第183話 惨事1
グリーンスクールを丸ごと覆っていた白き大蓋に、ぴしぴしとヒビが入る。
間もなくあちこちが剥がれ、破片が飛び散っていく。中から漏れ出ているのは、熱風だった。
「ちょっと! まずいんじゃないの!?」
娘のヤンデが狼狽えている。根は悪くない子だ。民を心配してくれている。
それは何よりだが、もう少し王女として泰然と構えてほしいものだ。
「ヤンデ。どこへ行くのですか?」
「……負傷者を集めて回復させるのよ」
しかし行動は迅速で、サリアは全力に近いスピードで腕を掴まねばならなかった。
レベル62の防御力ではぺしゃんこになる威力でもあるが、杞憂である。サリアの手のひらは人肌ではなく空気の感触を捉えている。
けたたましい音を立てて白いドームが崩壊していく中、振動交流で娘を戒めることにした。
「いけません。我ら王族の命は何よりも重いのです」
第一級に勝てるのは第一級だけだ。逆を言えば、最も強い手札を失った時点で敗北が確定してしまう。
シッコクとグレンは第一級冒険者と見ていいだろう。
どこに潜んでいるのかわからないし、いつ攻めてくるとも限らない。この崩壊だって彼らが引き起こした行動なのかもしれなかった。
軽率な行動を取れば、隙を突かれて絶命しかねないのだ。
「私は大丈夫だから離して頂戴。一刻を争うわ」
「連れて行きなさい」
母親から同伴を請われるとは思わなかったのだろう。ヤンデは「情けないわね」当惑を嘆息で隠しつつも、落ち着きを取り戻す。
サリアが改めてヤンデの腕を掴んだ途端、急加速が始まった。
「負傷者を一箇所に集めるわ」
「回復はどうするの?」
「動ける人に振動交流で命令する。
「エルフなら誰でも知っているから問題ありません。貴方もエルフとして、これからたくさんお勉強してもらうからそのつもりでね」
「今話すことじゃないでしょ」
サリアでさえ御せないであろうスピードが出ている。先ほどまで戦っていたであろう戦士達は、気付くことすらできていない。
ヤンデは絶命したエルフは無視して、回復する望みのある者だけを的確に拾っては運んでいた。
加減も見事なもので、衝撃波はおろか、そよ風さえも起こしていないし、
「ベリーを集めるだけ集めなさい」
「使えそうな足場には岩を置いているわ」
「他の人にも伝えて」
無論、ろくに視認されない中で指示を飛ばしても信用されないわけだが、そのために王族は
先日教えたばかりだというのに、もう使いこなしている。サリアでも習得には数週間を要したことを考えれば、驚異的な要領と言えた。
「伝達指示は余計ですよ。王族命令の現場共有は
「知らないわよそんなこと」
「教育が必要ね」
「……」
ヤンデの手つきが微妙に乱れるのを見て、サリアはふふっと相好を崩す。
身体の切断を含めた、痛みに慣れるための訓練は中々に堪える。「うるさい」などと言い捨てるヤンデは、今のところ中身だけは年相応の女の子だった。
「それにしても、一体何が起きたのでしょうね」
「……知らないわよ」
漏れてきた熱風が甚大なパワーの拡散を物語っている。それこそ、規格外であるはずの娘でさえ狼狽するほどの。
そうでなくとも深森林の豊かな緑葉は禿げているし、穏やかな川も濁流と化して波打っている。ドームがなければ、竜人が来てもおかしくはない規模と言えた。
「完了したわ」
ヤンデは高度三、四百メートルといったあたりで急停止して、
民に緊張を与えないためでもあり、まだ姿を見せぬ大罪人に備えてのこともある。悪くない位置取りだった。
眼下、いくつかの
総数は千に近い。ヤンデはものの数分でこの規模の救急を整えたのだ。
「威嚇しすぎじゃないかしら」
「何が?」
「こんな芸当を見せられたら、戦う気も失せます」
「別に見せつけたつもりはないのだけれど」
ヤンデは成り行きが心配らしく、救急の光景を見下ろしている。
既にベリー調達隊は十分な量を集めたようだ。調理加工や提供も始まりつつあった。
「お友達もご無事のようですね」
無事と言えば、留学生三人の姿も見える。
治療部隊に負けず劣らない動きっぷりだ。人間の特権たる回復魔法の
ともかく、無事で何よりだった。
もし何かあれば、隣国の上裸男がうるさかったに違いない。
「ジーサがいないわ」
「……あの人なら大丈夫でしょう」
「そういえばお母様。なぜジーサの心配はしなかったのかしら?」
「必要がないからです。貴方が愛する相手は、そんなにやわなのですか?」
娘に照れ隠しは無かったが、心配、というよりも不審の色は見えている。この状況下で姿も見せず、一体何をしているのかといったところか。
――まずは俺の話を聞いて下さい。いや、聞け。
先日の唐突な会談は記憶に新しい。
何をどうしたのかは知らないが、ジーサ・ツシタ・イーゼは皇帝ブーガを利用し、獣人の頭領ギガホーンからも気に入られている。
そんな『133の壁』を超えた怪物を動かせる要素は一つしかない。
それほどの実力者なのだ。
なら、無事に決まっている。
もう一度、娘の横顔を見る。
表情こそ乏しいが、恋する乙女のそれを隠しきれていない。
一方で、ジーサ・ツシタ・イーゼにその気がないことくらいはわかる。
なりゆきに身を任せるほど怠惰にも見えない。少なくとも領土問題に目をつけ、抜本的に解決してみせるほどの器量を持っている。
善人でないのは間違いない。しかし、悪人でもない。あるいはたかが知れている。
なら御せる余地はある。
現に
「遅れてはいられませんね――」
「来るわよ」
「わかっています」
きりの良いところで、サリアもそれを感知した。
片手で顔を
瞬間、サリアの手のひらに今日一番の速度で拳が刺さってきた。
ヤンデはとうに離れている。救急会場を丸ごと守るつもりらしく、早速発生した衝撃波も漏れなく防いだようだ。
「守ってもらわなくて良いでやんすか?」
「私が直々に処刑します」
「女王に攻めてもらえるでやんすか? 気持ちよさそうでやんす!」
大罪人が一人、シッコク・コクシビョウが至近距離で醜悪な笑みを浮かべた。
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