六月十八日

第30話 寝ても覚めてもまだまだ続く

 月が傾き夜がとぷりと深まる頃にはすっかり気分も高揚し、火照った顔や身体が風に吹かれるとどこかへ飛んで行ってしまいそうなほど軽く感じられた。リコもポコもすっかり出来上がってしまったようである。


 初めの方こそやんやと騒がしかったものの、今となってはまた先ほどと同じように、だらりと寝転がりながら輝く星空を目に焼き付けるのみである。手足に草花の当たる感触や口の中の唾液など、普段なら気にも留めないようなことがやたらと気になり、喋らないまでも私は時折身をよじらせてポコとリコの方を見た。


 大抵はどちらもそのことに気がつかないのだが、時折同じようにこちらを見ていることもあって、目が合うとなんだか可笑しくて笑ってしまった。


 そのうちにリコはくうくうと寝息を静かに立てて眠ってしまったようだった。尻尾を丸めて眠る姿の愛らしいことから、私はリコを注視することが出来なくなってしまった。私がポコに三個目の瓢箪を要求すると、なみなみと不思議の液体を溜めた瓢箪をすぐさまどこからか持って来てくれた。私はそれを受け取り、ポコと三度目の乾杯を交わした。


「さてはけっこうイケる口だな?」ポコが気分の良さそうに笑った。

「まだまだイケる。ただ美味いだけじゃなくてなんだか楽しくなってくるし、なによりこの場所が最高だ」私は指で空を指しながら答えた。


 するとポコは鼻をフンと鳴らし、「それならやっぱりお前はリコと一緒にいるべきだよ。これからもずっとな。そうすりゃ、いつだって此処にいられる」と、言った。


「ずっと?」と私が首を傾げると、「ずっとだ」と返された。少し間が空いてから「どういうことだ?」と尋ねると、ポコは「わかんねえかなあ! 結婚しろってこったよ!」と、少し大きな声を出した。


「結婚。そうか、結婚か。……うん。それも悪くないかもしれないな」私は頭にもやがかかったまま、よく考えずにそう口にした。


「そうだろそうだろ。リコは人の姿だが、オイラが思うにリコほどべっぴんのタヌキも少ないからなあ!」ポコが陽気に笑う。


「しかし、リコの方はそれで良いのか?」


 何となしにそう尋ねると、ポコは心底不思議そうな顔をした。


「良いもなにも……あいつの言葉を聞いてわからないもんか?」

「いや、その言葉がわからん。リコは『キュウ』と鳴いているだけじゃないか」


 ポコはそれを聞くとやけに神妙な面持ちになり、それからしばらく動かなくなったと思うと、突然ぽてんと倒れこんで鼻提灯を膨らませはじめた。


「おい……おい、寝たのか? おい?」


 いくら声をかけても反応がない。


 途方に暮れた私はそのまま残った瓢箪水を飲み干すと、天上に広がる銀河を名残惜しく眺めた。そしていつの間にか、そこで朝まで眠りこくってしまったのである。


 早朝、空は白みがかって星々がその姿を隠し始める頃に私は目を覚ました。普段起きる時刻よりもだいぶ早いので目を覚ましたとは言ってもそのままもう一度夢の中へと入り込みたい気分であったのだが、どうにも素面になってしまうと外で寝るということが出来なくなるようである。


 ゆっくりと重い上体を起こすと、リコとポコが私に身を寄せているのがわかった。夏とは言えやけに身体が冷えた様子が無いなとは思っていたが、なかなかどうして上等なカイロといったところか。


 私の起き上がるのがきっかけになったのか、程なくしてリコとポコのどちらも目を覚ました。寝起きの目を軽く擦りながら、ポコが「おはよう」と、言った。それに合わせてリコが「キュ」と短く鳴き、私も「おはよう」と返した。


 朝起きて誰かと挨拶するなんていつぶりだろうか。思いだそうとしてみたものの、果たして朝に両親とまともに話をしたことなど無いのではなかろうかという結論に至った。別段珍しくもない。私の同年代に尋ねたら十人中七人くらいは私と似たようなものだろう。しかしそのことがどうにも今の私を喉に魚の小骨が引っかかっているような心持ちにさせるのであった。


 ポコがじいっと目を細めてこちらを見ていることに気がつくと、ポコは口元に前足を持って来て首を少し傾げ、何やら考え込んでいるようであった。


 喋っていないポコはやはりそこらにいるタヌキと同じように見える。そんな姿を見ているとひょっとするとポコの声は私の妄想が生み出した幻聴なのではないか、と錯覚させられてしまう。『ボス』もも太郎坊も細波も、そしてあの少女のような少年も——誰の前でもポコは喋らなかった。唯一花江先輩の前では言葉を話していたが、その言葉自体が私の幻聴なのだとしたら、花江先輩にはただぎゃあぎゃあとポコがわめいているようにしか聞こえないだろうが、花江先輩が睨みつけるのにはそれだけで十分すぎる。


 そう考えると、なんだか急に話しかけるのが気恥ずかしく思えた。動物と話すことができるだなんてそんな、——おとぎ話の世界でもあるまいし。


 しかし私も鬼などという、おとぎ話に出てきそうな存在であるらしい。額を手で触ると確かに鋭く尖った硬いものの感触があった。


「キュ~。 キュキュウ?」


 頭を抱える私の顔をリコが心配そうに下からのぞき込んできた。大きく潤んだ瞳に思わず頬を赤らめてしまう。


「キュウ~?」


 なおも見つめ続けるリコ。相変わらず言葉は話さない。どうせ私の妄想でタヌキが喋るならリコの言葉も聞かせてくれれば良いものを。妄想すら満足にコントロールできない自分には、ほとほと呆れかえってしまう。

 私が助けを乞うようにポコの方へ顔を向けると、相変わらず目を細めて訝し気にしているポコが口を開けた。


「家に帰らなくて良いのか? だってよ」


 ポコは事もなげにそう言った。やはりタヌキ同士は互いに何を言っているのかがわかるようだ。


「ああ、そうだな。帰らないと」

「……折角だ。送って行ってやるよ」

「いや、別にそこまで——」

「良い、良い! 何も言わずに送られてろ!」


 ポコはそう言って有無を言わさず歩き出した。それに私が続き、リコも付いて来る。それを見てポコは即座に私の肩に駆け上がり、「確認したいことがある」と、耳元で囁いた。


 おとぎ話はまだまだ続きそうである。

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