第3話
午後からはさらにお客さんが増え、伊織も烏鵲堂カフェの手伝いに専念している。用意した手作り菓子は午前中に売り切れてしまった。茶席のキリがついた曹瑛が立ち上がる。
「タバコ」
「喫煙所は公園の端にあるよ」
伊織の手にした地図を見て、曹瑛はひとり喫煙所へ向かった。
遊歩道から離れた植え込みの奥に、喫煙スペースが設けられていた。多様な国籍の人たちがスパスパとタバコを吹かしている。曹瑛もそれに混じってマルボロに火を点けた。
荒々しい靴音がして、背後の植え込みで争うような声が聞こえてきた。
「何をする」
「だから、この間の“相談料”をもらおうっていうんだ」
不穏な気配を察知して、皆タバコを揉み消してそそくさと喫煙所から離れていく。
曹瑛はのんびりと紫煙をくゆらせる。
「茶葉を奪えず返り討ちにあい、失敗したじゃないか」
不遜な態度で言い返すのは、天野だ。
「返り討ちだと」
「まあ、待て。そう、俺たちは不当な暴力を振るわれて全治一ヶ月だ。見舞金を出してもらおうじゃないか」
憤慨する金髪を押さえて、ピアス男が天野に強請りを始めた。天野は周囲に助けを求めようとするが、街路樹と植え込みで遊歩道から死角になっている。
虚栄心と対抗心で、こんな輩を雇ってしまった。金さえ与えておけば言うことを聞く、使い捨てすれば良いと思っていたが、それは甘かった。天野は青ざめる。
「三人分、百万で手を打とうじゃないか」
「ひ、百万だと」
天野は目を見開く。金を出せば、この先も強請りが続くだろう。
「安いものだろう。それに、お前がライバル店に手出ししようとした記録はこっちにあるんだぜ」
ピアス男はスマホをちらつかせる。これは口止め料でもある。まずいことに、警察に相談しようものなら、墓穴を掘る。
輩たちの嫌がらせで神保町の天龍茶館を畳む羽目になり、身を隠していたがこんな場所で見つかってしまうとは。輩の情報網を見くびっていた。天野はなり振り構わずその場から逃げだそうとした。しかし、いかついジャージに腕を引っ張られ、引き倒された。
「俺たちを舐めてるのか」
ピアス男が冷たい眼差しで天野を睨む。金髪が倒れたままの天野の腹を蹴り飛ばした。
「げほっ」
天野は咳き込んで、目に涙を浮かべる。
「茶芸師か、この手が商売道具なんだろうな」
金髪がしゃがみ込んで、天野の手を掴んだ。指を一本持ち、力を加える。
「何本まで耐えられるかな」
三人の輩はニヤニヤ笑っている。天野の指に力が加わっていく。
「やめてくれ」
天野は掠れた声で叫ぶが、裏通りの遊歩道に人影はない。
喫煙所からふらりと長身の男が出てきた。倒れた天野を一瞥して、そのまま去っていこうとする。
「おい、お前。見ていたのか」
「こいつ、さっき俺たちを睨み付けた奴だ」
輩たちの注意が曹瑛に向いた。曹瑛は無表情のまま、輩を見つめている。
「生意気な目をしやがって」
ここには目撃者がいない。そしてこちらは三人、金髪の気分は大きくなっていた。曹瑛を見上げ、口元を歪めて威嚇する。
「あ、あんた、助けてくれ」
天野はなり振り構わず曹瑛に縋り付く。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。
「お前を助ける義理があるのか」
曹瑛は低い声で冷たく言い放つ。天野はこんな状況で冷静な曹瑛を見上げて、唖然としている。
「許してくれ、これまでの非礼は詫びる」
天野は曹瑛の足元で項垂れた。
「お前の下らない虚栄心が友達を傷つけた」
曹瑛の声音に静かな怒りを感じ取り、天野は頭を下げたまま、何度も頷く。地面にぽたぽたと落ちた涙の跡ができる。
「お前も気に食わないんだよ」
ジャージが曹瑛を突き飛ばそうと太い腕を振る。曹瑛は重心をずらしてひらりと身をかわした。
「生意気な奴だ」
前につんのめったジャージは怒りを露わにする。拳を握り、曹瑛に殴りかかる。今度は逃げられないよう、金髪が背後から腕を回して曹瑛の腰を掴んだ。曹瑛は微動だにしない。しかし、拳が当たる寸前、瞬時に身を翻した。思わぬ力で振り回された金髪はジャージの拳をもろに頬に食らい、地面に転がる。
「くそっ」
立ち上がろうとした金髪の側頭部に、曹瑛の回し蹴りがヒットする。金髪は再びダウンし、起き上がれない。ピアス男もさすがに焦りだし、コートの胸ポケットからジャックナイフを取り出した。天野は怯えておろおろしている。
「痛い目見せてやる」
ピアス男とジャージが曹瑛を挟み撃ちにする。曹瑛は背中から赤い柄巻のバヨネットを取り出した。
「なんだ、そのナイフは」
本格的な軍用ナイフが出てきたことに、ピアス男は驚愕する。ジャージも握り絞めた拳を思わず下ろした。曹瑛は無言でバヨネットを弄んでいる。黒い長袍に身を包み、ナイフを持つ姿はまるで映画に登場する暗殺者だ。曹瑛はバヨネットを逆手に構えて重心を落とす。
「お、お前一体何者だ」
「兄貴、こいつはヤバい」
ピアス男もジャージも、曹瑛の暗い眼光に怯え始める。ピアス男のナイフを持つ手は震えていた。
「瑛さん・・・うわっ」
タバコを吸うと言ってしばらく戻ってこない曹瑛を探しにやってきた伊織が、刃傷沙汰の修羅場に息を飲む。タバコを吸おうと伊織についてきた榊も目を細めた。バヨネットを構える曹瑛と、怯える輩を見比べる。どう見ても輩に勝ち目はない。天野は地面に蹲って呆然としていた。
「おい、落ち着け」
榊が曹瑛の肩に手を置く。曹瑛は不満げに口をへの字に歪める。
「俺は落ち着いている」
「こんなの相手にやめておけ」
榊はピアス男とジャージを横目で見やる。こんなの扱いされても、怒る気など起きなかった。
「おい、お前らも裏社会で生きているなら喧嘩を売っていい奴とそうでない奴の見分けをつけないと、命がいくらあっても足りないぞ」
榊が縁なし眼鏡の奥から鋭い眼光で輩二人を射貫く。
「お前もだ、くだらねえ真似をするな」
天野は榊の目をまともに見られず、ヒッと短く叫んで頭を抱えた。曹瑛はバヨネットを背中に仕舞い、榊を睨み付ける。
「青海埠頭の件もある。こいつらは一線を越えた。それに、お前に説教される筋合いはない」
曹瑛は榊に突っかかり始めた。伊織はまたか、と頭を抱える。
「お前がやり過ぎないように止めてやったのに、文句を言うとはどういう了見だ。感謝しろ」
曹瑛と榊は互いを睨み付け、火花を飛ばす。
「瑛さん、鯛焼きが冷えちゃうよ」
見かねた伊織が間に割って入る。
「なんだと」
曹瑛は鯛焼きに興味を惹かれたようだ。
「榊さんが差入れに鯛焼きを買ってきてくれたんだ、まだ温かい。ブースに戻ろう」
曹瑛は無言で踵を返し、遊歩道へ歩き出した。伊織はホッと胸を撫で下ろす。
「俺は一服してから戻る」
榊の表情も穏やかなものに戻っている。ピアス男とジャージは脱力して、その場に膝を折った。
曹瑛は椅子に座り足を組んで、鯛焼きを黙々と食べている。
「北海道産の小豆を使った自家製あんなんだって」
榊と一緒に来ていた高谷が曹瑛の淹れた茶を飲みながら鯛焼きにかぶりついた。タバコから戻ってきた榊も椅子に腰掛ける。曹瑛が蓋椀で淹れた鳳凰単叢を榊に差し出した。
「良い香りだ、それに身体が温まる」
フルーティな茶の香りを楽しみながら榊も鯛焼きを手にした。天野はブースに戻り、大人しく茶を淹れているようだ。榊と伊織の姿を見つけ、控えめに会釈をした。よほど懲りているはずだ。もう余計な真似はしないだろう。
「二十歳になる前のことだ。マイナス三十度になる極寒のハルビン、俺は追っ手から逃れ、農村の納屋に身を隠した。農家のおやじが手負いの俺を見つけ、コップ一杯の茶を出してくれた」
曹瑛が湯を注ぎながら静かに語る。低体温で意識を失いそうだったところ、温かい茶のおかげで体温が戻り、命を取り留めたという。壮絶な話だ。
「その後、仕事で茶芸を習う機会があり、作法を覚えた」
「そうだったんだ、え、仕事で」
伊織はしみじみと話に耳を傾けていたが、プロの暗殺者だった曹瑛の過去を思い出し、ここで詳しく聞くのはやめておこうと思った。
二日間にわたる青華書房のブースは好評で、中国書籍の全集が何セットも売れたり、出版している日中友好雑誌の企業や教育機関への年間契約が決まったりと認知度が向上した。烏鵲堂もこの週末はお客さんが増えそうだ。
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