第38話 変化
門。とその渦は呼ばれるようになった。
確かに異世界らしき場所から、大量に魔物を吐き続けるのだから、門と言ってもいいのかもしれない。
新宿を中心とした複数の門のうちいくつかは、ある程度の魔物を吐き出して消滅した。
しかしわずかながら、この世界に固定されたような門は、地面にその礎を築いてしまったようであった。
散発的ではあるが、魔物を吐き出し続ける。このような事態に、日本は非常事態宣言を出した。
救われないのは、非常事態宣言を出したのは、地球上のほぼ全ての国家だったことである。
日本の場合はまず、人口密集地である都会を守るべく、自衛隊が配置された。
そして農村部などの住民は、ほぼ自主的に避難を始めた。
正直この段階では、人的被害は数万人に留まっていた。
そう、後のことを思えば、この被害はあまりにも少なかった。
月氏十三家の戦力は、その機動力をもって、遊撃部隊として運用されることが多かった。また、ハンターも同じである。
兵站の負担の少ない、各個の能力に依存した戦力は、この事態の中では非常に有効であった。
しかしながらこの状況がまずいものであるとは、ある程度の知恵が働く者であれば、すぐに気が付いた。
これは、全国に無差別テロリストがいるのと同じことだ。
幸いテロリストと違って魔物は一見して区別がつくので、それに対処することは簡単であった。
しかし国内の治安が、ほぼ崩壊しているという認識は、政権内では共有されていた。
臨時国会ではこの事態に対する存在しない責任を野党が追及しようとしたが、すぐにそんな余裕はないと、多くの人々は理解した。
世界が、変わってしまったのだ。
日本政府は迅速で果断な政策を取ったと言える。野党の追及などというものは、そもそも問題にされなかった。
古今東西の政府がまず、国家として一番重要視すべきは、治安の維持である。国防もそれに含まれる。
民主主義だの共産主義だの軍国主義だのは、その現実の前には机上の空論に過ぎない。
そして第二が、食料の確保である。
国民を飢えさせる政府に、存在する意義はない。歴史上の多くの国家の破綻は、国民の飢えによる反乱、そしてそれによる治安の崩壊が原因となっている。
第三はインフラの整備と言われるが、これは第一と第二の条件をより高い水準で維持するために必要なので、差し当たっては後回しにされる。
実際、魔物が襲ってくる中で電気やガス、交通網のインフラをどうにかするのは不可能であるし、それが可能ならば優先すべき治安の良化に労力を回すべきである。
そもそも日本国内だけでも、通信が途絶した地域が多かった。
首都機能を確保するために、千葉と神奈川を含めた首都圏には多くの防衛力が割かれたが、それ以外は関東圏でも電気などの供給は後回しにされた。
さすがに水道だけは人間の生存に直接関わるだけに、各自治体が交渉出来る戦力、つまるところは警察が、その維持に力を注いだが。
「なるほど、現代文明は敵対生物が僅少であること、自然災害の影響が少ないことを前提に、成立しているわけか」
近世寄りの中世世界を知る悠斗は、そう言って呑気に食事をしていた。
その食事をするにしても、電気やガスの使用量が制限した状況では、なかなかに難しいものであったのだが。
「なんであんたは、そんなに冷静なのよ……」
春希の溜め息は、彼女にしては珍しく、心底重いものであった。
この世界に迷宮が出現した時、世界は大きなパラダイムシフトを迎えた。
それは迷宮から輩出される魔物により、都市部以外の危険性が高まり、人口の過密が極端に進んだことである。
だが迷宮の性質が知れるにつれ、迷宮を隔離することによって、安全は回復した。
迷宮の出現が、一度に大量ではなかったことにもよる。
しかし今回の門の出現は、世界が現状で対処できる範囲を超えていた。
よくあるライトノベルに、地球人が異世界に行って、現代知識で活躍するというものがある。
あれが不可能であるとは、悠斗はよく知っている。おそらくは雅香もだ。
不可能というのは正確ではない。短期間で成功するのが不可能なのだ。
事実雅香は、かなりの長い年月をかけて、魔族の集団を前近代レベルにまで底上げした。
あの世界においては、魔族の方が地球に近い文明レベルを持っていたのである。
悠斗があちらの世界に行って、まず進言したのは、銃の開発であった。
結論としては自分が神剣を使って戦うのが、よほど効率的だと考えた悠斗であるが、最初は知識チートを行おうとしたのである。
銃という武器は、きわめて画期的なものである。
西洋においてはフス戦争。日本においては戦国時代。この兵器によって戦場は変わった。
平凡な少年であった悠斗でも、その程度の知識はあった。勇者として召喚された彼の言葉に、各国の王は耳を傾けたものである。
しかし、結果的には戦況を覆すことは出来なかった。
銃を作成し量産するには、異世界の技術力が低かったのである。
銃は子供が達人を殺せる、極めて強力な武器ではある。
信長の兵が銭雇いの弱兵であっても、勢力を拡大できたのには、間違いなくこの武器の力が大きい。
しかし異世界の技術では、銃を作ることが効率的ではなかったし、それよりはクロスボウや魔法の方が、まだしも使いやすかったのだ。
そして火薬と弾丸の問題があった。
クロスボウと違い銃は、補給がたくさん必要な、金持ちが用意する武器であったのだ。
結局悠斗が行った異世界での内政チートで間違いなく役に立ったのは、食料の増産である。
食料の増加。これは単純に言って、兵士を増やすことが出来る。
また武器を作る人間、鉱石を採掘する人間、とにかく仕事が出来る人間が増えるということであり、栄養失調からくる死亡者を減らすことも出来た。
国力とは人口。それは前近代レベルまでは、ほぼ正確な認識である。
後に雅香に確認したところ、彼女は大筋で同意していた。
勢力を増すために必要なのは、まず食料である。そしてその食料を、安全に生産できる状況である。
次に行ったのが資源の確保。鉄鉱石という単純な物から、薪、肥料、木材などである。
ある程度勢力が拡大されてようやく、基礎技術の向上に入った。
そもそもあちらの世界の技術力では、精密なネジが作れない。すると銃も作れないのだ。
もっとも彼女が兵力としたのは魔族であったので、武器の改良は比較的後回しになったが。
こちらの世界で雅香と会った時、悠斗は前世での話ももちろんした。
それに対して雅香が挙げた例は、まさに織田信長であった。
彼は比較的食料が多く生産される尾張という国を持ち、その国には港があり、財力をもって高度な技術の産物である鉄砲と、火薬と弾丸を手に入れることに成功した。
その後は、歴史を見れば分かる。
農業生産力が高く、交通の要衝である美濃を獲得。
やはり農業生産力が高い近江に侵攻。政治中枢である京と、経済的中枢である堺を手に入れた。
更に言えば近江の国友村は、鉄砲の生産地でもあった。
「いや、たぶん勇者より魔王の方が、大変だったと思うぞ」
かつて気楽そうに、雅香は言ったものだ。
「勇者は基本的に戦えばいいわけだが、魔王はつまり社長みたいなものだ。しかも新しく、経験の多い社員が少ない会社だ」
聞くだに面倒そうではあるが、彼女の声音は楽しそうなものだった。
「まず最低限腕っ節が必要だった。吸血鬼や人狼、ダークエルフなどの有力な部族を従えるのには、力でねじ伏せるのが一番効率的なんだ」
そうやって勢力を拡大するわけであるが、自分一代で魔王軍が崩壊しては意味がない。
強い者が偉いという魔族の価値観に、法律を定着させるのには随分と苦労したらしい。
組織や官僚といったものを、概念から教えていくのだ。
魔族の中でも知能の高い者は、ある程度これが出来ていたが、下手に身体能力が高いだけに、文明レベルが低い種族が多かった。
まず組織を組み上げ、魔王を頂点とした構造にし、食糧生産の増加と安定を目標とした。
その後は魔族の中でも技術に優れた種族を、集団で雇って基礎技術の向上を行った。彼らの製品により生活の質が向上した魔族は、少しずつその価値観を変えていった。
魔族の領土はそれまで人間の手が入っていないため、資源の確保という点では苦労しなかった。
もっとも採掘技術の向上などでは、やはり難しい面もあったのだが。
その後の雅香の苦労譚を思い出しながらも、悠斗は魔法学校の臨時宿泊所で、寝転がりながら魔力の回復を待っていた。
現在のところ首都機能を維持するため、月氏十三家の戦力の多くが、東京に集まっている。
名古屋にでも首都機能を移設出来ないものかという意見もあったらしいが、計画段階で頓挫したそうだ。
現状把握している限りでは、東北地方と中国地方が、かなり魔物の被害が大きいらしい。
北海道はむしろ安全で、これは自衛隊の手柄によるものと、農家がある程度自衛力を持っていたからだろう。加えて門の数も少ないらしい。
日本最大の農業生産を誇る北海道が無事であるのは、今後のことを考えると喜ばしいことだ。
海凄の魔物の出現は確認されてないので、海路による輸送は重要になってくるだろう。ただ鉄道の確実性が失われたのは痛い。
しかし通信が断絶しているとは言え、門が開いてから一ヶ月は経過している。
日本だけでも数百万、世界規模では数億の人命が既に失われたであろう。
そう考えた悠斗であるが、胸は全く痛まなかった。
これは、あちらの世界での現実だ。そう考えれば、それほど危機感は抱かない。
紛争地帯の人々もそうなのかと言うと、それは違う。
地球での紛争は、相手が人間である。殺す必要がなければ殺そうとはしてこない。
しかし魔物は別だ。あいつらは人間を見れば食料として認識する。
野生の普通の獣とは、そこが違うところである。魔物には人間に対する、根本的な敵意があるのだ。
自衛のために人々は少しでも戦力が多い街へと集まっていくが、それは農村部が放棄されるということでもある。
最も重要な食料が、足りなくなる。そうなれば食料の奪い合いか。
(そんな事態に陥る前に、どうにかこうにか生きている人間は死ぬ、か)
あちらの世界の常識が、悠斗の中で甦りつつあった。
常に機械で生命を維持しなければいけない病人は、わずか数日で全てが死に絶えた。
肉体に障害がある者や、薬や透析の必要がある者も、すぐに死に絶えた。
善悪の問題ではなく、倫理の問題ではなく、単に社会が、弱者を生かす余裕を失ったからである。
(次に死ぬのは老人か赤ん坊か……。医療行為も限界があるからな。元気な爺さん婆さんはともかく、それ以外は見捨てるしかないな)
悠斗の認識は非情であり、現実的であった。
社会的弱者が死ぬのは、悠斗にとってはどうでもいい。
それが身内であれば、当然ながら守るが。
自分に関係なければ、それはもう仕方がない。割り切らなければ、殺し合いには勝てなかった。
しかし逆を言えば、身内を守るためには、ある程度の協力をしてもいいということだ。
(月氏十三家はともかく、日本政府は思い切れないだろうなあ。これが軍隊のある国なら、軍部がクーデターを起こして、現実に目を向けるかもしれないが)
自衛隊の持つ文民統制の意識は、恐ろしく強いだろうと予測出来る。
いや、だからこそ弾ける時には、大胆な行動に出るかもしれないが。
しかし十三家という多系統の武力がある限り、自衛隊が暴走する可能性は低いだろう。
(十三家主導なら、クーデターも上手くいくか?)
月氏十三家は、その権威を天皇に置いている。
事実上はどうであれ、名目的にはそうだ。だからそうそう無茶な選択は取らないだろうが。
とにかく現状がどうであるのか、状況を確かめるぐらいはどうにかしなければいけない。
あるいはこれこそが、雅香の言っていた逆説的な機会になるのかもしれないが。
悠斗は魔王を倒せば全て変わると思っていた、過去の自分を羨ましく思っていた。
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