超・危険なハロウィンナイト

第1話 憂鬱な会社訪問

 陽が落ちて紫紺の空に月が昇る。神保町すずらん通りに軒を連ねる古書店はシャッターを下ろし、居酒屋に明かりが灯り始める。烏鵲堂もカフェスペースの営業を終えて、書店の店じまいを始めていた。

 閉店後のカフェスペースにはいつもの顔が集っていた。シャドウストライプのスリーピース姿の榊が脱力してテーブルに突っ伏している。


「榊さん、仕事で何かあったの」

 白目を剥く榊に、伊織が心配そうに声をかける。横に座る高谷は事情を知っているのか、気の毒な様子の兄を見つめている。曹瑛が蓋碗で手早く桂花烏龍茶を淹れてテーブルに置いた。放心状態の榊を一瞥して隣のテーブルの椅子に腰掛け、足を組む。

「大方、あの男が原因なのだろう」

 曹瑛は呆れながら鼻で笑った。

「あの男って、もしかしてライアン?」

 伊織が口にした名前を聞きたくないとばかり、榊は両手で耳をふさぐ。どうやら当たりのようだ。


 曹瑛は目を閉じて、グラスに注いだ桂花烏龍茶に鼻を近づける。清らかな金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。深みのある上品な香りだ。澄み切った金色も美しい。

 今週のはじめに兄の劉玲が送ってきた新茶だった。劉玲の選ぶ茶葉はいつも最高品質で、申し分無い。

 榊は顔を上げて、優雅に茶を飲む曹瑛を恨めしそうな目で見やる。

「お前がズルズルとビジネスパートナーを続けているのが悪い。嫌ならきっぱり縁を切ればいいだろう」

 曹瑛の真っ当な正論に追い打ちをかけられ、榊は渋い顔を向ける。いつもはここで言い合いになるのだろうが、そんな気力も無いようだ。


「お茶でも飲んで榊さん、気持ちが落ち着くよ」

 伊織の言葉に促され、榊はグラスを手にして桂花烏龍茶を口に含んだ。口の中に広がる甘い香りに思わず目を見開く。

「金木犀か、良い香りだ」

 榊は穏やかな表情を浮かべている。優しい秋の香りと爽やかな風味に心が落ち着いたようだ。思い出したくもない、今日の午前中はまさに悪夢を見ているようだった。


***


 ニューヨークに本社を置くグローバルフォース社CEOであるライアン・ハンターから榊の元にメッセージが届いた。横浜ベイエリアにレトロモダンをコンセプトにしたデザイナーズホテルを建てるプロジェクトに参加してほしい、ということだった。

 榊は個人事業で店舗のリノベーションやプロデュースを手がけており、ライアンはその手腕を高く評価していた。

「英臣の仕事は丁寧でセンスが良い。ぜひこの仕事を一緒に成功させたい」

 ライアンの熱心な勧誘に、榊は折れた。


 ライアンの熱意だけでなく、榊がこのプロジェクトに関わることを決めた訳は他にある。中国人資産家が子供の頃に過ごした横浜の洋館を懐かしんで、かつての姿を思い起こさせるようなホテルにしたいという話だ。内装や調度品は西洋アンティークを中心に、中華風の素材も取り入れたいという。

 ユニークなコンセプトに興味が湧いた。中国の調度品に関しては、劉玲が潤沢なルートを持っている。やりがいのある仕事だ。


「プロジェクトのキックオフをやるから、東京オフィスへ来て欲しい」

 その約束が今日の朝10時だった。ライアンも来日するという。CEOであるライアン自ら手がけるというから大事なプロジェクトなのだろう。

 しかし、榊は嫌な予感、むしろ悪寒に身震いしていた。ライアンはゲイで、それを公私ともにオープンにしている。榊に一目惚れし、それ以来ご執心だ。性的マイノリティについてとやかく言うつもりは一切ないが、その気は無い榊は辟易していた。


「結紀、頼む」

 一生のお願いと言わんばかりに、榊は高谷に縋った。ライアンの牙城に乗り込むのに丸腰では危険すぎる。高谷に商談への同席を依頼した。

「わかった、榊さんは俺が守る」

 榊に頼られた高谷は鼻息荒く拳を握りしめる。


 グローバルフォース社への訪問当日。榊はスーツ姿で現われた高谷を二度見した。

「ライアンは絶対に榊さんをパートナーと言い張る、だからそれを阻止するんだ」

 高谷はジャケットに白いブラウス、膝上丈のタイトスカートにパンプス姿で、薄化粧を施している。清楚な若手キャリアウーマンの装いだ。21歳の若さにスレンダーな体格で、違和感が無く様になっている

「個人実業家の秘書って設定だよ」

 ノリノリな高谷に榊は面食らっていたが、心強いことには変わりない。


 榊は若い秘書を連れて、新橋にあるグローバルフォース社東京オフィスへ出向いた。高い吹き抜けに、全面ガラス張りの正面玄関の自動ドアをくぐり、受付嬢に声をかける。

「榊エンタープライズの榊です。ミスターハンターと10時の約束です」

「承っております。少々お待ちください」

 受付嬢は品の良い笑顔を向け、インターフォンで榊の来訪を継げた。

「あちらのエレベーターから32階へお上がりください」

「ありがとう」


 榊と高谷がエレベーターの前で待っていると、背後からヒソヒソ声が聞こえてくる。

「あれがCEOの・・・」

「写真より素敵ね」

 どうも榊のことを噂しているらしい。

「なぜ俺の顔を知っている」

 榊は眉を顰める。

「来客者の顔を受付に伝えているとか」

「普通はそこまでしない」

 エレベーターが開く。榊と高谷はエレベーターに乗り込んで32階のボタンを押す。他に3人の社員が乗り込んでいた。自意識過剰かもしれないが、明らかに視線を感じる。榊は居心地の悪さを感じながら目的階でエレベーターを降りた。


 エレベーターの前でオフィスカジュアルの女性スタッフが待っていた。

「ようこそお越しいただきました、榊様。どうぞこちらへ」

 壁面がガラス張りの廊下は、日差しをよく取り込んで明るく開放感がある。高層階とあって眺めも良い。高谷は珍しそうに周囲を見回している。

 すれ違うスタッフが榊の顔を見て、にっこりと笑顔を向ける。榊は首を傾げながらも会釈で返した。


 女性スタッフがミーティングルームの扉を開け、中へと誘導する。円卓には十名の社員が座っていた。一番のベテランと見える女性、若手の男女、欧米系にアジア系。年齢、性別、人種を越えて適材適所でスタッフを配置しているようだ。

 遅れてライトグレーのオーダースーツを隙なく着こなしたライアンが入ってきた。場の空気が一気に華やかになる。


「英臣、久しぶりだね」

 満面の笑みで両手を広げハグを求めるライアンを、榊は腕を前面に思い切り押し出して制した。

「ああ、しばらくぶりだな」

 榊は咳払いをしながら縁なし眼鏡をクイと持ち上げる。しばらくぶりと言っても、ライアンは何かとしょうもない理由をつけて無駄にビデオチャットを仕掛けてくるので、そんな気は全くしない。


「そちらは・・・おお、結紀じゃないか」

 ライアンは女装姿の高谷を見て怪訝な表情を浮かべる。

「榊の秘書の“高谷結子”です」

 高谷は挑戦的な顔でライアンを見上げる。ライアンは榊が保身のために高谷を連れてきたことを悟り、目を細め口角を上げる。

「無駄なことだよ、英臣と私は深い絆で結ばれたパートナーなのだから。それはともにプロジェクトを進めるスタッフにも知ってもらわないとね」

 ライアンは不敵な笑みを浮かべる。高谷はムッとして頬を膨らませる。ライアンはここで既成事実を作るつもりだ、そうはさせない。

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