第20話 久しぶりの飲み


「いってらっしゃい」


 外出する私のことを、はじめくんが見送ってくれる。

 何度経験しても素晴らしい。

 出勤する新婚の夫はこんな気分なのだろうか。


「良かったら、これどうぞ」


 ウコンの入った栄養ドリンクだ。

 今日は仕事が終わった後、親友の若宮麻里と飲む予定だ。

 はじめくんはつい酒を飲みすぎてしまう私に対してウコンを用意してくれたようだ。

 なんて気がきく子なのだろうか。


「お酒を飲む前に飲んでくださいね」

「ありがとう」


 ほぼ毎週のように、金曜日の夜は麻里と飲んでいた。

 高校教師の彼女と会社員の私では仕事の内容も違うけれど、互いに愚痴を吐き出してストレスを解消する会となっている。


 でも、はじめくんと出会ってからは飲みに行くことを控えていた。

 彼と出会ってから、今日が3回目の金曜日になるけれど、1回目と2回目の金曜日は仕事が終われば即帰宅した。


 今日は久しぶりの飲みだ。

 もちろん楽しみにしてはいるけれど、はじめくんのやさしさが私の胸をうつ。

 やっぱり、飲みに行くの止めようかな。

 

「この前も言いましたが、確かに飲みすぎは身体に良くないと思います。でもだからと言って、友だちと飲みに行くことを止める必要はありませんよ」

「でも……」

「もし僕に遠慮しているなら、それは間違っています」

「うん、分かったよ」

「ただ……どれだけ飲んでも、ちゃんと帰ってきてくださいね」


 はじめくんが胸の前で手を組んで、少し上目遣いになりながら、私を見つめてくる。

 可愛いかよ!


「どこかで倒れたらどうしようもないので、必ず帰ってきてくださいね。そしたら僕が介抱しますから」


 私は感極まって、ママと叫びながらはじめくんに抱き着くのであった。




    ◆




 私と麻里が飲むのは、いつもチェーン店の居酒屋だ。

 公立の高校教師である麻里は、安定している仕事ではあるが、彼女の年齢ではあまり高い給料は出ない。割り勘以外は麻里が断ってしまうため、手ごろな価格のお店を選んでいる。

 そもそも私たちは愚痴を言い合うために来ている。上品なお店で静かに語り合うのは性に合わない。


「「おつかれー!」」


 店員が持ってきたビールジョッキで乾杯し、一気に飲み干す。

 私も麻里も酒好きのため、2人ともジョッキはすぐに空になり、次のお酒を頼んだ。

 お酒を待っている間に、麻里が枝豆を食べながら聞いてきた。


「桜子……もしかしてオトコができたのか?」

「急にどうしたの」


 最近、色んな人に恋人ができたのかと聞かれる気がする。

 家の中ではともかく、外ではそんなに変わった行動をしているつもりはないのだけれど、どうしてだろうか。


「前に会ったときより綺麗になった」

「そう?」


 人は気の持ちようで見た目が変わると言う。

 私が綺麗になったとすれば、それははじめくんとの出会いで私生活が心身ともに充実しているからだろう。

 お店のスタッフが追加のお酒を持ってきた。2杯目はハイボールだ。


「ありがとう……どうしたの?」


 スタッフは多分大学生ぐらいの男の子だ。彼は2つのグラスを持ったまま固まっていた。


「――あっ、すみません!」


 顔を赤くした青年は、急いで机にグラスを置いて逃げるように去っていった。

 グラスからハイボールの中身が少しこぼれて、麻里があーあと言いながら机を拭いている。


「あの子、見惚れていたな」


 麻里がニヤニヤと笑っている。私は苦笑して返すしかなかった。

 ハイボールを飲み、麻里は私に言う。


「私と飲むことが唯一の息抜きだなんて言ってた桜子が! 二週も続けて用事があるから飲みに行けないって……そりゃあもうオトコとしか考えられないだろ」


 はじめくんはママだけど性別は男だ。

 そういう意味では麻里の言うことも当てはまっているのかもしれない。でも別に恋愛関係にある訳ではない。


「そういうのじゃないって。麻里こそ、どうなのよ」

「私?」

「何かいいことあったんじゃない? 普段より良い顔してるよ」

「分かる?」


 麻里は待ってましたと言わんばかりに語りはじめた。

 以前から彼女が懸念していた一人の男子高校生について状況が好転したらしい。

 身よりがなくて一人で生活している子で、真面目で素行も悪くないけど中々心を開いてはくれなかったそうだ。特定の誰かと親しくしている様子もないらしい。


「最近少し心を開いてくれた」

「へぇ、良かったじゃない」

「友だちもできたようだし、一安心というところだ」


 はじめくんも親戚はいなくて、天涯孤独の身らしいし、案外そういう複雑な環境の子どもは、私が知らなかっただけで結構いるのかもしれない。

 はじめくんは見た目こそ幼いけれど、私なんかよりもよほどしっかり者だ。まさに母親のように優しく包み込んでくれる包容力の持ち主だ。


「男子高校生かぁ」

「どうした?」

「麻里的には生徒の恋愛ってどうなの?」

「桜子……年下趣味だと思ってたけど、まさか高校生と……!?」

「ち、違うよ。生徒と教師の恋愛ってあるのかなって思って」

「聞かない話じゃない。私は真剣に将来を見据えている恋愛なら、応援したいと思っている」


 意外だ。

 麻里はそういうことは許さないタイプだと思っていた。

 もちろん遊びの関係はダメなのだろうが、結婚を前提にしているならオッケーというところだ。

 うーん。

 私とはじめくんはそういう関係ではないとはいえ、他人から見たら同じようなものだ。

 麻里には知られないようにしないと。




    ◆




「たらいまぁー」


 友だちとの飲みから帰ってきた桜子さんは泥酔状態だ。

 ろれつが回っていない。


「おかえりなさい」


 大事な人の帰りを出迎えるというのは楽しい。

 おばあちゃんが生きていたころも、おばあちゃんはほとんど家から出なかったから、僕がただいまと言う側で、おかえりなさいと言う機会はなかった。


「あっ」


 桜子さんを出迎える喜びをかみしめていると、靴を脱いで部屋に入ろうとした桜子さんがつまずいて倒れてしまう。

 慌てて助けようとした結果、僕の上に桜子さんが乗る形になった。

 仰向けの僕の上に、うつ伏せの桜子さん。彼女の大きな胸が、僕の胸に押し付けられている。

 動揺した僕はただ桜子さんを見つめるしかできないでいた。

 桜子さんは髪を耳にかけながら、僕に顔を近づける。

 そして――。


「ッ!?」


 唇に柔らかい感触。

 桜子さんの唇と僕の唇が接触した。

 これは、つまり、キスというやつなのだろうか。


「えへへ」


 特に気にした様子もなく、桜子さんは立ち上がり部屋に入っていった。

 僕はしばらく動くことができず、廊下に寝転がったまま放心状態になるのであった。


 自分の唇に指をあてる。

 まだ触れ合った感触が残っていた。

 初めてのキスだ。

 僕のファーストキスは、アルコールの匂いがした。

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