第3話
黒いスーツとロングコート、臙脂色のタイを締めた曹瑛は闇に紛れ、青海埠頭の倉庫街にやってきた。闇に紛れと言えば聞こえが良いが、ここに来るまではタクシーを利用した。
今日のタクシーの運転手は話好きだったらしく、最近の景気や中学生になった娘の反抗期の話を一方的に振られて曹瑛は若干辟易していた。最後にはこんな夜の波止場で闇取引か、と聞かれたのでそうだ、と真顔で答えて車を降りた。
急がないときは公共機関を利用するのは嫌いではない、しかし緊迫した場面でのんきにJR線に乗っていくのはどうも具合が悪い。曹瑛はそのうち足になるものを買おう、と心に決めた。
明かりのついた倉庫ではコンテナの積み込み作業が進んでいる。1人の黒い作業服が倉庫に入っていくのが見えた。曹瑛はすべるように倉庫入り口に近づく。
「お前も来たんか」
不意に暗闇から声がする。全く気配を感じなかった。もし、彼が敵ならば喉を掻き切られてもおかしくはなかった。
「兄貴」
曹瑛は姿を現した兄の顔を見て小さくため息をつく。普段は気さくで陽気に振る舞っているが、この男には敵わない。兄の劉玲は黒いスーツに赤シャツ、ダークグレーのタイを締めて丸いレンズのサングラスをかけている。常に遊び心は忘れない男だ。
「あのコンテナに黒服がまとわりついてるな、彼女の絵もあそこや」
劉玲はスマホの画面を確認する。倉庫内に反応がある。“遠い郷愁”のキャンバスに小型GPSを仕込んでいたようだ。
劉玲は積み上げられたコンテナに飛び乗る。曹瑛もそれに続く。コンテナ伝いに2階の通路に飛び移り、身を屈めて目的の積み荷に近づいていく。
「しかし、大仰な警備やな」
通路から俯瞰して見れば、コンテナの周囲に10人からの黒い作業着の男たちが集まっている。当然、武装しているに違いない。
“遠い郷愁”の輸送船への積み込みを阻止しなければならない。
「計画はあるのか」
曹瑛の問いに劉玲は顎に手を当てて唸る。
「う~ん、どないしよ・・・俺が斬り込むからお前は援護してくれるか」
「それは計画と言わないぞ」
曹瑛は呆れている。しかし、口元には笑みが浮かんでいる。
「せやな、まずは平和的に交渉を試みてくるわ」
劉玲は軽やかにコンテナを飛んでいく。
「この中にある絵を返してもらおうか」
劉玲がコンテナの上に着地した。黒い作業着たちの前に仁王立ちして叫ぶ。突然の謎の男の登場に、男たちは劉玲を見上げて口をぽかんと開けている。しかし、取引を邪魔する敵が現れたことを認識した男たちは口々に叫ぶ。中国語だ。
「何だ貴様は」
「突然現れて何を寝言をほざいてやがる」
「降りてこい、ぶちのめしてやる」
散々な言われように曹瑛は頭を抱えた。一体どこが交渉なんだ。伊織に言わせれば交渉が壊滅的に下手な曹瑛と劉玲、どんぐりの背比べというところだが。
「絵を取り返しに来る奴がいると聞いていた」
青い詰襟の男が歩み出る。黒い髪を後ろに一つ括りにした、鷲鼻に冷たい印象の一重瞼の男だ。劉玲を見上げ、不敵な笑みを浮かべている。
「あの絵は不当に奪われたものや、返してもらう」
「女は絵を売ると言った。我々は金を払った。交渉は成立している」
詰襟の男は怒りを露わにする。劉玲は詰襟の男の前に降り立った。
「何が交渉や、脅しやろ。それにお前らは作家の心が分かってへん、金だけが目的や。そんな奴らにあの絵は絶対に渡さへんで」
劉玲の顔から笑みが消えた。詰襟の男はその場の空気が一気に変わったのを感じた。背筋に冷たい汗が流れる。
「始末しろ」
詰襟が命じた。作業着の男たちが劉玲の前に立ちはだかる。男たちは腰にさしていた特殊警棒を取り出し、構えた。
一部始終を見ていた曹瑛がコンテナから飛び降り、劉玲と背中合わせに立つ。劉玲はハルビンのプラント戦から愛用しているシンプルなナイフ、レギオンを取り出した。曹瑛も背中から赤い柄巻のバヨネットを取り出す。
「こいつらプロや、油断するな曹瑛」
劉玲が肩越しに曹瑛に伝える。曹瑛はフッと笑う。
「兄貴もな」
黒い作業着の男たちが一斉に襲いかかる。曹瑛は1人目を右ストレートで沈めた。劉玲も同時に上段蹴りで1人を吹っ飛ばす。間髪入れず上から襲い来る警棒を持つ手を曹瑛は肘で弾き、脇腹を狙う警棒をバヨネットで防ぐ。体勢を瞬時に立て直し、バヨネットを薙いで男の上腕を切り裂く。痛みに怯んだ男の顎に拳を食らわせれば男は平衡感覚を失い、転倒した。
曹瑛の死角を狙い、振り下ろされた警棒を劉玲が掴んだ。
「気ぃつけや」
劉玲は警棒を掴んだまま、男の腕を下から突き上げる。腕の関節が鈍い音を立てる。悲鳴を上げてしゃがみ込む男の顎を曹瑛は蹴り飛ばし、男は木箱にぶつかって気絶した。
「余計な世話だ」
曹瑛は不満げな顔を向ける。
3人が劉玲に迫る。劉玲はしゃがみ込み、男たちの足元に回し蹴りを食らわせる。男たちは次々に無様に転倒した。起き上がろうとした側頭部に蹴りをくれてやれば泡を吹いて倒れた。残りの2人が跳ね起きた。1人の警棒をレギオンで防ぐ。高い金属音が倉庫内に響く。もう一人の警棒の先端を掴む。
「く、何という力だ」
男と警棒の奪い合いになる。劉玲は警棒に気を取られた男の鼻っ面に拳を食らわせた。
男は警棒から手を離し、ぶっ倒れて気絶した。
警棒を手にした劉玲は軽く振り回してみる。対峙する男はニヤリと笑う。
「お前が使ったところでただの棒きれだ、簡単に使いこなせるものじゃない」
男は警棒に自信を持っているようだ。
「これおもろいな、軽くて使いやすそうや。お前達の使い方見てなんとなく覚えたわ」
劉玲はナイフをしまい、警棒を構える。男が踏み込んだ。激しい打ち合いが繰り広げられる。男の力強い連続攻撃を劉玲はやすやすと受け流している。劉玲が警棒を一文字に薙いだ。男の頬に赤い血の筋ができた。凄まじいスピードに男は目を見張った。
息をつかせず繰り出される劉玲の攻撃が防ぎきれず、二の腕、脇腹、足と打撃を受け、男はよろめく。得意の警棒で劉玲に勝てない。男は奥歯をギリと噛んだ。
「ただの棒きれもなかなか役に立つで」
劉玲の一撃が男の延髄を捉えた。男は白目を剥いてコンクリートにブッ倒れた。
曹瑛も残りの一人を相手にしている。凄まじいスピードで警棒とバヨネットがぶつかる。一瞬でも気を抜けば互いに致命傷を負うという緊張感が漲っている。曹瑛の頬には血が一筋流れている。短髪の男はなかなかの手合いのようだ。筋肉質だがスピードもある。
「肋骨を全部へし折ってやる」
短髪はニヤリと笑う。曹瑛はバヨネットを逆手に構えた。じりじりと間合いをはかり、睨み合う。短髪が動いた。振り下ろされる警棒をバヨネットで弾き飛ばす。反動で無防備になった短髪の鳩尾に曹瑛の鋭い拳が食い込んだ。
「ぐっ・・・」
呻く短髪の側頭部に曹瑛の勢いをつけた上段蹴りがきれいに決まった。
その場には10人の男が転がっている。組織でも腕利きのプロ集団だった。青い詰襟の男は震えながら後ずさる。劉玲と曹瑛がゆっくりと男に近づいていく。
「わ、わかった。絵は返す」
詰襟は震えている。劉玲はサングラスを外した。
「ひっ・・・あんたは上海九龍会の・・・劉老師!何故こんなところに、そんなまさか」
詰襟は驚きのあまり、その場にへたり込んだ。どうも上海九龍会の幹部が自ら絵を取り戻しにくとは思いもよらなかったのだろう。
「あの展示会は俺の企画や、これ以上邪魔せんといてくれるな」
劉玲はニヤリと笑う。詰襟は力無く首を縦に振った。
“遠い郷愁”は無事に会場に戻ってきた。唐琳静は劉玲に何度も頭を下げていた。
「うん、やっぱり良い絵やな」
劉玲は腕組をしながら絵を見つめている。
「この絵を何故売らないのか聞かないんですか」
唐琳静の言葉に劉玲は微笑む。
「あんたにとって大事な絵なんやろ、理由はそれでええ」
来場者の中に背中の曲がった杖をつく老婆と彼女を支えるヘルパーの女性がいた。おばあさんはゆっくりと中国の風景が描かれた絵画を眺めながら歩いてくる。そして“遠い郷愁”の前で立ち止まった。老婆はじっと絵を見つめて動かない。
「座って見ますか」
唐琳静は絵の前に椅子を置いた。老婆はおじぎをして椅子に腰掛け、絵をじっと見つめている。彼女の目に涙が光っている。
「懐かしい風景を思い出しているのかもしれません」
ヘルパーの女性の言葉に、唐琳静は震えながら老婆の手を取る。
「この絵はがきを送ってくれたのはあなたですね」
ヘルパーの女性は絵はがきを取り出した。“遠い郷愁”と同じ絵がプリントされている。
「志津さんは脳梗塞の後遺症で話すことはできません。もう目もほとんど見えていないはずなんだけど、この絵はがきを手渡したらずっと眺めていました。とても穏やかな表情で」
「おばあちゃん、私は唐琳静と言います。あなたの娘、真由美は私のお母さんです。中国で元気に暮らしていますよ」
志津は唐琳静の手をぎゅっと握り返した。志津はうんうん、と何度も頷いていた。唐琳静の頬には温かい涙が流れていた。
「私の母は残留孤児でした」
営業時間が終了した画廊で、唐琳静が静かに語り始める。
「終戦間際、おばあちゃんは命からがら日本に帰ることができた。でも、幼い娘は置き去りに。それが私の母です」
唐琳静の母は親切な中国人に出会い、無事に育てられ幸せな結婚した。そのままハルビンに残り、つましく暮らしている。自分を捨てた志津を恨むことなく、生きられたことに感謝する母の姿に、志津に会ってみたくなったという。
当然の訪問を志津にどう思うか、それを考えると勇気が出なかった。そこで、普段の画風ではない抽象画で想いを込めて故郷ハルビンの風景を描き、志津がここに来てくれることを願った。このキャンバスの中に志津は懐かしい風景を見ていたのだ。
「おばあちゃんに会えた、そしてきっとおばあちゃんは喜んでくれていた。それだけで私は幸せです」
静かに聞いていた劉玲は泣いていた。先ほどからずるずると鼻水をすすり上げている。
「ええ話や」
曹瑛も黙っているが、感じるものがあるようだ。劉玲も曹瑛も両親に捨てられた過去を持つ。
「志津さんも救われたんじゃないかな」
伊織が呟く。きっと、幼い娘を置いて帰った罪悪感を長年背負って生きてきたに違いない。
「母は会わない方が良いと思っていました。でも、私はそうは思いません。今度、母と一緒におばあちゃんを訪問します」
志津は現在、施設で暮らしているという。唐琳静は穏やかな笑みを浮かべた。
その後、唐琳静は劉玲の紹介で“遠い郷愁”を深圳の買い手に売ることにした。今後も良いパトロンになってくれるそうだ。伊織はその後、“一心”の展示会レポートとともに唐琳静の家族の再会を取材させてもらった。素晴らしい記事だと編集長に絶賛された。
完成した日中交流雑誌と、親子3代の笑顔を写真を唐琳静に送ることにしている。
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