六月二十一日

第71話 祈り願いて何処へやら

 多摩タヌキと話をした場所。その権威を象徴するようにそびえる大木とその周りの森林は以前に比べて随分と様子が変わっていた。鬱蒼うっそうと木々が深く昏く生い茂り、外の世界と隔絶された一つの空間を形作っているようである。しかし私はどういう訳なのか、迷うことなく導かれるように真っすぐに進むことができた。その空間の中心——大木の前ではリコがこちらに背を向けて立っているのが見えた。慈しむように大木の表皮に掌を沿わせている。

 ようやく見つけられたことの嬉しさと安堵から、思わずその身体いっぱいに抱きしめてしまいそうになったのだが、目の前にいるのがリコなのか、はたまた多摩タヌキがリコの身体に入っている姿なのか判然としないことに気がついて止めた。また、このとき既に私の身体は疲労困憊であったようである。火照った頬からつま先まで一気に血の気が引いていくのがわかった。緊張の糸が途切れたせいもあるのか、私は節操も無くその場に倒れて気を失った。眠りにつくまでの数秒、ぼんやりと光る苔や先の長いススキのような葉に優しく受け止められて、久しぶりに心休まるようであった。湧き出た涙が一滴、顎の先から落ちたのがわかった。


  ◆

 いつの間に意識を取り戻したのかはわからない。苔むした私の全身を操っているのが自分の意識、意思であるのかどうかも曖昧で、自分の視界が映画のスクリーンの向こう側を移しているような……絵空事の世界の中で他人が這いずり回っているのを椅子に座りながらただ眺めているだけのような風であった。

 私の手は多摩タヌキに握られていた。リコの姿をしているが、その身体を動かしているのがリコの精神ではないということは直感できた。


「――――。————————!」


 多摩タヌキは私が目を覚ましたのを歓迎している様子でなにやら二、三話しかけているようであったが、なにぶん聴覚の方も随分ぼんやりとしていたのでよく聞き取ることはできない。


「――――――、——————————。——!」


 ……私の意識……私という存在そのものが消えかかっているように思えた。燃え上がる炎のようにゆらめいていた私の感情が、やたらと平和に凪いでいるのが奇妙である。あるいはこの奇妙な感覚が私の意識を辛うじて身体の中に留めてくれているのかもしれない。


 何をするべきであったか……多摩タヌキに何を言うべきであったか…………。人間はまだ滅ぼさないでおくべき? それとも一思いに滅ぼしてしまうべきか? 違う、違う。そんなことで悩んでいたのではないはずだ。何か大切な……私にとって大切なものが……。


 ……消えてしまう。意識も、記憶も、意志も何もかも。せっかく辿り着いたのに。せっかく会うことができたのに。何もできないまま全部無くなってしまうのか……。


 ……会うことができた? 



 ……誰に? 


 



 …………。






 



 ……………………。













「……リ…………コ…………き……込……な………………………」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る