第8話
「代わりにビンセント殿下をわたくしに下さったらね。お姉様はディオンをまだ好きなのでしょう? ね、そうしましょう。それが一番だわ」
「いえ、あの、ちょ……」
アニエス! そう叫ぶ間もなく、アニエスはビンセント殿下のもとへ走り寄った。
「素敵でしたわ!」
視線はビンセント殿下に注がれていて、ディオン様を見もしない。
「殿下は今夜の夜会に出席なさいますの?」
アニエスがそう問うと、ビンセント殿下が頷いた。
「ああ、それはもちろん」
彼がそう答えると、
「でしたら、わたくしをエスコートしていただけませんか?」
アニエスの申し出に、クラリスは仰天した。婚約者がいながら、他の男性にエスコートを頼むなんて、非常識極まりない。クラリスが割って入った。
「アニエス! ディオン様がいらっしゃるわ!」
「あら、今回はお姉様が、彼の相手をして下さるのでしょう? 先程、そうしたいとお姉様が言ったから、彼を譲ってあげたのに」
すねたようなアニエスの台詞に、さらに目をむいた。そんなことは言っていないわ! そう口にする前に、ディオンに不穏な視線を向けられて、クラリスはびくりと身をすくませる。彼が一言一言かみしめるように言った。
「クラリス王女殿下、申し訳ないですけれども、私はアニエスの婚約者なんです。あなた様のお相手は遠慮させていただきたい」
「ち、違います! わたくしは……」
ディオンの侮蔑を含んだ瞳に、クラリスは言葉を失い、立ち尽くした。
未練が無いと言えば嘘になる。けれど、自分はこんな展開を望んではいない。相手を交換なんて真似をすれば、自分も彼も惨めな気持ちになるだけである。
見れば、アニエスはビンセント殿下に腕を絡ませ、微笑みかけていた。過去何度も目にした光景である。クラリスの胸はしくしくと痛んだ。
彼女にこうして言い寄られて、靡かなかった者はいない。きっと、ビンセント殿下もアニエスに惹かれるに違いない。先程まで自分に注がれていた、あの柔らかな眼差しで、彼もアニエスを見るようになるのだろう。
そう、ディオン様と同じように……。
「アニエス、わたくしは……」
それでも断らないと駄目だ。ディオン様の為にも自分の為にも……。そう決心したクラリスが口を開くより早く、ビンセント殿下が進み出た。
「クラリス王女殿下。今夜の夜会では、あなたをエスコートしたいと思っています。その栄誉を私に与えてもらえますか?」
ビンセント殿下にそう申し込まれて、クラリスはぽかんとなった。見れば、アニエスの腕は振りほどいたらしく、彼女は脇へ押しやられている。
わたくし、と? アニエスにあんな風に迫られて、断った男性など見たことがない。てっきり彼も承諾するものとばかり……。
「クラリス王女殿下?」
再度、そう呼びかけられて、クラリスははっと我に返る。
「あ、え、ええ……もちろん、その、喜んで……」
慌てて承諾すれば、手の甲に口づけられる。きっと真っ赤になっているに違いない。
アニエスが割って入った。
「ビンセント殿下、その……お姉様はディオンがいいと言っていましたわ。パートナーなら、わたくしを選んで下さい。お願いします」
ビンセント殿下の表情は変わらない。
アニエスを見下ろす瞳は、いっそ冷淡なほどだ。
「……彼は君の婚約者なのだろう?」
ディオン様を視線で指し示す。
「え? ええ、でも、お姉様は彼が好きなんです。ですから今回は、譲ってあげようと思っていますの」
「アニエス! よしなさい!」
「あら、でも、お姉様はディオンをまだ好きなのでしょう? 違うの?」
「だから、それとこれとは……」
「アニエス王女殿下」
ビンセント殿下がぴしゃりと遮った。有無をも言わさぬ口調だ。
「夜会には婚約者と出席するべきだ」
ビンセント殿下の台詞に、アニエスは言葉を失ったようだ。
決してきつい言い方ではないが、反論を許さないといった雰囲気がある。やはり王子という立場だけあって、人を従わせる力があるのだろう。
「どんな理由があれ、婚約者以外の男性にエスコートなどさせれば、不貞を疑われ、自身の評判を落とすことになる。王女という立場なら、そういった事にもっと配慮すべきでは?」
「でも、お姉様は……」
「彼女は関係ない」
ビンセント殿下が言い切った。
「この場合、婚約者を優先すべきだ。悪いが、君の態度は見ていて気分のいいものではない。私はここで失礼する。クラリス王女殿下、お手をどうぞ」
戸惑いながらもクラリスは、差しだされたビンセントの手を取った。それは、貴族のものというよりも、大きくて逞しい剣士の手だった。力強くて温かい。
ビンセントにエスコートされ、クラリスは訓練場から立ち去るも、そこを出る間際にアニエスに睨まれたような気がした。
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