第3話

 画家がアトリエを開いたことでレストランやカフェ、バー、雑貨店が次々に建ち並び、ショッピングエリアとして発展した田子坊は上海市の新黄浦区に位置する。迷路のように入り組んだ路地に店舗がところ狭しと並び、若者や観光客に人気のスポットとなっている。

 天気の良い午後、春の気配を感じる陽気にオープンカフェは満席、通りにも若者が溢れていた。一つ奥の路地へ入ればそこは住宅街で、ほとんど人通りがない。


 劉玲は一人狭い路地を歩いて行く。小さなプランターの並ぶ非常階段を上り、2階のドアを開けた。

「您好、劉老師」

 そこは茶館の厨房だった。エプロンをした店主が丁寧に頭を下げる。劉玲は手を振り、厨房を抜けていく。ゴブラン織りの豪奢な赤い絨毯が敷き詰められた廊下の先、分厚い木の扉を開けると、茶席が準備されていた。


「おお、揃ってるな」

 劉玲は席に着く。孫景と獅子堂の顔があった。中年の女性茶芸師が湯を沸かし始める。

「獅子やん、さすがやったな」

 劉玲が笑顔で獅子堂の肩を叩く。獅子堂はにんまりと口元を緩めている。

「面白い体験だった」

「闇試合のオッズは2:8だったってよ。俺も獅子に賭けたかったぜ」

 孫景が残念そうにぼやく。目の前に武夷岩茶が出てきた。馥郁とした香りが鼻をくすぐる。


「鬼孔雀会、これで奴らの懐に入り込めたというわけや」

 劉玲は腕組をして満足げに頷く。

「ハンターファミリーの坊ちゃん、ライアンを殺してアメリカンマフィアと上海九龍会との全面抗争へ仕向ける計画とはまったく大胆だな」

 孫景が月餅をぽいと口に入れる。

「孔雀か、龍を食らうという生き物だ。なかなかセンスがいい」

 獅子堂が笑う。

「鬼孔雀はごろつきどもの集団や。毒の売買や闇試合の上がりを資金源にしてる。闇試合で腕利きの男をスカウトして武力でのし上がろうという腹や。しかも、トップの顔は誰も見たことが無い。なかなか油断ならんわ」

 劉玲も手を焼いているらしい。

「獅子は一発スカウトだったんだよな」

 孫景はタバコを吸いたいのか、ラッキーストライクの箱を弄んでいる。

「ああ、しかし身上は調べ上げられていた。俺の履歴は八虎連の雇われ用心棒、その後はフリーだから怪しまれなかったようだ」


 劉玲のスマホが振動する。

「おお、今着いたんか。ご苦労さん。時間と場所はまた伝える」

 必要最低限のやりとりで劉玲は電話を切った。

「腕利きの暗殺者の到着や」

 劉玲の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。


 ライアンはあくびを噛み殺した。今日は一日、中国企業のトップとの会合に明け暮れていた。今後のビジネスに表向きの関係も重要になるためだ。フリーの時間はできるだろうか、できれば上海博物館を2時間でも見学して帰りたい。そんなことを思いながら、クッションの良いベンツの後部座席に身体を預けている。

「お疲れですね、ミスターハンター」

タブレットを操作しながら黒縁眼鏡の役員秘書、王景松がライアンを労う。

「いや、君の完璧なスケジューリングのおかげでとても効率がいいよ。感謝する」

 ライアンは笑顔を浮かべる。

「夕食の会合まで少し時間があります。上海といえば雑技団。1時間ほどショウにご案内しますよ」

「いいね、楽しみだ」


 夕方7時、上海雑技団の鑑賞を終えたライアンは混雑を避け、通用口へ案内された。素晴らしいパフォーマンスはラスベガスのショウとも見劣りしないレベルだった。当初、期待はしていなかったものの、いつのまにかのめり込んで楽しんでいた。

 通用口を出ると、薄暗い路地が続いている。

「この先に車を停めてあります」

 王景松がライアンを誘導する。背後から歩いてきた長身の男がライアンにぶつかり、瞬間、右脇腹に衝撃を覚えた。黒いコートの細身の男はぶつかった詫びもなく、そのまま足早に真っ直ぐ歩いて行く。


「ぐっ・・・」

 ライアンが脇腹を押さえて倒れ込む。護衛が慌てて駆け寄り、ライアンを抱き起こす。その腹に鈍色に光るナイフが深々と突き立てられていた。

「ボス!しっかり」

 異変に気付いた護衛の黒服が大声を出す。先導していた王景松が驚いて戻ってくる。ライアンの顔は蒼白で、押さえた右脇腹からはドス黒い血が止めどなく流れ、上質なグレーのスーツが血に塗れていく。

「ああ、なんてことだ・・・救急車を」

 王景松は叫ぶ。3人の護衛がコートの男を追って走り出す。路地を抜けて左右を見渡すが、男の姿はすでに無かった。

「血が黒い、肝臓を損傷している・・・もしかしたら、助からないかもしれない」

 ライアンを支える護衛が震えながら呟く。

視界がぼやけていく。暗い路地から見上げた細長い夜空に、榊の顔が浮かんだ気がした。ライアンはゆるやかに意識を手放した。


 金網に囲まれたリングの中央を目も眩むばかりのライトが照らす。観客席は大入り満員、興奮した観客たちの声援が地下を揺るがす。トーナメント方式の闇試合、今日は王者決定戦だ。観客の興奮は否応にも増していた。

特別なこの日は、薄汚い廃ホテルの地下ではなく、商業施設地下に作られた特設会場での開催だ。

 素手による異種格闘技戦、怪我人、時に人死にも出るリアルな試合は大金を出して観戦したい者も多い。特別席には財界や当局の要人の姿もあった。これからもっとVIP客は増えるだろう。トーナメントを主催する鬼孔雀会を率いる男もここに来ているはずだ。


 黒いレザーのフードつきコートを羽織った男が中央に立つ。フードをかぶり、ジーンズに黒のブーツ姿、細身で長身の男だ。対するのは男は、身長はフードの男と変わらないが、見事な胸筋、手にはバンデージを巻き、ハーフパンツから出る大腿筋の発達は思わず目を見張るほどだった。


「フードの男は“臥龍”、特に決まったスタイルは無いようです。もう一人は“黒虎”と呼ばれ、かつてはプロとして異種格闘技戦に出場していました。反則技や残虐な試合ぶり、ドラッグの使用でジムを追われ、闇試合の選手に身を落としています」

 サングラスをかけた黒い長袍の男に詰襟の側近が耳打ちをする。長袍の男はニヤリと笑う。長袍には左肩から胸にかけて見事な孔雀の羽の刺繍があしらってある。


 ゴングが鳴り響き、満員の観客席から雄叫びが上がる。黒虎は構えを取り、フードの男、臥龍を見据える。臥龍は手をぶらりと下げたまま構えを取る気配はない。

「お前、死にたいのか」

 黒虎は威嚇する。臥龍はフードの下で口角を上げて笑う。黒虎はカミソリのようなパンチを繰り出した。臥龍はそれを風に流されるように避ける。間髪入れず、黒虎の蹴りが飛ぶ。臥龍はバックステップでかわした。

「舐めやがって」

 黒虎は連続してスピードのある拳を繰り出す。臥龍の身体にはカスリもしない。しかし、コートを掠めると、風圧で表面が裂けた。まともに食らえばかなりのダメージだ。


 会場からブーイングが起きる。黒虎の攻撃が当たらず、臥龍が反撃をしないためだ。

「かかって来いよ、腰抜けが」

 黒虎は口汚く臥龍を罵る。あれほどの動きを見せながら、息が上がっていない。黒虎は小刻みに蹴りを放つ。下段、上段、トリッキーな動きに臥龍はガードを崩される。

 上段の強い蹴りがヒットし、臥龍は吹っ飛ばされた。

「へへ、立てるか、立てばもっと地獄を見るぞ」

 黒虎はヤニで黒ずんだ歯を見せながら笑う。


 臥龍が軽々と飛び起きた。観客席からおおっと驚嘆の声が上げる。ダメージはほとんど無さそうだ。黒虎はチッと舌打ちをする。

「お前の動きはおもろない、大方読めたで」

 臥龍はフードの下で笑う。顎には無精髭が見えた。黒虎は鼻の穴を広げて怒りを露わにする。

「反撃もできねえくせに、何を言ってやがる。再起不能にしてやる」

 黒虎が雄叫びを上げながら臥龍に殴りかかる。臥龍はカウンターで黒虎の腹に拳を食い込ませる。ぐ、と呻いて黒虎は怯む。内蔵に衝撃を感じた。鍛え上げた筋肉の鎧が役に立たない。


 臥龍は黒虎の脇腹、大腿、二の腕に次々と拳を叩き込む。臓器への的確なダメージ、腕は痺れ、脚が震えている。黒虎は目を見開いた。こいつは俺を殺しに来ている。それに気が付き、黒虎は恐怖に凍り付いく。

「く、くそっ」

 黒虎は靴に隠したジャックナイフを取り出した。銀色の刃がライトに照らされてギラリと光る。会場から盛大なブーイングが湧く。

「刃物は禁止では」

 側近が孔雀の長袍の男に耳打ちする。

「いや、このままいこう」

 男の言葉に側近は静かに頷く。


「こ、殺してやる」

 黒虎の目は血走り、口からは涎が糸を引いている。黒虎がジャックナイフを振り回す。臥龍はギリギリのところでそれを避ける。フードが切り裂かれ、臥龍の目元がライトに照らされる。黒虎はその鋭い眼光を見て、さらに怯えた。

「ひぃいいい」

 錯乱した黒虎はさらに暴れ始めた。臥龍の目が光る。黒虎のナイフを持つ手を掴んだ。その手を容赦なくへし折る。鈍い音がして、黒虎の手首の骨は粉砕された。

「ぎゃああああ」

 黒虎は痛みに絶叫する。涙と鼻水で顔はめちゃくちゃだった。ナイフが床に落ちる。臥龍は大きく振りをつけた。コンクリートの地面を蹴り、見事な弧を描き、長い脚で蹴りを放つ。黒虎の側頭部にヒットし、黒虎は吹っ飛び、金網に激突して動かなくなった。


 一瞬のことに静まりかえる会場、そして大歓声が起きた。金網が開かれ、孔雀の長袍の男まで花道が作られる。黒い詰襟の男たちが臥龍を誘導する。臥龍は孔雀の長袍の男の前に立つ。

「良いものを見せてもらった、これは褒美だ」

 孔雀の長袍の男は拍手をしながら臥龍を労う。盆に載った厚みのある紅包を手にして臥龍へ差し出す。

「顔を見せてくれ」

 臥龍はフードを取る。フードの下に現れた顔は劉玲だった。鋭い眼光に、長袍の男は息を呑んだ。

「あんたが鬼孔雀会のボスか」

 劉玲の腕が伸びて、サングラスを奪い取った。

「貴様、何をする」

「その顔、覚えたで」

 長袍の男は動揺する。劉玲がニヤリと笑う。


 突然、劉玲は首筋がぴりっと痛むのを感じた。見れば、細い針が突き立っている。劉玲は身体の力が抜け、その場に跪いた。ダークグレーのトレンチコートを着た男が劉玲を見下ろしている。

「お前は、針使いか」

 劉玲は薄れ行く意識を何とか保ち、顔を上げる。針を手にした髭面の男がニヤリと笑っている。

「私は用心深い、トーナメントの決勝にしか現れない私を狙うお前のような輩がいることは承知の上だ。この男から話を聞き出せ、郭皓淳。始末は任せる」

 それだけ言うと、長袍の男は詰襟の護衛とともに会場から消えた。劉玲は唇を噛む。意識が朦朧とし、その場に倒れ込んだ。


 翌朝、午前9時、外灘を眺める高層ビルで上海信息中心有限公司の緊急会議が招集されていた。取締役のライアン・ハンターの訃報を受けた王景松が取締役を集めたのだ。円卓につく役員たちの顔は暗い。

「昨夜、ミスターハンターが病院で亡くなった」

 その言葉に役員たちはおぉと驚嘆の声を上げる。動揺が広がり、ざわめきが起きる。

「このプロジェクトは彼の夢でした。私が彼の遺志を継ぎます」

王景松は神妙な表情で全員の顔を見回す。そして、口元を歪めて笑った。


 突如、会議室の扉が開け放たれた。円卓の取締役たちは扉に注目する。そこには黒のスーツにブラウンのストライプのシャツ、同系色のペイズリー柄のタイを締めたライアンが立っていた。

「おお、ミスターハンター、ご無事でしたか」

 役員たちは拍手をして彼を迎える。

「遅れてしまったね、すまない」

 ライアンはそういって、円卓につく。王景松はその顔を凝視する。昨日、雑技鑑賞の帰りに暴漢に刺されて死んだはずだ。怪我をしているような顔色にも見えない。


「王景松、君の提案には賛同しかねる」

 ライアンは静かに、しかし毅然とした声で語りかける。王景松は動揺を隠せない。

「し、死んだはずでは」

「そう、君にだけ、そう伝えた」

 ライアンは優雅に微笑む。王景松は怒りに唇を震わせている。ドアが開き、男たちが入って来た。

「な・・・」

 王景松はその顔ぶりを見て絶句する。


 昨日のトーナメントの優勝者、劉玲。腕っぷしを見込んでお抱え用心棒にした獅子堂和真、その知り合いでライアンの暗殺を依頼した曹瑛、トーナメント会場での警護に雇っておいた暗殺者、郭皓淳。運転手を務めた男、孫景。

「劉老師」

 役員が全員立ち上がり、拱手の礼をした。

「劉・・・まさか、上海九龍会の劉玲・・・なんでそんな大物がここに・・・」

 王景松はあまりの驚きと恐怖に、過呼吸になっている。


「お前を探し出すのに苦労したで、まさかごろつきどもの親玉がええスーツ着たできるビジネスマンやったとはな」

 王景松は胸元から自動小銃を取り出し、劉玲に向ける。その瞬間、手にスローイングナイフが突き刺さり、鮮血がほとばしる。王景松は銃を取り落とした。曹瑛がナイフを構え、こちらを見据えている。次に動けば、殺される。王景松は力無くその場に崩れ落ちた。


「乾杯!」

 外灘の夜景を見下ろす33階展望レストランの貸し切りラウンジで男たちは祝杯を上げていた。外灘のライトアップされた街並みと黄浦江を挟んだ高層ビル群を同時に眺めることができる絶景スポットだ。

「ライアン、なかなか役者やな」

 劉玲に褒められたライアンは微笑む。

「まさか、私を殺す役が曹瑛とはね」

 ライアンが横目で見ると、高所が苦手な曹瑛はソファに座り、ガラス張りの夜景をひとり遠巻きに眺めている。手にしているのは烏龍茶だ。

「やるなら本格的にやらんとな」

「ああ、痛快だった」

 ライアンと劉玲は顔を見合わせて笑った。この男とはいいビジネスができそうだ。


「針使いか、なかなか面白いヤツだ」

 孫景と郭皓淳も打ち解けて談笑している。

「運び屋は肩が凝るだろう。今度マッサージをしてやるぞ、俺は鍼が得意だ」

「いや、それは遠慮しておこう」

 孫景は苦笑いを浮かべる。


「いつか劉兄ともう一度手合わせしたい」

 獅子堂は一度劉玲と戦って敗北を喫している。あのトーナメント決勝での動きを見れば、まだまだ勝てる気はしないが、挑んでみたくなる男だ。

「おお、いつでもええで!でも俺、もう中年やからな、ちょとは労ってや」

 獅子堂はフン、と鼻で笑う。


“英臣、今度は一緒にここで飲もう”

 ライアンは榊にスマホからメールを送った。ラウンジからの景色を撮影した写真も一緒だ。すぐにビデオチャットのコール音が鳴る。相手は榊だった。

「ライアン、いい加減来日予定を教えてくれ」

 画面の向こうの榊の顔にライアンは微笑み返す。

「ああ、英臣。上海の夜景はとてもロマンチックなんだ。そのせいか、昨夜はとても素敵な夢を見たよ」

「おい、やめろ、その話はいい」

 ライアンのスマホから漏れる榊の絶叫に、曹瑛は烏龍茶を飲みながらひとりほくそ笑んでいた。

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