第19話 番外編最終話

 その日、青く晴れ渡った空の下、クラリスは念願のお茶会を開いていた。

 白いレースのテーブルクロスが風に揺れ、真向かいの席には、自分の婚約者となったビンセントが腰掛け、微笑みかけてくれている。二人きりのお茶会だ。クラリスは手ずからお茶を入れ、振る舞った。

「ありがとう」

 やはり彼の笑顔は素敵だ。どうしても見惚れてしまう。

 クラリスは未だに彼が自分の婚約者だなんて信じられなかった。

 結婚を約束した恋人に捨てられて、夢も希望もなくしたと、あの時はそう思っていたのに、今度は誰もがうらやむような輝く未来を手に入れて、その落差が激しすぎる。つい、夢ではないかと疑ってしまうほどだ。

「見て下さい、ビンセント殿下、新作ですわ!」

 クラリスはそう言って、手に入れたばかりの書物を掲げてみせる。ビンセントは書物の表紙を見て、直ぐに分かったらしく、

「ああ、クレイトンの著作か。確か、ファンだったね?」

「はい! それでですね、ビンセント殿下、ここでまた新たな発見があったようで……」

「ね、そろそろ敬称はやめない?」

 ビンセント殿下がにっこりと笑う。

「ビンセントでいいよ。婚約者になったんだから、そうして欲しいな」

「え、あ……」

 クラリスは口をパクパクさせ、

「ビ、ビンセント?」

 真っ赤になりつつも、ようようそう言った。蚊の鳴くような小さな声だったけれど、彼の顔がほころぶ。嬉しそうに笑うビンセントは本当に、本当に素敵だった。

 今訪れている幸せをクラリスはかみしめる。恋人同士のやりとりが、ほんのちょっとしたことでも、こんなにも甘いのだと初めて知ったように思う。

「で、何? クレイトン・ハーマーの新作の話?」

 はっと我に返ったように、クラリスが言った。

「そうなんです! 今回のも素晴らしい内容ですわ!」

 どうしても興奮してしまう。彼との会話が楽しくて嬉しくて仕方が無い。

 そこへふと、妹の声を耳にした気がして、クラリスは庭園の奥へと目を向けた。

 けれど、誰もいない。視線の先では、日の光に輝く木々の枝葉がゆれているだけである。アニエスの声を聞いたような気がしたのだけれど、気のせいだったのだろうかと、クラリスは首を傾げてしまう。

 しばらくして、庭園の奥から姿を現したのは、アニエスではなく、魔術師のノリス・グリークであった。ノリスは音もなく近寄ると、恭しく臣下の礼をし、挨拶をした。

「クラリス王女殿下、ビンセント殿下、ご機嫌麗しゅう」

 あの事件以来、何故かノリスはやたらと礼儀正しくなり、こうして姿を見かけることも多くなった。初めのうちこそ、何を企んでいるのかと、クラリスは警戒したものだったか、彼はあの時の行為を恥じて謝罪し、いろいろと手を貸してくれるようにもなっていた。

 ノリスが大真面目な口調でのたまった。

「邪魔者はきちんと排除しておきましたので、ご安心下さい。どうぞごゆっくり」

 そう言って、身を翻す。

 ビンセント殿下が首を捻った。

「邪魔者って?」

「さあ? わかりません」

 不思議そうなビンセントの問いに、クラリスも首を傾げるしかない。時々、こうした意味不明な言動があることを除けば、ノリスの存在はありがたかった。何せ、魔術を使ってクラリスを助けてくれるのだ。これは驚きである。

 ――何故、親切にして下さるんですの?

 基本、宮廷魔術師は、陛下の命令以外聞かないものだ。しかも、プライドが高く、他を見下しがちなノリスが、わざわざ手を貸してくれるのは何故なのか。

 不思議に思って理由を問えば、

 ――まぁ、自分の身が可愛いだけです。気にしないで下さい。

 眼鏡をくいっと押し上げ、ノリスはそう言った。ノリスのそれは、やっぱり意味不明な返答で、首を捻るしかない。まぁ、重宝しているので、問題はないのだけれども。

「クラリス、愛している」

 ビンセントに唐突にそう言われて、クラリスは固まった。カップを落とさなかった自分を褒めて欲しい。ビンセントは相変わらず爽やかな笑顔を浮かべている。

「君の気持ちを聞いても良いかな?」

 そう言われてしまう。

「わ、わたくしの、ですか?」

「そう。駄目かな?」

 こ、心の準備が……。期待に満ちた目が……。に、逃げられ、そうに、ない。

「あ、あい、あい……」

「うん?」

「愛しております」

 言った。言い切りましたわ。クラリスは心の中で拳を握る。

 達成感が凄い。愛しているなどと口に出したのは、今が初めてだ。ディオン様の場合は、全て手紙に記していたから、口にはしなかったのである。そもそも、ディオン様は甘く囁くなんて事はなさらなかった。あの当時は、あれで普通だと思っていたのだが、アニエスに懸想していたのなら、自分に愛を囁くわけがないと、今更ながらに気が付く。

「嬉しいよ」

 ビンセントが笑う。けれど、彼は照れると言うことがないのだろうか? クラリスはそんな風に思う。喜びはもの凄く伝わってくるが、照れくささは感じない。嬉しいという言葉さえ、自然体である。言われたこちらが、気恥ずかしくて仕方が無い。

「クラリスは本当、可愛いね」

 ビンセントがくすくすと笑う。

「か、かわ?」

 声が裏返ってしまう。

「動揺する姿がね。可愛くて仕方が無い」

「ひあ!」

 髪に触れられて、妙な声が出てしまった。

「ああ、嫌だった?」

 ふるふる首を横に振る。嫌ではない、嫌ではないが、心の準備が、心臓が!

「事前に一言お願いします!」

 ビンセントが吹き出した。

「今から触るよって宣言するの?」

 肩をふるわせて笑いをこらえていらっしゃる! でもでも!

「でないと心臓が、も、持ちません!」

「分かった。じゃあ、触ってもいい?」

「は、はい!」

 彼の手が髪に触れている間、堅く目を瞑る。顔が耳まで熱い。

「キスしてもいい?」

「は、はい! え?」

 勢いで答えた後、質問を反芻し、クラリスが意味に気が付いた時はもう彼の腕の中で、ファーストキスは奪われていた。クラリス、愛してる、夢心地のまま、再度そんな言葉を耳にした。森林のような爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。抱きしめられて、これは彼の香りだと、クラリスはようよう理解した。


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