第66話 本番の日ー02(ジョセフ・シュバルツ視点)

「お待た——」


 にこやかに言いかけて、応接室の扉を開けたジョセフ・シュバルツ王宮政務官は、そっと唇を閉じた。

 室内に二歩踏み込み、押し開いたドアの裏を覗きこんで、閉めて、また開いてみる。――いないな。

 

 マントルピースの手前に長椅子がローテーブルを挟んで配置されている。隅にはコンソールテーブルが一つあるだけの、王宮にしては簡素な部屋である。

 死角らしいものはなく、大の男が隠れんぼできそうにない。

 

「……ふむ?」


 顎先に手を当て、しばし考える。


 噴水庭園に通じる掃き出し窓が少し開いていた。秋風とともに、王宮楽団が奏でるワルツの音色が涼やかに流れ込む。

 そういえば今日は、ガーデンパーティの定例開催日だ。ワルツの狭間に、くすぐったいような令嬢たちの笑い声も混じる。しばし、思考はそちらに流れる――


「――よう、ジョセフ、そんなとこに突っ立って、何やってんだ?」


 急に気安い声を掛けられ、どきりとして背後を振り返る。

 十年来の付き合いである同期、ランブラー・ロンサール伯爵が廊下を颯爽と歩いて来るところだった。よう、と軽く腕を上げて応える。


「今日、出勤だっけか?」


「休み」と短く応えるランブラーは、ちょっと度肝を抜くほど綺麗な顔をしている。


『お前のような出来のいい顔だったら、人生バラ色パラダイスなんだろうなぁ……』

 と何年か前、仕事の合間にサンドウィッチを口に詰め込みながら、つい心の声を漏らしたことがある。

 人は畢竟、愛を乞い続けずにはいられない生き物だ。いや、人に限らず星座に名を連ねる神話の神々ですら同様。それを証拠に、権力を勝ち取った者は古今東西、後宮を建てた。

 端的に言うと、むちゃくちゃモテたい。

 血を流し多くの犠牲を払い権力をもぎ取らずとも、美形にはそれが自然に舞い込むのだ。パラダイスでないわけがない。

 

 ほんの数秒こっちを見て、ランブラーはつまらなそうにサンドウィッチを呑み込んだ。


『そう言うお前はさ、皮膚に感じる風、両足で踏みしめる土、こうしてサンドウィッチを咀嚼嚥下し腹が膨れることを、日々幸福と受け止めて生きてるか?』

『……そうでもないな』

『うん、僕もそうでもない』


 そういうものかな、とも思った。人は足りない物を探してねだる生き物。生まれつき与えられたものには、そう価値を見出せない。そう考えると、後宮を建てた支配者たちは皆、かわいそうなモテないくんだったのかもしれない。なんか親近感湧くな。


 やけに達観して見えたあの頃より、最近のランブラー・ロンサールは人生を楽しんでいるように見える。


「結局、お前も出勤かよ。『君たち、休日は休むためにあるのだぞ』とかってうそぶいてなかったか?」


 ランブラーは僕と同じ目線で軽く溜め息をつく。


「仕事は一旦、片付いてる。まあちょっと色々あってさ。屋敷にいるのも落ち着かないから」


「たいがい、暇な仕事中毒だな」


「そうでない政務官がいたっけ?」


 揶揄ると、ランブラーは涼しい顔で言う。


 十年前。選り抜きの秀才中の秀才が国中から集う王宮政務官試験会場で初めて会った時、この男はまだたった十五だった。


 僕は、すっかり騙されたのだ。


 身長は今よりも十センチ以上低く、金の髪は伸び過ぎていた。声変わりする前で、喉仏も出ていなかった。薄っぺらな白シャツから覗いていた細い首筋。意志の強そうな大きな碧い瞳。


 もうてっきり、あれだと思った。男装の美少女が男社会に紛れ込んで……的なあれである。

 ふつうに考えれば、んなわけあるか、であるが、なにしろ僕は当時十七歳。

 神童と讃えられ、ベテラン家庭教師に囲まれ、同世代の友人と遊ぶ暇もなく、勉強漬けで育った世間知らず――そうして、青い春は暴走しがちなわけである。


 だが、僕には確信がある。

 ぜったい自分だけじゃない。あの日あの場にいた者は、すべからく心を奪われた。――かのロブ侯爵家の次男、『冷静』という名の骨格に『慎重』という名の肉をつけて産み落とされたようなウィリアムですら、ぼうっと瞳を潤ませていたのだから。


 後に真実に気がついた時には、神を恨んで枕をちょっと濡らした。この秘密は生涯、誰にも言わない。


「ウィリアムも来てるだろ? 昨日北部から届いた面倒そうな書類、手伝ってやろうと思ってさ」


「ウィリアムだけじゃない。ほぼ勢ぞろいだ」


 親指ですぐ上の階にある政務室を指し示す。ランブラーはにやっと笑った。


「ほら見ろ。仕事中毒暇人患者の集まりだ――で? そう言うお前は? ここでぼんやり何してんだよ?」


 今や、王宮中の女性を虜にする美青年へと成長して久しいランブラーは、顔に似合わず、わりと毒舌である。


「あ、それがさ、ここに人を待たせて――ああ、ちょっと、君!」


 ちょうど廊下を通り過ぎようとした浅葱の騎士を、咄嗟に呼び止める。はい、と立ち止まって姿勢を正したのは、年若い騎士だ。

 ここ王宮左ファザードには第三騎士団の詰所があるから、浅葱の騎士が常日頃うろうろしている。


「応接室にいた人を知らないかな? 僕を訪ねて来たはずなんだが……姿が見えなくってさ」


 ここで待つように言ったのに、政務室に書類を取りに行き、戻ったらいなかった。と説明した途端、騎士の顔には鋭い緊張が走る。


「至急、応援を呼び捜索を――」


「いや、不審者じゃないんだから」


 慌てて手を振って制す。まったく、王宮に勤める連中ってのは、すぐに物事を深刻に捉えようとするのが悪い癖だ。

 人を見たら変質者と思え――と幼児期に親から言い聞かせられたのを固く守っている真面目くん揃いなのだ。きっと。


「僕の客だよ客。おおかた、ガーデンパーティのいい感じの賑わいに誘われて、ふらふらーっと庭に出ちゃったんだろ。僕がすぐ探してくるよ」


 苦笑して見せると、若い騎士はちょっと気恥ずかしそうに緊張を解く。


「ああ……承知ました。戻られたのを見かけたら、この部屋でお待ちいただくよう伝えます」


 うん頼むよ、と笑って頷いていると、横で聞いていたランブラーが口を開く。


「ひとりで大丈夫か? ここは迷路みたいだから。その人、迷子になるんじゃないか? 僕も一緒に探してやるよ」


「いいのか?」


「問題ないよ。どうせ暇で来たんだ」


 軽く首を振って言う。この友人は、ときどき毒を吐くけれど間違いなく親切な善い奴だ。かつてのランブラーによく似た、天使みたいな従妹たちを、僕に紹介してはくれなかったけどな――ちくしょう。


「悪いな。じゃあ頼む。見つけたら丁重にしてやってくれ。彼にはさ、ほんと同情するよ。ああほら、前に言いかけた、春の査察で会った人だ。身体を壊して長く入院してて、昨日ようやく退院できたらしい」


 へえ、とランブラーは一瞬、気の毒そうに眉を寄せたが、早く探し始めた方が良いと考えたのか、詳細を突っ込んで尋ねようとはしなかった。


「ええと、彼の人相はだな……細身で、黒髪、こげ茶の瞳だ。ああそれから、右目の下……このへんに、泣き黒子があったな」



 

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