第49話 おおかみ7
終わった。
踊っていた文字が止まり、ノートの束がヒラヒラと落ちてくる。屈んで拾い集め、折りたたんでポケットの中へねじ込む。
馬鹿なことをした。運が悪ければ、弟さえ死んでしまうところだった。
でも、全員生きている。実の母でさえも。
私は人殺しじゃなかった。
目から涙が溢れそうになってこらえる。人のための涙じゃない。自分本位の涙だ。
いなくなれ、食べられてしまえ、と一瞬でも願った汚い自分が変わるわけじゃない。強く瞬きすれば落ちそうになるのを抑える。
錆びだらけの倉庫へと走り、外から入れそうな隙間から中へと入った。昼なのに窓が少ないためか薄暗い。
「はあ。本当に殺すかと思った」
弟が全力疾走した後のように、ぜえぜえと息をついていた。
喋っている。立って、動いている。当たり前のことに、胸があたたかくなる。
「法に触れるようなことはしないよ、流石に」
都道は男に手錠をかけた。男はというと白目をむいて倒れている。
「姉さん?! どうしてここに」
弟と目が合う。
たまらなくなって、懐に飛び込むように駆けこんだ。
抱きつこうとした腕が弟に阻まれる。
「魚臭い、魚臭いから、それ以上は近づかないで姉さん」
お互いに手を握り合い、グググッと力が入る。
「何だい、君ら。手押し相撲でもやっているのかい?」
都道がニヤニヤ笑う。
外から見れば、そう見えるかもしれない。
弟が首だけ後ろを向き、都道を見た。
「都道、お前な。姉さんに場所を教えたろ。危険とわかっているのに何を考えているんだ?」
弟の言葉に都道は肩をすくめた。
「感動の再会を演出したっていいだろ?」
都道は私が来ることを知らなかった。嘘をついている。
「よく言うよ」
弟はため息をついて、こちらを向く。
「姉さん、都道の言うことを聞いたら駄目だからな。ろくなことにならない」
違う。
本当のことを言わなきゃ。
本当のこと……
「ひどい言いようだなあ、本間君」
と都道の笑い声が続いていたが、それがはたと止む。
「その……」
胸の内は言葉が激流のごとく荒れているのに、出てこない。代わりに抑えていたはずの涙が落ちていっていた。
手の力が緩む。
弟が私の目線まで屈んだ。
「心配させてごめん」
私の手の甲をぽんぽんと叩く。優しさに更に涙がこぼれてしまう。
不明瞭な視界の先で、弟がおろおろと目線をさまよわせるのが見えた。
「あの姉さん、お詫びと言っちゃあなんだけど、パンケーキを食べに行こうか」
「パンケーキ……」
弟はのんきだ。何も伝えてないからだって、わかってはいる。私にはない明るいのんきさが好きだ。思考方向を変えてくれる。
でも、実はそんな弟が時折憎い。
愛されて育ったような人間が憎い。羨ましい。
人が好きで人は愛情をくれるものと当然のように思っているその態度が嫌い。ゴールデンレトリバーのように見えてくる。
「ええっと。パンケーキは嫌い? ああ、その、そういうことじゃないよな」
弟に手渡されたティッシュを目元に押しあて、鼻を拭く。すぐにぐちゃぐちゃになって、新しいのを取る。
「ねえ」
不格好なだみ声が私の口から出た。
「うん」
「人に辛いと言って、否定されたらどう思う?」
弟は手を離して、膝を伸ばした。ぽつりと言う。
「仕方ないかな」
「えっ?」
「本当に辛いことは、直接聞くだけでこう生きる力を削るものだから。相手が身に受けたくなくて反発して否定するのは、仕方ないかな。身を守るためだからね」
弟が再度、屈む。
「姉さん、どうしたの? 辛いことがあったなら聞くよ。否定はしない」
駄目だ。
生きている世界が違う。同じものを見てても、見えているものが違う。絶望的にそう感じる。
過去のことを言っても、絶対に理解されない。理解できるだなんて、表面上でも言われたくない。
弟のことをかわいいと愛しいと優しくしたいと思っている。けど、同時に憎くて嫌いで傷つけたくなる。
私は最低で最悪な人間だ。いない方がいい。
もう弟は小さくはないけれど、きっとまた傷つける。自分にないものを当たり前のように持っている人を、引きずり下ろしたくなる。
醜悪で汚い本音に吐き気がする。なのに出てくるのは涙ばかりで。
―ずっとそばにいて欲しい。
「あのね。本当は、私は姉さんじゃないの。続と血縁関係ないの」
弟は驚いたように口を開いたが、すぐさま私の手をギュッと握ってきた。真っ直ぐに目を見てくる。
「俺は血の繋がりがなくとも、唯一の姉だと思っている」
「私が嫌っ」
弟は膝から崩れ落ちた。
「出しゃばったことを言いました。誠に申し訳ございません。俺は通りすがりの赤の他人のおっさんです」
「そう、赤の他人」
遠い親戚だから、ほぼ赤の他人で間違いない。
「赤の他人……」
すぐに好意を伝えても戸惑うか否定されるに決まっている。今は本当の姉弟でないことを知ってもらうだけで。
少し離れたところで、なぜか都道が腹を抱えて笑っていた。
と、電話が鳴る。
都道が出ると大音量が飛び出してきた。
『先輩、どこですか?!』
都道は携帯を耳から離してぶらんぶらんさせる。
「倉島。誘拐犯は逮捕して、一件落着だ」
『一件落着だ、じゃないですよ! 何してるんですか!』
都道はマイク部分を押さえると、弟の方を向いた。
「本間君。大学のグループチャットで今日は飲み会らしいが、もう飲み会という気分じゃないだろ」
「ああ。俺の心のHPはゼロだ。クラゲになりたい」
膝立ちのままの状態で項垂れながら弟は言った。
死ぬかもしれない恐い目にあったのだから、かわいそうに。
私が泣いている場合じゃない。
ぐずつきながら、頭を撫でると「姉さ、ちが、通りすがりの赤の他人の女子高生が優しい」と小声で聞こえてくる。
良かった。少しは優しくできている。
『先輩! 聞いてます? 先輩?!』
「倉島。合コンに興味ある?」
都道がニヤリと笑って言った。
『あります!!』
一番の大きな声が響いた。
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