
ドアが閉まり、伊織が首を傾げる。
「あっ、海老名サービスエリアで俺たちの車の後ろに駐車していた人だ」
「車は黒いバンか」
曹瑛が尋ねる。
「確かそうだった」
「俺たちを追ってきた奴らだな。一体何が目的だ」
見るからにヤクザものだ、榊は直感していた。元同業者だ、見分けることは容易い。
「何かを探しているようだった」
車から降ろした荷物をロビーのソファ周辺に置いたままにしている。曹瑛は荷物の傍に立つ。伊織も積まれた荷物を眺めてみる。
「俺たちの荷物を物色しようとしていたのか、まさか」
誰が男の着替えが入ったバッグを欲しがるのだろうか。伊織は首を傾げる。
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