第38話 空っぽの馬車ー02(アルフレッド・キャリエール視点)

 そうして、伯爵邸までもうすぐという林の三叉路に差し掛かった時、イザーク・メイアンとばったり行き会った。俯き加減で、馬に乗っている。


「よう、メイアン」

「お疲れー」


 親しみをこめて声をかけると、メイアンは顔を上げた。驚いたように目を瞠る。メイアンはどうやら、王宮騎士に並々ならぬ憧れを抱いているらしい。俺達の前で、いつも挙動不審なくらい緊張して見せる。


「あ……おっつっ、おっ、おちゅかれさまでっす!!」


 ……それにしたって、今日はすごいな。

 しかし、その初々しさは誰の胸にも訴えかけるものがある。もともと面倒見の良いカマユー、エルガー、アイルの三人はもちろん、あのウェイン卿ですら目をかけているのだ。


 メイアンを挟んで、俺たちは馬車の後ろに並んだ。

 前を行く馬車には、レディ・リリアーナが乗っているんだろう。

 いつもなら、窓を開けて「ごきげんよう」と声をかけてくれる令嬢は、こっちに気付いていないようだ。侍女とお喋りして、窓の外を見ていないのかもしれない。まあ、もうすぐ伯爵邸に着く。あとで挨拶すればいいや。


「今日も令嬢と図書館?」


 ルイーズが優しい声で問いかける。今日のメイアンは、いつにも増してガチガチだ。額に汗を滲ませ、人のことは言えないが年よりも幼く見えるその顔は真っ赤に上気している。


「はっ? はいっ!? あっ! あのう!! お、お二人は……お仕事で――?」


 尻すぼみになるメイアンの声に、いいやー、と俺達は首を振る。

 ルイーズの琥珀色の瞳が、恍惚と潤む。


「ちょっと時間できたからさ、レディ・リリアーナに『お疲れさまです』って言ってもらおうと思って」


「俺達はもう、あの癒しオーラを定期的に摂取しないと、生きられない身体なんだ。令嬢に労われることにより、仕事で荒んだこの心身は洗われ、二週間は平穏を保てる」


 うんうん、と頷くルイーズの頬は、おそらく令嬢の微笑みを想像してうっとりと上気する。


「へ、へえー……」


 メイアンは激しく瞬きながら、頬を引き攣らせた。


「いいわね、メイアンはレディ・リリアーナと一緒にいられて。わたしも伯爵邸の専属になりたい」


「まったく、その幸運を神に感謝しろよ」


 メイアンの顔が、どういうわけか青くなったり赤くなったりした。


「は、は……あ……あの! じ、実は、ほっ、報告――」


「あ……そういや、メイアン?」


 訊こうと思っていた件を思い出し、声を低くする。


「――は、はいっ!?」


「レディ・リリアーナのハンカチが破られた件、知ってるか?」


「ええっ!?」


 メイアンの瞳が、驚愕に見開かれた。ルイーズがぎゅっと眉を寄せる。


「あ、まだ聞いてない? 誰かに破られてたらしいのよ。あんた、何か心当たりない?」


 メイアンの額からつつーっと汗が伝う。こいつってば、責任感強いんだな。伯爵邸の護衛担当として、ショックを受けているらしい。


「……い……いや」


「ま、そう気にするな。もし令嬢自身に何かあったら死罪ものだが、ハンカチにまで気を配るのは、流石に無理だってわかってるよ」


 優しい言葉をかけると、メイアンは唇をわなわなと震わせた。この俺が、心の広い先輩ってやつになれる日が来るなんて……。じぃん、と感慨深いものが胸に押し寄せる。


「ウェイン卿ってば、レディ・リリアーナに嫌われたんじゃないかって気に病んで気に病んで。破れたハンカチ、胸ポケットにしまってずっと大事に持ってんのよ。レディ・リリアーナが破るわけないのにねぇ?」


「ほんと、さっさと訊けばいいのに。レディ・リリアーナはあれ、犯人に心当たりあるだろう」


「……え……」


「しょうがねえな、俺達で調べるか……」


「え……っ! し、調べ……っ!? な、何で……!?」


 愕然とした風のメイアンに、先輩として優しく言い聞かせてやる。


「そりゃあだって、お前……ウェイン卿より先に見つけねえと、やばいことになるだろう? あのウェイン卿だぞ。令嬢と婚約できたおかげで、今は猫のように丸ーくなってるけど、なにしろ、あのウェイン卿だぞ」


 二回言ってやった。ぽかんとしたメイアンの顏を見て、ルイーズが「ああ、メイアンは、ほら、最近入ったもん」と朗らかに笑う。


「ウェイン卿はね、あんたは知らないだろうけど、本来、アレなのよね。犯人見つけた瞬間、首と胴体切り離しちゃうような、アレなのよねえ……。いやほら、ちゃんとTPOわきまえて切り離すなら、別にアレでもいいんだけどさ」


「……え……?」


 目玉を溢れ落としそうになって固まっているメイアンを挟んで、ルイーズと俺はにこやかに頷き合う。


「その前に見つけ出して、俺達で思慮深く消そう。証拠残さないように」

「あれね、ちょっと時間かかって面倒だけど、細かく刻んで海に撒きましょう」


 そうだな、そうしよ、と穏やかに笑い合った。いやほんと、そう言う俺達もすっかり丸くなった。これもう、若くして老境に達してしまったかもしれない。空高く、馬は肥え、後輩は可愛く、明日は休み。まったく、人生って素晴らしい。


「あっ、あ……っ」


 手綱を握るメイアンの手が、ぶるぶる震えている。ハンカチを破った奴が、よほど許せないとみえる。大事な令嬢の住まう伯爵邸の護衛として、見込みのある奴だ。


「――あら、噂をすれば、ウェイン卿」


 話している間に、馬は伯爵邸の門をくぐった。

 ウェイン卿とカマユーが、伯爵邸のエントランス階段の下で談笑している姿が目に入る。

 おう、とこちらに気づいたカマユーが爽やかに手を上げる。

 黒鹿毛の馬から降りながら、声を掛けた。


「お疲れっす。待ち伏せっすか?」


「待ち伏せ言うな。出迎えだ。――メイアン、ご苦労だったな」


 日毎、人間味を増すウェイン卿が苦笑して応える。ここのところほぼ毎日、ウェイン卿は伯爵邸に通っているらしい。まあ、婚約者があんだけ可愛いと、そうなるのも頷ける。


 ウェイン卿の腕が、馬車のドアノブに伸びる。


「令嬢、おかえりなさ――」


 がちゃりと開いた扉の向こう。

 世界を煌めかせる癒しの笑顔があるはずの、そこは――



 ――からっぽ、だった。



 …………。


 しいん、と得体の知れない沈黙が落ちる。馭者のコルデスは、苦虫を噛み潰したような顔でそっぽをむいている。念の為、キャリッジの天井にまで視線を這わせる。誰もいない。令嬢もいない。侍女もいない。蜘蛛の子一匹いない。俺はゆっくりと口を開く。

 

「…………おい、メイアン?……令嬢はどうした?」


 瞠目した俺たちは、揃ってゆっくりとメイアンのいる方を向く。


 馬から降りたメイアンは、手綱を握りしめたまま真っ青な顔で立っていた。その身体はぷるぷる震えている。

 視線を浴びて、くしゃりとメイアンの顔が歪む。

 ううっと嗚咽を漏らし、メイアンは下を向いた。制服の肩は震え、顔の辺りからぽたぽたと雫が落ちて、乾いた地面に染みができる。


 大の男が見せる反応として、それは尋常ではなかった。


 すうっと血の気が引いてゆく。ウェイン卿、カマユー、ルイーズも同様だろう。


 ――何か、あったのだ。


 平穏な日常が、ひっくり返るようなことが。途方もないことが、大事な令嬢の身の上に起こったのだ。


 まるで子どものようにしゃくり上げながら、メイアンは言った。


「っ、っ、づっ……つれて、いがれました……っ! 深緑色の……き、騎士に、かっ、囲まれて……っ。おれ、おれ……ご、ごめんな……さいっ――」




 §



 くもり一つなく、ぴかぴか光る銀の三段トレー。その周辺では、至高の饗宴が繰り広げられていた。

 とろりと熟した果肉がたっぷり載ったいちじくのタルト。りんごの花模様ケーキ。栗のクリームがたっぷりのったメレンゲ。かぼちゃのプリンとクッキー。洋梨のババロア。葡萄の二層ゼリー。小さなシュークリームがツリーのように重ねられたものには、黄金のキャラメリゼ。クグロフにはラベンダーの花の砂糖漬けが飾られている。


 ――ごきゅり、とわたしの咽喉は鳴る。


「あのう……ディクソン公爵さま……?」


 目の前のソファーに鷹揚に凭れているのは、ヒューバート・ディクソン公爵その人である。


 大きな身体を包む、ゆったりとした上質の上下。胡桃色のふわふわ髪から覗く白い耳。ふんわりした白い頬に榛色の瞳。この人、やっぱりシュークリームに似ている。



 窓を全開にしたまま、むっつりと黙り込んだディクソン公爵とわたしとアナベルを乗せた馬車が着いた先は、王宮近くにあるディクソン公爵邸だった。


 いや、邸というより、ここは城と呼ぶ方がしっくりくる。

 中庭を囲む、クリームイエローの大きな建物。

 四季咲きのつる薔薇とクレマチスで囲われた噴水には、美の女神アフロディテの息子アモールと人間の娘プシュケーの恋の一幕を描いた彫刻。


 一歩進むたび、現れる見所に見惚れて立ち止まってしまうわたしを、ディクソン公爵は急かしもせず、黙って待っていた。


 今、通されているこの部屋の内装も目を瞠るほど素晴らしい。

 絵画もタペストリーも、今腰掛けている革張りの椅子も、間違いなく一級品。

 そんな夢のようなお城で、ディクソン公爵は抑揚のない声で言う。


「遠慮はいらない」


「は、はあ……」


 ――何故、わたしはディクソン公爵邸でもてなされているのか?


 まあ、それはおいおいわかるとして、この方は……やはり……? 初めっからそうじゃないかとは思っていたけれど、やっぱりそういうことだろうか?


 考え込んでいると、ディクソン公爵は部屋の隅に視線をすいっと送る。


 目で合図を受けたのは、ずらりと居並ぶ公爵家の侍女達。

 一礼して、失礼いたします、と言うなり、機械仕掛けのようにテキパキと動き出した。

 わたしの膝に、眩しい純白のナプキンがひらりと載せられる。

 目の前の皿に、すべての菓子が一切れずつ載っていく。仕上げに丸いバニラアイスがぽてりと盛られ、極めつけ、粉糖が雪のように振りかけられた。


 ――はいはい。なるほど。

 

 最高だわ……。


 生唾をまたごきゅりと呑み込むと、公爵の平坦な声が再び響く。


「遠慮はいらない」


「……へ、ああ、はい……」


 後ろに控えるアナベルの方をちらと見ると、こくりと頷く。もう食べちゃっていいんじゃないですか――という意味だろう。うんうん、いいよね。こっちだって、我慢の限界だもの。


 こんなに美味しそうなものがあるのなら、メイアンさんもやっぱり連れて来てあげるべきだったかも知れない。あの時、わたしがどうしても連れて行きたいと言ったなら、ディクソン公爵はきっと許しただろう。


 ――でも……具合悪そうだったし。


 心配しないで、って言っておいたし、大丈夫だろう。今頃きっと、屋敷で落ち着いてお茶でも飲んでいるに違いない。


 えへ、とだらしなく頬を緩ませて、いちじくのタルトにフォークをぶすりと突き刺した、その瞬間――



 ――白亜のバルコニーに通じる窓の外から、怒号が響き渡ったのである。

 



 

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