第66話

 歩く姿は堂々としているけれど、ノエル皇子の側近達はジスラン殿下の姿を見て、やっぱり含み笑いを漏らす。目配せをし合って、囁き合う。かなり失礼な態度だ。ディラーノさんだけは、どうやら違うみたいだけれど……。どうしてだろう? 彼だけ何だか毛色が違うみたい。申し訳なさそうに身を縮めている感じだ。

 ――まさに宮廷内はどろっどろ。

 オスカーの言葉を思い出す。いつもこんな感じってこと?

 ノエル皇子が愛想良く両手を広げた。

「やあ、兄上。兄上も来ていらしたんですね、驚きです」

 一見、歓迎しているように見えるけれど、

「どうしました? 夜会は苦手でしょう? その醜い体では、足がもつれてダンスもままならない。みっともない風体をさらさないよう、いつものように壁のシミにでもなっていたら如何ですか? ほら、好きなだけ食べて飲んで、ゆっくりするといい」

 微笑みながらも、やっぱり言うことが辛辣だ。なのにジスラン殿下はそれを意に介する風もなく、いつものように柔らかく笑ってみせた。

「ははは、是非そうさせてもらうよ。時に……君のお相手はどうしたの? 麗しのリリアナは? 一緒に来ているとばかり思っていたのに」

 ジスラン殿下のその言葉に、ノエル皇子の表情が曇った。ふんっと不機嫌そうに鼻を鳴らし、そっぽを向く。

「ああ、あの女なら、気分が悪いってさ。代わりにシエラを連れてきましたよ」

 そう言って、肩をすくめてみせる。ジスラン殿下の微笑みは相変わらずで、

「ああ、そうなの。それならしょうが無いね。シエラ嬢。ノエル皇子を頼みましたよ? くれぐれも粗相がないように」

 傍らに立つ女性に向かってそう言った。シエラ嬢が微笑み、頷いてみせる。

「ええ、もちろんですわ、皇太子殿下。お任せ下さい」

 ドレスの裾を持ち上げ、綺麗な淑女の礼をする。次いで、控えめながらも、やや興奮気味に身を乗り出した。

「それにしても、驚きましたわ。ジスラン殿下もご覧になりましたか? こちらの王太子様は、とても、とてもお美しい方だったんですのね? ああ、本当にわたくしったら、緊張してしまって、上手にご挨拶出来たかどうか分かりませんわ。真実、神に愛された方とは、きっと、ああいった方をいうのでしょうね。輝く翼の代わりに、たぐいまれなる美貌をお与えになった。ノエル皇子もお美しいですけれど、それ以上に……」

 シエラ嬢は最後まで言うことが出来ず、傍にあったテーブルをひっくり返しつつ、背中から倒れ込んだ。ノエル皇子が勢いよく彼女の頬を叩いたからだ。いや、拳の甲で殴ったと言うべきだろう、テーブルの上に並べられていたグラスが割れ、貴婦人達の悲鳴が上がり、周囲がしんっと静まりかえる。

 予想外の光景を目にして、私は度肝を抜かれてしまった。何、何が起こったの? 私が状況を理解出来ずにいると、

「さっさとその女を連れて行け!」

 静まりかえった会場内で、ノエル皇子の怒声が響く。

「は!」

 ノエル皇子の命令で、手慣れた仕草で側近の一人が彼女を連れて行った。私は呆然とその光景を見送り、

「あーあ……だから粗相のないようにって言ったのにねぇ」

 そんなジスラン皇太子殿下の声を聞き取った。彼の方に目を向ければ、やれやれと言いたげな表情だ。

 どういう、ことだろう? ジスラン殿下は、まるでシエラ嬢の行動を予想していたかのよう。ノエル皇子の反応もまた……。ジスラン殿下に動揺はまるで見られない。こんな事など日常茶飯事だと言わんばかりに平然としている。

「兄上、見苦しいところをお見せして申し訳ありません。シエラもまたリリアナと同じく礼儀知らずな女だったようです」

 そう言って、ノエル皇子が形ばかり謝った。

「ははは、それはしょうがないね。君の気に障ることを言うのが悪い」

 ジスラン殿下が朗らかに笑う。

「ええ、もちろんですとも、兄上」

 ノエル皇子もまたにっこりと笑う。天使のような微笑みだけど薄ら寒くて、体が震えてしまう。

 何だろう、怖い、この人……。ううん、それだけじゃない。申し訳ないけれど、ジスラン殿下の反応も怖かった。ノエル皇子の暴行を日頃から目にして慣れている、そんな感じがして……。ディラーノさんも日常的に暴力を振るわれているみたいだったし、まさか……。自分の想像にさらに恐怖心が煽られてしまう。

「しかし、参りましたねぇ」

 ノエル皇子のその言葉に、私はびくりと身をすくめた。何だろう? こっちを見ている?

「パートナーがいなくなってしまいました。では、そう……ここは一つ、王太子妃殿下、あなたが僕の相手をして下さいませんか? せっかくですからこの僕と踊って下さい」

 ノエル皇子がそう言って、私に向かって恭しく手を差し出した。

 背筋が凍り付く。見た目だけは素敵な皇子様だ。輝く皇子との渾名の通り、だれもが一度は夢見る姿がそこにある。

 けれど、私は極度の緊張から動けなかった。優美だけれど、美しいけれど、ノエル皇子の冷たい眼差しと、たった今目にした暴力で、どうしても体が震えてしまう。

 王太子妃なのだから、それに相応しい振る舞いを、そう思っても足が前に出ない。萎縮してしまっている。怖い、怖い、怖い、嫌だ……。

「ノエル皇子、申し訳ありませんが……」

 割って入ってくれたのはオスカーだ。まるで私の心の叫びを聞き取ったかのよう。

「ファーストダンスは、この僕と踊ることになっています。どうかご容赦を」

「では、二曲目のお相手をお願いできますか?」

「それは彼女の体調次第ですね。では、失礼」

 そう答えて、夜会会場から連れ出してくれた。オスカーに連れ出されて、私はようよう呼吸が出来た。知らず知らずのうちに息を止めていたみたい。

「ビー、大丈夫だから、落ち着いて?」

 そう囁かれて泣きそうになってしまった。

「ごめんなさい……」

 何度もそう謝ってしまう。情けなかった。涙で視界がにじむ。王太子妃として相応しい振る舞いだったとは、到底言えない。異国の客人だったのだから、きちんともてなさなければならなかったのに……。

「大丈夫。君にはちょっと刺激が強かったかな?」

 オスカーに抱きしめられて、ようよう体の震えが止まった。

「もしかして、さっきのあれでショックを受けたの?」

 背後から聞こえた声にびくりとなる。そこにいたのは、ジスラン殿下だった。大きなため息をつかれてしまう。呆れられた? そんな雰囲気だ。

「うーん、参ったねぇ。この程度でこれか……。天眼は素晴らしい能力なんだけどなぁ、君、もしかして王太子妃には向いていないんじゃない?」

 そう言われてどきりとなる。向いていない……そうかもしれないと思う自分がどこかにいて、言い返すことが出来ない。唇をきゅっと引き結ぶ。

 ジスラン殿下が言った。

「ね、側室にでもして、大事に囲ったら? 彼女にとってもその方が良いと思うけど?」

 彼のその言葉にも、きゅうっと胸を締め付けられる。

 側室……多分、ジスラン殿下は親切で言ってくれたのだろうけれど、オスカーの妻としては不適格、そう言われたも同然で、鉛を飲み込んだように心が重くなった。

「……残念だけど、僕は彼女以外の妻を持つ気は無いよ」

 オスカーがそう反論する。自分を抱きしめる彼の腕に力がこもって、こんな時なのに泣きそうになってしまう。喜んではいけない、そう思うのに……。

 ジスラン殿下が言う。

「ふうん? 君にしては珍しい判断だね。ここがどういう世界かよく分かっているだろうに。ま、確かにここウィスティリアは平和な国だけどさ。外交の場では彼女、役には立たないんじゃない? むしろ君の足を引っ張りそう」

 オスカーがむっとしたように反論した。

「大きなお世話だよ、ジスラン殿下。僕には彼女が必要なの」

「へえ? 必要、ねえ? 天眼の能力以外でってこと?」

「そう。価値観の相違って奴だよ」

「ふーん? ただ、言っておくけどね、僕だって、彼女みたいな女性が嫌いな訳じゃないよ? けど、危なっかしい。パートナーとしては役不足と、そう言っているだけ。ま、確かに価値観の相違なのかもね。僕だったら彼女みたいな女性は選ばないもの」

「君は強いものね?」

 オスカーがそう言えば、

「君だって強いじゃない」

 ジスラン殿下がそう反論する。

「僕にはビーが必要なの」

「ああ、はいはい、分かったよ、もう何も言わない。たとえそれで君が足をすくわれても、それ、自分のせいだからね?」

「ようくわかってますよ、ジスラン殿下。それを差し引いても僕は彼女が欲しい」

 ジスラン殿下は驚いたようだった。

「……君にそこまで言わせるとは、ねぇ。これは大したもんだ」

 ジスラン殿下に見つめられて、どきりとなる。値踏みするような、探るような、そんな眼差しだ。その厳しい眼差しがふっと和らぎ、

「もしかしたら、そう、僕には見えていない何かがあるのかもね? だったら、そうだ。明日、僕と一緒にお茶でもどう? 君と少し話がしたいな」

「狙っても、あげないからね?」

「ははは、君と事を構える気はないって言ったろ? ちょっと話をするだけだよ。約束する」

 そう言ってジスラン殿下は、マシュマロのような笑顔を浮かべて見せた。


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