第19話 毒龍の目的

 廃木工所の作業場で、詰襟の男が黒い羽織に臙脂色の長袍を着た男に耳打ちする。

「辟邪と天禄がやられただと」

 長袍の男は眉間に血管を浮かび上がらせ、奥歯をギリと噛んだ。その様に跪いた詰襟は怯えて下を向いたまま動けない。

「あいつらは調子に乗りすぎるところがあった。好きに遊ばせてやったのが仇となったか」

 長袍の男は静かに立ち上がる。


「潮時だ、ここを出る」

 長袍の男が顎を動かし、足元のジュラルミンケースを運ぶよう指示する。側近の詰襟が3つの銀色のケースを手にして、横付けしたフルスモークの黒いバンのトランクに積み込んだ。

 詰襟の男が後部座席のドアを開けようとしたとき、背後から小型のスローイングナイフが飛来し、その手に突き刺さった。


「うぐっ」

 男は驚いてドアから手を放す。長袍の男が振り向くと、そこには黒いジャケットを着た細身で長身の男が立っていた。周囲はすでに夕闇に包まれているというのに、ジャケットの男は色つきサングラスをかけており、表情が見えない。

「お前が毒龍か」

 男が近づいてくる。臙脂色の長袍を着た男、毒龍は目の前の男を睨み付ける。男は背中に手を回し、ナイフを抜いた。作業場の非常灯に照らされて、ナイフの柄には赤い組紐が巻いてあるのが見えた。


 毒龍の側近が胸元から銃を取り出そうとする。男がジャケットの内ポケットに手を入れ、水平に腕を薙ぐ。側近はその俊敏な動きに何が起きたか分からない。しかし、自分の手を見れば、銀色のナイフが突き刺さっていた。一瞬遅れて鮮血が吹き出す。

「うぎゃっ」

 側近は銃を取り落とし、ナイフが刺さったままの手を押さえて蹲った。


「かつて赤い柄巻の軍用ナイフを武器とする暗殺者がいた。“東方の紅い虎”と呼ばれた残忍な男と聞く。組織を裏切り、野垂れ死んだというがお前はその亡霊か」

 毒龍が曹瑛を見つめて面白そうに笑う。曹瑛は無表情のままサングラスをはずし、胸ポケットにしまった。

「噂を聞いたものが勝手につけた呼び名だ」

 曹瑛は冷たい瞳で毒龍をじっと見据える。


「その金を置いていけ」

 曹瑛の言葉に毒龍は笑い声を上げる。

「さもなくば命は無いとでもいうか。これはお前の金でも無いだろう」

 毒龍は両手を広げておどけてみせる。

「そうだ、あるべき場所に返す」

 毒龍は鼻で笑う。

「3億など、はした金だ。だが俺はこれを元手に新しい“毒”を仕入れて売る。“龍神”という名の“毒”だ。製法は秘伝とされ、上質で最高に飛べる“毒”だ。笑いが止まらないほど儲かるぞ。どうだ、俺の側近にならないか、紅い虎よ」

 “毒”は中国語でドラッグを意味する。


「断る」

 曹瑛は短く答える。その言葉は静かな響きだった、しかし、断固たる意思が感じられた。毒龍は唇を歪めて笑う。

「良い話をくれてやったのに、お前は愚か者だ」

 毒龍が長袍の胸元からナイフを取り出す。刃渡り21センチの黒い刀身を愛しそうに目を細めて眺める。その目には狂気が宿っていた。

「オンタリオ製キメラ。俺もナイフが好きだ。獲物を切り刻む感触が堪らない。命を奪う手応えを感じる」


 曹瑛は毒龍の言葉に嫌悪感を抱いた。かつて、ナイフを武器に選んだのは、人間の命を奪うことを実感できるからだ。快楽のためではない。命を奪うことの重みを忘れないためだ。しかし、自分に毒龍を責めることなどできるだろうか。

 曹瑛の気の揺らぎを感じ取ったのか、毒龍がニヤリと笑い、曹瑛を指さす。

「一丘之貉(同じ穴の狢)」

 毒龍は重心を落とし、ナイフを上段で構えた。


―木材保管庫

 床にダウンしていた辟邪と天禄を、伊織と孫景で縛り挙げた。

「貴様ら、絶対に許さんぞ」

「この雪辱、必ず晴らしてやる」

 辟邪と天禄は口々に憎悪の言葉を投げかける。孫景が面倒くさそうに大きなため息をつく。

「お前ら、命が助かっただけでもありがたいと思えよ。フリーで仕事を受けていても、上海九龍会に噛みついたらどうなるかは知っているだろう」

 “上海九龍会”という言葉を聞いて、辟邪と天禄は一気に顔色を変えた。


「な、何だと、ハッタリを言うな」

「九龍会に何の関係がある」

 強がってはいるものの、2人は明らかに怯えているようだ。孫景が二人に小声で耳打ちする。

「この男、虫も殺さない顔をしているが、お忍びでやってきた九龍会の上級幹部だぞ」

 孫景が伊織の方を指さす。辟邪と天禄は息を呑んで伊織の顔を見上げる。伊織は何故2人にじろじろ見られているのか分からず、困惑する。

「まさか、こんな若造が」

「だが、見てみろ、あの柄シャツを。普通のセンスではとても着られないだろう」

 天禄に言われた辟邪が伊織のギリシャの神々の顔が縦に並ぶ柄シャツを凝視する。2人の早口の中国語は伊織に聞こえていない。


「確かに、あの印象の薄い顔でこれを着て歩けるとはまともな精神力ではない」

「やはり、この男が九龍会幹部というのは真実だろう」

 辟邪と天禄は顔を見合わせ、がっくりと項垂れた。

「心を入れ替えてくれたのかな」

 事情を知らない伊織は孫景を見上げる。

「まあ、そんなところだ」

 孫景は笑いながら伊織の肩をバシバシと叩いた。


「おお、こっちは真剣勝負やないか」

 辟邪を倒した劉玲が、榊と橋本組若頭の江口との勝負の場にやってきた。2人は日本刀を構えたままじりじりと間合いを計っている。

「ところであれ、誰や」

 辟邪との戦いに集中しており、事情を知らない劉玲が間延びした声で訊ねる。

「東京の極道らしい。どうも逆恨みを買っているようだ」

 獅子堂が冷静に答える。

「榊はん、熱烈なファンが多い人やで」

 劉玲がライアンと高谷を見れば、2人は深刻な表情で榊を見守っている。高谷は手にペン型スタンガン、ライアンは腰に銃を隠し持ち、いつでも撃てる準備をしている。江口は勝利しても無事には帰れないだろう、劉玲は思わず頭を抱えた。


 江口と榊は睨み合いを続けている。一瞬でも目を逸らせば、隙ができる。天窓からは月の光が射し込んでいた。保管庫をほの青い光が照らしている。

 不意に、山の木から鳥が飛び立ち、月光が陰った。それを合図に江口が上段から斬りかかる。榊はそれを弾き飛ばす。江口は体勢を崩すこと無く下から切り上げる。榊は間髪入れず受け流した。五合ほど素早い打ち合いが続き、2人はまた間合いを取る。


 榊の額から汗が流れ落ち、コンクリートの床に染みを作った。気を張り詰め、集中力を高めた状態を持続するには想像以上の精神力が必要だ。

 榊を見つめる高谷も呼吸をするのを忘れていた。隣に立つライアンも同じく緊張しているのだろう。高谷はライアンを横目で見やる。

「ちょっ、ライアン、何やってんだよ」

 高谷が小声でツッコミを入れる。ライアンがスマホのカメラで榊の動きを追っている。

「戦う美しい英臣の姿を記憶だけでなく記録にも残さねば」

 ライアンは熱を帯びた目で榊を見つめている。榊は集中しており、それに気付いていないのが幸いだった。


「真剣を前に全く動じないとは、大したものだ」

 江口も肩で息をしていた。

「あんたも年の割には良い動きだ」

 榊がニヤリと笑う。江口が右から斬り込む。榊はそれを刀で受ける。江口は一度押すが、すぐ引いて今度は左から斬り上げる。榊はそれをバックステップでよけた。

「なかなかやる」

 榊の頬に一筋の赤い雫が流れる。傷口を拭い、指についた血を舐め取った。皮一枚切っただけだ。しかし、江口の太刀筋は確かだ。


「榊さん」

 高谷は叫びそうになるのをぐっと堪えた。ここで悲鳴を上げてもこの勝負に幕は降りない。ライアンもスマホはジャケットの胸ポケットにしまい、真剣な面持ちで勝負を見守っている。

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