第2話

 大浴場にある日本庭園の岩風呂と内湯にもつかり、のぼせる寸前まで温泉を楽しんだ。風呂上がり、高谷は浴衣の帯がうまく結べずに手こずっていた。

「貸してみろ」

 浴衣の着付けに手慣れている榊が高谷の帯締めを手伝ってやっている。元ヤクザの榊は和装に謎の迫力がある。

「榊さん、ありがとう」

 強面の榊だが、年の離れた異母弟の高谷を可愛がっており、面倒見の良い兄の表情を見せる。


 大浴場を出たところで、旅館のスタッフが困り顔で張り紙をしていた。大浴場は貸し切りのため、午後七時から翌朝六時まで入れないと書いてある。

「この旅館は温泉がメインやないのか、貸し切りで入れないなんて話あるんか」

 劉玲が顎に手を当てて首をかしげている。無精髭に浴衣を粋に着こなす姿は時代劇にでも出られそうだ。


「申し訳ありません、団体様の貸し切りで」

 スタッフは平謝りに頭を下げている。その代わり、離れの大浴場に案内できると言っている。

「団体か、ずいぶん勝手な奴らのようだな」

 榊は下ろした前髪の奥から鋭い眼光を向ける。


 午後六時予約の夕食会場へ向かう。大宴会場の前を通ると、どんちゃん騒ぎの品のない声が漏れていた。障子があいて、逃げ出すように若い仲居さんが出てきた。

「おい、なんだよ、付き合い悪いな」

 彼女を追うように顔を出した男は、下品な原色の柄シャツに首には金のネックレスを下げている。あきからに輩だ。


「おい、困っているじゃないか」

 孫景が男の前に立ちはだかる。仲居さんはその傍らに怯えた顔で恐縮しながら立っている。

「なんだてめえは、俺たちは客だぞ、こんなに大勢で利用してやってるんだ、酌のひとつもできないなんてプロ失格だろ」

 男は酔っていた。おそらく酔っていなくてもこの程度の暴言は平気で吐くような奴だ。

「お前の要求は度を超している」

 ガタイの良い孫景の毅然とした態度に、男は我を取り戻したのか、引き気味になる。


「何をもめとるんだ」

 団体の親分が登場した。恰幅の良い六十がらみの親父で、目元には黒ずんだくま、醜く垂れ下がった頬肉、意地悪そうに歪んだ口元、輩どもを率いるにふさわしい品の無さを体現していた。大宴会場の中は乱痴気騒ぎ、それを止める気もないようだ。

「ウチの若いモンがどうかしたか」

 態度も最悪だ。背後にチンピラが集まってきた。


「あんたらうるさいねん、もうちょっと静かにしてや」

 劉玲が飄々と肩をすくめる。親分は目元をピクリと動かした。この状況、普通は震え上がり、謝って逃げていくものだろう。背後のチンピラが吠える。仲居さんは今にも泣き出しそうな表情だ。


「それは悪かったのう、お前らちょっと静かにせえや」

 親分は形だけの注意をしてチンピラどもを黙らせた。もちろん、ただのデモンストレーションだ。榊は下ろした前髪の奥から鋭い眼光で親分を見据える。曹瑛は腕を組んだまま無表情だ。こういう時の曹瑛は間違いなくヤバい。


「おお、それでええんや。きちんと躾ができとるやないか」

 劉玲はニコニコと目を細めて人の良さそうな表情を崩さない。

「何だテメエ、おら」

 背後のチンピラが怒声を上げた。そのとき、通路の奥から歩いてきた浴衣姿の男たちの団体が、劉玲の前で足を止めた。


「これは劉老師」

 先頭の男が驚いた顔をしている。

「あ、なんや」

 劉玲は覚えがないらしい。しばらく考えてやっと思い出したらしく、嬉しそうに男の肩を叩いた。中国語で会話が交わされる。


「おお、張兄弟やないか、久しぶりやな。こっちにおったんか」

「はい、今は日本に駐在しています。老師、問題ですか」

 張と呼ばれた男は、部屋から顔を覗かせている親分と背後のチンピラどもをじっと見つめている。睨むでもない、しかし静かな瞳には息を呑む迫力があった。

 その背後に控えて、すっと背筋を伸ばして佇む男たちに不気味なものを感じた親分は黙り込む。脂ぎった額から冷や汗を流している。


「ええんや、今俺は友達と遊びに来てるんや。この旅館はええところやな、楽しんでや」

 張とその背後の男たちは劉玲に恭しく拱手の礼をし、静かに立ち去った。

 フン、と鼻を鳴らす音が聞こえ、荒々しく障子が閉められた。


「知り合いか、劉玲」

「上海九龍会の関東支部、張はそこのトップや。ええ面構えしとる。あいつらも社員旅行みたいやな」

 孫景はあんたも顔が広いな、と笑った。仲居さんは孫景に何度も頭を下げていた。


 貸し切りの和室は障子の向こうに茜色から紫色に変わりゆく空、そして穏やかな海が見渡せた。い草の匂いが心地よい。

 磯会席ということで、新鮮な刺身のボリューミーな舟盛りが中央に置かれた。お膳には美しい色合いの焼き物の皿が並び、趣向を凝らした料理が盛り付けられている。


「当旅館の名物、磯焼きです」

 仲居さんが小鍋に火を点ける。熱した石に、海鮮を置いて焼き色をつけて食べる。醤油をたらせばじゅわっと香ばしい匂いが部屋に満ちた。


「うわ、このホタテ、めちゃくちゃ大きい」

 伊織は新鮮で大ぶりな海産物にいちいち感動している。

 揚げたての天ぷらに海老入りの茶碗蒸し、一口和牛ステーキ、ハマグリの酒蒸し、汁物、つやつやの白ご飯。曹瑛以外は日本酒を楽しんでいる。


「うまいな、日本酒と刺身は合う」

 孫景がしみじみと呟く。

「お前も分かっているな」

 榊がニヤリと笑う。榊はどれだけ酒を飲んでも全く顔に出ない。高谷は普段あまり飲まない日本酒で、肌に赤味が差している。


 デザートは梨に葡萄と、季節のフルーツ盛り合わせだった。曹瑛と榊、孫景は窓際でタバコを吹かしている。

「もう一度温泉に入りたい」

 曹瑛が海を見ながら呟く。

「奴ら、練馬に事務所を構える麒麟会の三次団体安延組のやつらだな」

 榊がスマホで情報を調べている。

「極道が団体で旅館を利用できないはずだが、フロント企業安延土木の名で予約を入れたのだろう。来てしまえばそうそう断れないからな」

「あんな奴らのせいで他のお客さんも大迷惑や」

 劉玲があぐらを組んで何やら考えている。


「あのう、先ほどはありがとうございました」

 ヤクザ者に絡まれていた若い仲居さんが心ばかりに、とりんごのシャーベットを全員に配ってくれた。

「おおきにお姉さん、ちょっと頼みがあるんやけどええかな」

 劉玲が仲居さんに話を持ちかけている。彼女は神妙な面持ちで何度も頷いている。

「わかりました、協力します」

 仲居さんは気丈な笑顔を見せた。


 夕方四時からの宴会が終わり、酔い潰れてそのまま寝ている者もいる。

 安延組の貸し切っている大宴会場から酔っ払った男たちがぞろぞろ出てきた。十名が組長の安本に引き連れられ、宴会の盛り上がりそのままのテンションで旅館の外に繰り出していった。


 別行動の三人が大浴場の階段を降りてゆく。浴場周辺は一般客で賑わっている。

「なんだ、七時から俺たちの貸し切りじゃないのかよ」

 男たちは首をかしげている。

「まあいいじゃないか、俺たちの立派なモンモン披露してやろうぜ」

 ゲラゲラ笑いながら男たちは大浴場の扉に手をかけた。不意に背後から肩を叩かれる。


「なんだ、おめえ」

 振り向けば、縁なし眼鏡に鋭い眼光の男が立っている。旅館のネームの入った半纏を着ているが、こんな剣呑なスタッフがいるだろうか。

 その傍らには背の高い大柄な男。同じく旅館のスタッフのようだ。チンピラたちは一瞬たじろぐが、三人つるんでいる安心感から虚勢を張る。


「刺青の客はお断りと書いてある、文字が読めないのか」

 眼鏡の奥から殺気漲る眼差しが光る。その声はドスが利いており、本業のチンピラどもは思わず身震いした。

「お、俺たちが誰か知らねえのか」

「知ってるぜ、安延組だろ」

 大柄な男はニヤニヤしながらチンピラを見下ろしている。

「そんなに風呂につかりたいのか」

 そう言ってガラス戸を開けた。外には美しい日本庭園が広がっている。大柄な男はチンピラの首根っこを捕まえ、次々に庭に放り投げた。冷たい池に派手に水が跳ねる音。


「おい、孫景ちょっとは考えろよ。せっかく綺麗な庭が台無しだぜ」

 榊が呆れている。

「そうだな、鯉が可哀想だ」

 男たちは冷たい水に頭から突っ込んで一瞬呆然とした。しかし、怒鳴り声を上げながらこちらに向かってくる。

「ふざけんな」

 威勢のいい三人は榊と孫景の拳であっけなくKOされた。榊がバスタオルを投げる。

「お客様、お体はきちんと拭いてお上がりください」

 榊はガラス戸をピシャリと閉めて鍵をかけた。


「俺は温泉に入りたい。だからスミを入れなかった。今では良かったと思っている」

 力強い語りに榊の温泉への只ならぬ愛情を感じて、孫景はお、おうと気の抜けた返事をした。刺青お断りを逆手に一般客の入浴を禁止しようとする根性が気に食わない、と榊は憤慨している。

 大浴場にあった入浴時間制限の張り紙は撤去され、事情を知らない宿泊客が気持ちよさそうな顔でのれんをくぐって出てくる。

「これでいい」

 榊は微笑んだ。

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