第46話 黒狼
その巨大さは、体高が人間の数倍あることからも明らかであった。
狼型の魔物は、敏捷性に優れる。対接近戦の訓練を受けていない者には、対処するのが危険な幻獣である。
それが門から前足を出した瞬間、門の周辺で魔方陣設置の作業をしていた一人が犠牲となった。
最大の攻撃方法は魔法であるが、その爪や牙は、人間を叩き潰す程度ならば容易である。
「設置班は退避! 前衛は接近して散開! 障壁を展開しろ!」
その指示が出る前に、雅香は飛び出していた。悠斗は一歩遅れる。
黒狼という幻獣とは戦ったことがある。
珍しくもと言うべきか、状況に流されてと言うべきか、魔王軍の幹部と共闘して戦った相手だ。
あの時はそこまでしなければ倒せなかった相手だ。今ならどうか。
幻獣は竜を筆頭に、半ば生命であることをやめた存在である。
繁殖方法も生物とはかなり異なり、中には畑から生えてきたり、木が生み出すというものもある。
魔力溜まりから生まれるというのは、あちらの世界では良く知られていることだ。
黒狼はその機動力が危険な幻獣だ。
攻撃力も近距離の格闘戦に、中距離では魔法と、殴りあうのはかなり厳しい。
しかし移動を自由にさせると、それもまた危険すぎる。好戦的ではあるが不利を悟れば逃走する。
まだ下半身が門から出切っていない今なら、集中砲火で倒すのが最善だ。
当然ながらそんな知識があるのは悠斗と雅香だけで、他の一族の戦士たちは、まず自分たちの体勢を整えようとする。
「待て! 突出するな!」
そんな指示は当然無視して、悠斗も太刀を取る。
黒狼の爪の攻撃をかわし、その鼻先を雅香の刀が切る。
狼系の魔物に備わる当たり前の弱点が鼻である。
黒狼の毛皮は魔力を帯びているので、切るという手段では防御を突破するのは難しいし、魔法に対する防御力も高い。
まず鼻を切って冷静さをなくし、貫通力の高い攻撃で急所をとらえるというのが、悠斗の知る幻獣種への有効な対抗手段だ。
これが竜種相手になると、防御力を突破するのに時間がかかり、お互いの魔力の削りあいになったりする。
だが、この黒狼は――。
「うお!」
目か顔を狙おうとした悠斗であるが、黒狼の攻撃は周囲の空間全体を揺らした。
大地には亀裂が入り、設置の途中であった魔方陣は破壊される。衝撃で防御体勢が不充分だった魔法使いたちも吹き飛ばされる。
(同じ黒狼でも上位種か!)
明らかに前世で戦った固体より、攻撃力が高い。
範囲攻撃でほとんどの戦士たちは防御体勢に移行する。しかし雅香だけはすぐさま突出する。
この黒狼の強さだと、全身が門から出て機動力を増せば、自分たち以外の戦士は全滅しかねない。
少なくとも退却が選択肢に入るだろう。しかしこいつを自由に行動させれば、北へ向かってくれるならともかく、南の戦力と戦うなら、残った朝鮮軍が壊滅しかねない。
それに黒狼は短時間であれば空も飛べる。
こいつだけは、ここで倒さないといけない。
それも下半身がまだ埋まっている間にだ。
機動力もそうだが尾の攻撃が加われば、手数が増えすぎる。
雅香と肩を並べて、黒狼の腕を迎撃する。広範囲攻撃は二人の守りを突破することはない。
しかし完全に無視することも出来ず、足が止まってしまう。踏み込んで攻撃が出来ない。
(上半身だけでこれか。神剣を使えば別なんだろうけど)
雅香もまだ、一応は本気を出していないのだろう。本気であれば山一つは簡単に砕く力がある。
戦闘力の低い人間は、既に後方に退避している。それを護衛するのも戦闘力が比較的低い戦士たちだ。
残りの戦力で四方から攻撃すれば、黒狼も倒せるだろう。そう思った時だった。
黒狼が門の全てから体を出しているわけではない。そこには隙間がある。
その隙間から、何かが洩れ出てきた。
視界の端で確認する。影狼だ。
小型の、それでも地球の狼よりはよほど大きな魔物だ。
幻獣ではない。ただ黒狼に使役されることが多く、黒狼の眷属とも、進化した影狼が黒狼になるとも言われている。
手数を増やそうとした一族の戦士たちは、そちらにかかりきりになってしまう。黒狼に比べればさほどの脅威でもないのだが、無視するわけにはいかない。
それにもし、あちらからこれ以上の敵がどんどんと出てきたら。
まずい。物量で押し切られる。
そうなったらなったで、神剣を開放して戦うことが出来るのだが、被害があまりにも大きすぎる。
「悠斗! 五秒稼げ!」
雅香が答えも待たずに後方に跳躍する。悠斗に黒狼の近距離攻撃が集中する。
だがその五秒、悠斗なら耐えられる。
集中してタメを作る。一対一の戦闘中ならば不可能なことだ。
雅香を攻撃しようという意識もあったが、悠斗がそこに割り込んでくれた。
「雷神槍」
両手から出た雷の槍が、黒狼に激突する。
その牙の並ぶ口の奥から、精神を揺さぶる絶叫が洩れる。効いている。
雅香は攻撃を続ける。一度隙を見せてしまえば、あとは一方的になるのが、人間と魔物の違いであるが、幻獣もこの点ではさほど変わらない。
いける。
このまま一気に押し通る。そう悠斗が思った時、黒狼の体が門の中に沈んだ。
「逃げた?」
追撃するかとも思うが、門の向こうの状況が分からなければ、待ち伏せのように逆撃を食らうかもしれない。
周囲を見ると、まだ影狼が残っている。苦戦している者もいる。
「まずはこちらの掃討だな」
肩で息をしている雅香だが、それでも戦わないわけにはいかない。
門の中に戻るわけでもない影狼たちを、他の戦士と共に掃討していった。
作戦は失敗だ。
魔方陣を作成するための人員が失われた。もちろん本職ではない人間が、時間をかけて協力することも出来る。
だがあれほどの魔物(と他の者は思っている)が出現したのだから、より低下した戦力で当初の予定を遂行することは無理がある。
死者は九人。他にもこの場では応急処置しか出来ない者もいる。
門からある程度離れて、中継点から上陸地点へと連絡を取る。
そこで、本部からも作戦の中止を命じられた。
なんでも活性化した門は半島だけでなく、ほぼ世界レベルで魔物が氾濫したらしい。
新宿も作りかけの壁を利用してどうにか撃退し処理したものの、死者が出ている。
門自体の活性化は止まらず、他に割いている戦力の再編成をしているらしい。
北海道方面からは戦力を割けない。
ならば攻勢に出ていた戦力を戻すのは、当然の判断である。
「痛い犠牲だったな……」
門の方面を悠斗と一緒に警戒しながら雅香は呟いた。
一族の戦士は、己の肉体と原始的な武器を利用して戦う。だから一般的な兵隊よりも、補給の負担は少ない。
ただ圧倒的に一般の兵隊よりも劣っているのは、復元力である。
ある意味一般兵は、そこそこの肉体的素質を持つ者を訓練すればいいだけだ。
しかし一族の魔法使いたちは、生まれてから一人前になるまでに、長い年月がかかる。
九人も死んだ。しかも攻勢に出るための作戦に参加するような、優秀な魔法使いが。
十三家の場合は、足や腕を失っても、多少の時間をかけて再生させることが出来る。
しかし、死者は甦らない。
あちらの世界でも蘇生魔法はあったが、かなりの条件があった。地球では仮死状態レベルの負傷を癒すものだったので、正確には死者復活とは違う。
新宿の方も、防衛戦であるにもかかわらず死者が出ている。
「各地の門全体が、活性化してるってことか?」
「活性化と言うか……二つの世界の距離が縮まってるんじゃないかと思う」
雅香の言葉は、真実であれば恐ろしいものだ。
「これからどうなると思う?」
悠斗の質問に雅香は応えず、ただ考え込んでいる。
思考の邪魔をしないように、悠斗はそれ以上の問いはなさない。
やがて、雅香は口を開いた。
「あの黒狼だが」
「強かったな」
「あちらの世界の黒狼で間違いないと思う」
「知ってる個体なのか?」
「おそらくはな」
指紋や声紋と同じように、生物が持つ魔力の反応は、個人によって特徴がある。
もちろんこれを誤魔化すことも出来るのだが、幻獣にそういった意識はないだろう。
「魔王軍に黒狼を使役しているやつがいただろ?」
「あいつか!」
悠斗も戦ったことがある。そういえばあいつの生死は確認されていない。
魔王軍――もしその体制を維持しているのだとしたら、魔王軍はこちらへの進出を考えている。
もちろん単独でこちらを探っている可能性もあるが、どちらにしろ単なる魔物の出現とは話が違う。
「お前、あいつらと接触したら、こっちへの進出を阻止出来るのか?」
「地球の方が科学兵器のおかげで一般人の脅威度は高いからな。そもそもあっちの世界はまだ魔族にとってさえ人跡未踏の地が多いから、わざわざこっちへ来る必要もないんだが……」
あちらの世界が、勇者と魔王の相討ちからどうなったのか。
いずれは門をくぐって、向こうの様子を確かめにいかなければいけないかもしれない。
だがそれは、まだ先のことだろう。
撤収の命令が正式に出た。
ここからまた南浦まで徒歩で移動し、船に乗って日本に帰る。
「半島はどうなるのかなあ」
「島嶼部はどうにか維持しても、日本への密航者は減らないだろうからなあ」
雅香は政治家の頭で考えるが、半島の極端に減った人口を考えれば、もう日本への同化を考えた方がいいのかもしれない。
一応政権は存在するが、半島の両国が、もうまともな国家機能を維持していないのは明らかである。
だが日本はこの状況でも、難民を受け入れてはいない。
下手に受け入れて治安が悪化し、国力が低下すれば、長い目で見ればマイナス面が大きい。
今の世界には、博愛の精神など存在しない。世界全体に余裕がないのだ。
あったとしてもそれは、より社会の維持に貢献している者たちに還元される。
具体的には軍事力だ。あとは食糧生産。
どうにかして、門は閉じなければいけない。しかしその方法が、単に門を消滅させるだけでは難しい。
結局封じ込めに失敗した門を最後に振り返り、作戦部隊は退却を開始した。
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