第75話
何と、左肩にナイフを突き立てられ、そこにオスカーの指がねじ込まれたのだ。記憶探査をかけるためだと気が付いたのはその直ぐ後だ。神経を焼き切るような痛みが襲いかかるも、アロイスは悲鳴を飲み込んだ。いつものように。
アロイスはこれが癖になっていた。
あれを喜ばせるのはしゃくに障る。ノエル皇子は人をいたぶることに無類の喜びを覚えるサディストだ。何かと理由を付けては、打ち据えられる。だが、拷問されてもアロイスは呻き声一つ漏らしたことはない。ノエル皇子の嗜虐心を煽るだけだと分かっていても、浮かべるのは常に冷笑だった。
そうとも。あざ笑ってやる。ノエル皇子の姿が思い浮かび、アロイスは無理矢理口角を上げた。お前の所業など所詮こんなものだと、見下してやるとも! お前は残忍なだけの無能者だと思い知るがいい!
アロイスが目にした幻は、真っ黒な幻獣だった。
影のようなそれが自分に襲いかかり、精神世界の血肉を食いちぎる。生きながら獣に食われるようなその感覚は、幻覚だと分かっていても、痛みは現実と寸分違わない。いやそれ以上かもしれなかった。なにせ肉体という枷がない世界は、痛みに際限が無い。
アロイスは歯を食いしばった。
魔力で障壁を作っても黒い幻獣の牙は、それごとアロイスの精神を食いちぎる。オスカーの宣言通り、黒い幻獣の牙はアロイスの防御をものともしない。
普通なら意識を保っていられないであろう激痛に、アロイスは耐え続けた。意識が遠のくたびに、意識を失うまいと自分を叱咤する。意識を失えば、それこそいいように記憶を引き出されるだけだ。二度と目を覚ますことはあるまい。
精神世界での力のぶつかり合いが肉体にまで作用し、皮膚が裂け、血が噴き出した。アロイスは口内にたまった血を吐き出し、地下牢の床が鮮血で赤く染まる。
隠せ、隠せ、隠すんだ……アロイスは必死で抵抗した。
抵抗すればするほど痛みは増すと分かってはいたが、止めるわけにはいかない。最も重要な記憶を、秘石の隠し場所の記憶を意識の最下層へと沈める。これを取られたら終わりだ。おそらく待っているのは凄惨な死だけだろう。
汗がしたたり落ち、肉体が精神が悲鳴を上げる。ノエル皇子の拷問よりはるかにきついと自覚したのはいつだったか……。
――お兄様!
妹のアイリスの記憶が浮上し、それと同時にふっと痛みが消える。体から力が抜け、どうっと倒れた。もうろうとした意識の中、見えるものに焦点を合わせれば、例の黒い幻獣の姿が王太子の姿へと変わった。
「……復讐の為?」
オスカーのその一言で、アロイスの意識が一気に覚醒する。王太子の手が赤く染まっているのは、自分の肩から指を引き抜いた為か。
アロイスは舌打ちを漏らした。記憶をかなり持って行かれたようだと理解する。最大限抵抗したにもかかわらず、これか……。分かってはいたが、稀代の魔術師としての名は、やはり伊達ではないらしい。全くもって忌々しい奴だとそう思う。
アロイスは不鮮明な意識を頭を振って追い払った。
ジスランが怪訝そうに言う。
「復讐って何のこと?」
落ちた沈黙の中で、
「彼の妹は殺されたの?」
オスカーがそう問うた。ジスランはオスカーの問いに困惑する。
「もしかして、アイリスの事? 違うよ。彼女は病死だ。誰がそんな……」
「殺されたんだ、この無能!」
アロイスが叫び、ジスランは再び困惑する。
「どういう……」
「毒殺だ! お前も散々同じように毒を盛られたくせに今更何を言う!」
ジスランが目を剥いた。
「そんな! 毒の反応は出なかった!」
ジスランが反論すれば、アロイスの怒気が強まった。
彼の瞳の奥に爛々と輝く憎しみの炎が燃え広がる。
「魔法薬だからな。気付いたのは私だけだ! この阿呆が!」
「魔法薬……」
「どいつもこいつも反吐が出る。無能無能無能の集まりだ。それでいて自尊心と欲は人一倍。いっそのこと皇族そのものを消してやりたい!」
「なら、なんで皇妃に従っているの!」
ジスランの叫びに、アロイスが忌々しげに睨み付ける。
「そこの王太子が言っただろう! 復讐だ! 絶対に見つけ出して、妹を手にかけたことを後悔させてやる! そのためなら何だってやってやるとも! その為にはあの皇妃の記憶が必要なんだ! あの掃き溜め女の記憶がな!」
狂気じみた笑いだ。仮面を剥いだ素顔とも言える。
「ビーの魂を盗んだのは、皇妃に命令されたから?」
オスカーがそう問えば、
「……そうだ。あの無能め。ここではまずいと何度も進言したのに、聞く耳を持たん。その上、あの無能皇子が王太子妃を襲うとまで言い出して……くそっ!」
アロイスはそう吐き捨てた。
ジスランが驚愕する。
「もしかして、今回計画を強行したのは、王太子妃を襲わせないため?」
「……自分の身を守っただけだ」
ジスランが眉をひそめた。
「保身ってこと?」
「……あの皇子に好き勝手に動かれてみろ、言い訳のしようも無い。確実に処刑される。だから先に動いたまでだ」
「でも君はこうして捕まってる」
「ふん、承知の上だ。あの馬鹿げた計画では、どうやったって捕まる。脱出は不可能だ。ウィスティリアの王城に幾重にも張り巡らされた魔術防御を見てみろ! あの無能どもめ! ここを出る唯一の方法が、ウィスティリア側に譲歩させることだ! 皇族という身分を明かせば、手を出しにくくなる。譲歩せざるを得ないと、そう計算した! それをここまで無視するとはな。は、恐れ入る。ルドラスの皇族を何の証拠もなく逮捕連行したあげく、拷問まがいの取り調べまでやってのけるとは。その結果、何も出てこなければ、どうするつもりだったのやら」
「あー、オスカーね。彼を見た目通りにとらえない方が良いよ? なにせこの僕とやりあって勝ってるんだから」
「お前も無能だ」
「そう? 生き残ってるよ?」
「運が良かっただけだな」
「それだけかな?」
「一度助けてやったろう? この阿呆」
「え?」
「お前に今死なれては困る。わざと情報を流した。ま、あれをきちんと拾ったのだから、多少は使えるな」
「あー、あれ、君だったのか。どうりで……」
思い当たる節があったらしく、ジスランは苦笑い。
オスカーがアロイスを見下ろした。
「最終忠告だよ。ビーの魂を返して。じゃないと次は死ぬから。秘石の記憶を意識の最下層に隠してあるんでしょう? 抵抗しても無駄だよ。僕の力はそこもこじ開ける」
アロイスは答えない。
オスカーが再度言う。
「……取引ってのはどう?」
「取引?」
「君の妹の仇が誰か、こっちで特定するってのは?」
「は、お前が?」
「もう既に大体の当たりは付けているんじゃない? その続きをしてあげる。うちの間者は優秀だよ? この先一人で奮闘するよりずっと早く見つかるかもね?」
沈黙が落ち、
「その情報が正確なら取引に応じてやる」
アロイスがそう答えた。
「先にビーの魂を返して欲しいんだけど。このままだと、僕は間違いなく君の精神を食い破るよ。自分を止められそうにないんだ。でも、同情する余地はあるからやりたくない。取引に応じる? 応じない?」
無言のままのアロイスを見下ろし、
「ね……もしも、君に翼があったままだったら、どうなっていたかな?」
オスカーがそう呟く。
「くだらん。そんな事を考えてどうなる」
「さあね。ただ、違う未来があったかなって」
オスカーが先を続けた。
「もしも翼がそのままであれば、君にも継承権があったんでしょう?」
「……あればな。だが、失ったものは戻らない」
「例えばの話だよ。そして、そう、もしも君の妹が生きていたなら、どうなっていたんだろうね? 何一つ欠けることなくそこにあったとしたら、どうだったろう? 君は頭は良いし力もある。そしてなにより情が深い。妹思いだものね? もしかしたら、そう、賢王にでもなっていたかもしれない。そんなありえなかった未来を考えてもしょうがないのかもしれないけれど……でも、やっぱり人生って不公平だよね。僅かな差で未来が大きく変わる」
「何が言いたい?」
「僕が君になっていたかもって、そう思った」
流石に驚いたようで、アロイスは目を見張った。オスカーの顔を見上げ、真っ向からその視線を受け止める。彼のその眼差しはどこまでも深い。
「僕もビーを失ったら何をしでかすか分からない。復讐に走って、何をするだろうね? 自分自身でも分からない狂気に走りそう。それくらい正と邪の境って危うい。人間って本当、僅かなきっかけで道を踏み外すのかも」
オスカーが再び膝を突く。アロイスと彼の視線が交差した。
「ね、ビーを返してくれない? 僕は君を殺したくない。生きて復讐すればいい」
藍色の瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。
落ちた沈黙はどれくらいだったか。
「……約束は守れよ? でないと命を使った呪いをかける」
アロイスが呻くようにそう言った。
「肝に銘じるよ」
オスカーが笑う。
秘石は意外なところにあった。アロイスが飲み込んでいたのだ。アロイスの体は魔術探査を弾く。どうりで見つからないはずである。
「ありがとう」
例の秘石のはまった黒い指輪を、大事そうにオスカーは両手に包み込む。
「礼を言われる筋合いはない」
アロイスがそう返す。
「ビーを守ってくれたでしょう?」
「……自分の身を守っただけだ」
「そういうことにしておくよ」
オスカーは立ち去りかけ、ふっと振り返る。
「ね、似ているかな?」
オスカーの問いに、アロイスが怪訝そうに眉をひそめた。
「君の妹のアイリスと。君の記憶を覗いた時、雰囲気がビーと少し似ているって思ったんだけど、どう?」
彼はそっぽを向き、
「……妹の方が美人だ」
「まぁ、そういうことにしておくよ」
オスカーはそう答えてくすくすと笑い、立ち去った。
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