第2話
「伊織、ここに行くぞ」
限界まで気落ちした榊と高谷が帰った後に、曹瑛に呼び止められた。曹瑛はタブレット画面を伊織に見せる。
「しながわ水族館・・・いいよ、行こうか」
この寒いのに水族館とは、曹瑛の考えることはよく分からない。
長年、組織の雇われ暗殺者として孤独に生きてきた彼には無縁の世界だったのだろう。海洋生物を見学したいという人間らしい興味の表れは良いことだ。曹瑛は真剣に水族館のサイトを眺めている。
約束の日。のんびりと朝食を済ませて、品川方面へ向かった。JR京浜東北線大森駅を下車して15分ほど歩けば、しながわ水族館に到着した。平日とあって人もまばらだ。
東京湾の干潟や磯の様子を再現したエリアを通り、群れをなす魚が回遊する大水槽を眺める。魚が悠々と泳ぐ姿は無心で見ていられる。
ペンギンエリアでは曹瑛はしばらく立ち止まり、短い足でひょこひょこ歩くペンギンの姿を飽きずに眺めていた。
「ペンギンて、かわいいね。子供の頃にペンギンを飼うのが夢だったよ」
曹瑛が真顔で伊織を振り返る。
「いや、さすがに飼うのは無理だから」
曹瑛は面白く無さそうに顔を背けた。
地階のメインは1階からぶち抜きの大水槽を見上げるトンネルだ。パノラマで回遊する魚たちを見ることができる。まるで自分も海の中にいるような不思議な気分になれる。トンネルを抜けると、小さな珊瑚礁の中で泳ぐカラフルな熱帯魚、サメにあざらし、イルカの大水槽が並ぶ。
コンパクトな水族館だったが、イルカショーを見学しているとちょうど昼時となった。曹瑛は言葉少なだが、その表情からは楽しめたようだ。帰り際に吸い寄せられるように、もう一度ペンギンエリアを覗いていた。
水族館を堪能した後は、老舗の焼き鳥屋に入った。炭火焼きの鶏もも肉に鶏ガラベースのダシ、ふわふわの半熟たまごでとじられた親子丼がランチで食べられる。辛いものが好きな曹瑛は辛味バージョンを選んだ。
「親子丼とは面白い名前だ。この料理は中国にはない」
曹瑛がテーブルに置かれた丼を見てしみじみと呟く。
「鶏肉が親で、卵は子だね。よく考えたらシュールな名前だよね」
「卵にうまく味付けしてある、美味いな」
「豚と卵で他人丼っていうのがあるよ。豚肉の卵とじだけどね」
「それは面白い」
日本では一般的な料理だが、曹瑛には珍しいものだったらしい。
腹ごなしに近くの公園を散策する。紅葉の時期も終わり丸裸の木立が寒々しいが、控えめな日差しは暖かく、心地良い。池には丸々と太った白鳥が優雅に泳ぎ、石の上に亀が甲羅干しに出ていた。
ガサッと音がして、植え込みから虎毛の猫が顔を出した。
「あーかわいい猫、おいで」
伊織がしゃがんで手を出す。
「伊織」
曹瑛が伊織のマフラーを引っ張る。伊織は後ろに倒れそうになり、猫も驚いて植え込みに引っ込んだ。驚いて曹瑛の顔を見上げると、険しい顔でまっすぐ前を見据えている。見れば、猫がいた場所に矢が刺さっている。
「瑛さんこれは」
曹瑛の目線の先にはフードを被り、サングラスをした男がクロスボウを持って立っている。伊織は思わずぞっとした。
「あ、あいつあんなもので」
小動物をクロスボウで狙い撃ちをするなんて信じられない。恐怖の後に怒りがこみ上げてきた。男は逃げ出した猫をなおも狙い、トリガーに指をかけた。曹瑛が足元の小石を拾い上げ、男に向かって投げる。石はクロスボウの先端に当たり狙いが大きくはずれ、放たれた矢は宙を舞った。
「クッソ」
男は悪態をつき、逃げ出した。放っておけばまた動物を狙うだろう。伊織は思わず駆け出した。チッ、と舌打ちをして曹瑛も後に続く。
男は体力がないのか、あまり足は速くない。伊織も激しく息切れしているが、もう少しで追いつけそうだ。男は遊歩道に停めていたマウンテンバイクに跨がった。
「あっ、待てこの!」
伊織が手を伸ばすが、男には届かない。男がマウンテンバイクをこぎ始めた瞬間、後輪が急激に跳ね上がり、男は激しく転倒した。目の前で突然転んだ男を伊織は呆気にとられて見ている。はっと我に返り、道ばたに転がったクロスボウを拾い上げた。
「おまわりさんこっちですよ」
曹瑛が自転車に乗った警察官を連れてきた。男が猫を狙うのを見た、と話をしている。クロスボウを見て、警察官はすぐに男を取り押さえた。
フードを取った男は気の弱そうな顔をして俯いている。まだ未成年のようだった。マウンテンバイクの前輪にクロスボウの矢が挟まっている。伊織は曹瑛を見る。曹瑛は知らん顔をしているが、動き出した前輪を狙い、猫に向かって放たれた矢を投げたのだ。
「お前は詰めが甘い」
曹瑛に言われて伊織はうなだれる。今年の春まで現役バリバリ、特殊訓練を受けたプロの暗殺者と同じにしないで欲しい。しかし、曹瑛がいなければ、男の逃走を許していたのは確かだ。
「それに、至近距離で撃たれたらお前は死んでいた」
伊織ははっとした。義侠心にかられて後先考えずに追いかけたが、相手は武器を持っていたのだ。
「お人好しもほどほどにしろ」
呆れた様子の曹瑛の言葉には、もう棘は無かった。
「そう言えば、榊のマンションはこの辺りだったな」
「そうだね」
伊織も実は気になっていた。この間は烏鵲堂で”明美が出ていった”と嘆いてひどく落ち込んでいた。普段冷静な榊があれほど取り乱すのは見たことが無い。
「ちょっと寄ってみる?」
伊織が尋ねると曹瑛は仕方ないな、とそっぽを向きながら答えた。曹瑛も軽口を叩ける相手がいなければ張り合いがないのだろう。
平日の昼間にマンションにいるだろうか、伊織は電話をかけてみた。しばらくコール音が続き、榊が出た。
「伊織か、どうした」
「榊さん、今マンションにいる?」
「ああ、今日は一日部屋で事務仕事だ」
「ちょっと寄っても良いかな。今近くなんだよ」
榊はわかった、と言い電話を切った。やはりどことなく声に張りが無い。
品川駅で電車を降り、途中の洋菓子店でアップルパイと、曹瑛が紅茶を見繕ったダージリンティーの茶葉を合わせて買った。
「あいつのキッチンにはティーポットがあった」
曹瑛は榊の部屋を目聡くチェックしていたようだ。榊のマンションの前にやってきたところで、息を切らせて走ってきた高谷と遭遇した。
「伊織さん、曹瑛さん」
高谷は肩で息をしている。全速力で走ってきたようだ。そして、来客用の駐車スペースを見て青ざめる。
「どうしたの、高谷くん」
「榊さんが、危ない・・・」
高谷の言葉に伊織と曹瑛は顔を見合わせる。駐車スペースには紺色のワーゲンと、白いポルシェが停まっていた。曹瑛はそれを見て無言で踵を返そうとする。
「瑛さん、どうしたの急に」
「やっぱり帰る」
伊織と高谷が曹瑛の腕を掴んで引き留める。
「曹瑛さん、お願い!」
高谷が必死で頼み込むので、曹瑛は引き摺られるようにマンションのエントランスをくぐることになった。
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