第46話 触れる
以前、話しかけた時のことが脳裏をよぎる。
(話しかけると、また不快な思いをさせてしまうかも知れないけれど、今生の別れに、飛んでくるポットから庇ってもらったお礼くらいは、ちゃんと言っておこう……)
「あの……、もっと早くお礼申し上げるべきでしたが、あの時はセシリア様のお宅で庇っていただき、ありがとうございました」
ウェイン卿は顔を上げ、驚いたようにわたしを見た。眉間の皺が緩み、秀麗な顔にほんのり赤みが差す。
「いえ……。その、腕にお怪我を負わせてしまい、申し訳ありませんでした」
思いもよらないことを言われて一瞬驚いたが、そう言えば、名目上は『護衛』ということになっていたと思い出す。
本当はどうでも良いだろうに、流石は王宮騎士。芸が細かい、と感銘を受ける。
そういえば、騎士達は誰もセシリアが投げたものに当たっていなかった。あの状況でも、反射的にちゃんと避けていたのだろう。
「いいえ。わたくしがぼんやりしていたせいですし、翌日にはすっかり治ってしまいましたから。それよりも、わたくしの歩調は遅すぎませんか? 体調が優れないのでしたら、先にお戻りになってください」
「は……? 体調……? お、わたしのですか?」
訝し気に眉根を寄せて問われ、口を開く。
「あの……、お顔の色が優れないようにお見受けします。お仕事がお忙しいのでしょう? わたくしにはお気遣いなく、先にお戻りください。屋敷で温かいお茶でも召し上がって、早くお休みになられた方が――」
言い終わらぬうちに、ウェイン卿は、ふわっと可笑しそうに微笑んだ。
え?
あれ?
……わ、笑った?
――ウェイン卿が?
いつでもどこでも冷静沈着。いつだって落ち着き払っていて、何があろうとも、このわたしの前でだけは笑うまいと思っていた、あのウェイン卿が?
――その微笑みの破壊力は、あまりに大きすぎた。
心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴り、全身が金縛りにあったみたいに動けず、声も出せず、ただ凝視することしかできない。
周りにキラキラ光が瞬いているみたい。
「……わたしのことを、ご存じでしょうか?」
眩いままのウェイン卿が話し出す。わたしは希少すぎる奇跡の微笑に惹き付けられ、相槌の言葉を口にすることすらできず、ただ小さく頷いた。
「……わたしの生まれた家は、ハイドランジアとの国境近くの没落しきった子爵家でした。母はその家の使用人でしたが、物心ついた頃には、……いなくなりました。この目は、その母方から受け継いだものです」
ウェイン卿はどこか遠い懐かしい目をして、微笑みながら続ける。
「辺境の子爵家での扱いは……よくある話です。しばらくして、国境の緊張が高まり小競り合いが始まると、王都から子爵家に国境警備に赴くよう、命令が下りました。
一族の誰かが行かねばならなかったので、父は当時十二だったわたしを送りました。それからは、戦いに明け暮れる日々を過ごしていましたが、ノワゼット公爵に拾われ第二騎士団に入り、二年前にはハイドランジアが滅んで……その辺りはもうご存じかも知れません」
「…………はい」
ウェイン卿の活躍ぶりはよく知っていた。
屋根裏での生活は、本と古新聞を読むことに多くを占められている。新聞には扇動的な記事が並んでいた。ウェイン卿の剣技は鬼神の如くだとかなんとか。
ウェイン卿は言い淀みながら続ける。
「……ええ……つまり、その、何が言いたいか、というと……、わたしにはずっと、二年前に戦争が終わってからも、世界は灰色に沈んでいるように見えていました。
……ところが、ごく最近になって、そうでもないのではないか、と思うようになりました」
赤い瞳がこちらをじっと見つめているが、その真意を測りかねていた。
――なぜ、今ここで、わたしにそんな話をするんだろう?
……きっと、特に意味はないんだろう。
今日は嬉しいことに、ほんの少し、ウェイン卿の表情の変化を見られた。
だけどやっぱり、この人の考えていることだけはさっぱりわからない。
でも、理由はともかく、それは、とても――
「……それは、何よりでございます。ウェイン卿は、素晴らしい方ですから、きっと、これからも彩りある、光の中を進まれると思います」
柘榴石のような不思議な色の瞳が見開かれ、きらりと光ったように見えた。
「……そう、思われますか?」
「はい。もちろんです。わたくしには想像もできない苦境の中に置かれながら、今は立派な居場所を持っていらっしゃいます。
どのようなご事情があったのかはわかりませんが、ウェイン卿を手放された方は、大変な失敗をされたと思います。一緒にいらっしゃったら、きっと今頃はとても幸せになれたでしょうに。それから――」
自分の居場所すら、満足に作れないわたしとは、大違いだとずっと思っていた。
わたしが、ただ思い悩み、逃げることも叫ぶことも泣くことも、何もかも諦めて命じられるまま屋根裏に閉じこもっている間、ウェイン卿はきっと、たゆまぬ努力をし、自分の力で道を切り拓いたのだ。
――ウェイン卿の存在は、この二年間、わたしの光だった。
決して叶わない恋だったが、これからもずっと、この人が光溢れる道を行くことを願う。
「――ウェイン卿が、ご無事に戻られて、良かったです」
言った途端、ウェイン卿は、よろり、とよろめいて、大木の幹に手を突いた。
……ウェイン卿ほどの騎士ですら、木の根っこに足を取られることがあるらしい。
(なら、わたしがしょっちゅう躓くのも無理ないか)
足元に目をやって根っこを確認していると、目の前に、すうっとウェイン卿が立った。
ぎょっとして見上げると、白銀の髪の下に、神秘的な赤い瞳が煌めいている。
それはまるで、氷の中に炎が煌めいているようで、思わず見惚れて目が離せずにいると、その両手が、すいっとわたしの顔の辺りに伸ばされた。
驚きのあまり身が竦む。声も出せぬまま目を瞑った。
躊躇うように一度、手が止まった気がしたが、またそっとフードに手をかけると、まるで気遣うように、ゆっくりと少しずつ外される。
額と首筋に、ひんやりと澄んだ夕暮れの空気が触れる。
恐る恐る見上げ目が合うと、赤い瞳は少し細められ、何度か瞬いた。
醜いこの顔を前にしても、不快に思われている様子は見て取れず、ほっとする。
「……一体なぜ、いつも顔を隠されているのか、教えてはいただけませんか?」
――何故、そんなことを知る必要があるんだろう?
今日のウェイン卿の言動は、何もかも不可解だ。
(……もう、言ってしまっても良いのかもしれない)
ノワゼット公爵は、間違いなくブランシュを深く愛している。
わたしが伯爵の実子でないと知ったところで、それをブランシュの汚点と捉えるとは思えなかった。
公爵はわたしを排除しようとはするだろうが、それは今だって同じこと。
ブランシュのことは、必ず守ってくれるだろう。
(だけど……、ウェイン卿にはどう思われるかな……?)
――わたしが伯爵の娘ではないと知られたら、わたしはもう『令嬢』ですらなくなる。
こうして、内心はどうあれ建前だけでも丁重に接してくれるのは、わたしが伯爵家の『令嬢』だからに他ならない。
「……申し上げられません」
自分でも、驚くほど情けない声が出た。
――この期に及んでまだ、これ以上嫌われたくないと思っている自分には、ほとほと呆れ果てた。
――もうすでに、死を願うほどに嫌われているというのに。
(あーあ、愚かすぎて哀れすぎて、つける薬もない……)
――だけど、これから永遠に、会うことも顔を見ることも、遠い地ではその名前を耳にすることすらなくなるんだから。
今日、屋敷に戻るまでの短い間、夢を見ていたって神様は許してくれそうな気がした。
「いえ。いつか、貴女が言っても良いと思われたなら、その時で構いません。ただ、今日は一度だけ、これからノワゼット公爵の前で、フードを取っていただけませんか?」
「……どうしても、必要でしょうか?」
「はい、必要です」
――これからは、自分のしたいように生きるといい。
夢で逢った、あの老人の声を思い出す。
ずっと父の言いつけを守って、隠れて生きてきた。
その結果、誰にも必要とされず、どこにも居場所がなく、ドブネズミのように始末されかけている。
――どうせもうすぐ、わたしはここを去る。
この人が望むなら、最後に顔を曝すくらい、もう構わないように思えた。
黙っていると、ウェイン卿が口を開いた。
「……もし、気が進まないなら、他の方法を考えます」
「いえ、そのように致します」
ウェイン卿を見上げて、そっと微笑んで答えた。
「……有り難うございます」
赤い瞳を細めて優しく微笑むと、フードにそっと手を伸ばし、ゆっくりと優しい手つきで被せた。
それから、片手を伸ばすと、壊れやすい銀細工に触れるような手つきで、わたしの手をそうっと取る。
「体調はお陰様で万全ですから、一緒に戻りましょう」
たった今、起こった展開に全くついて行けず、言葉を失くしてこくこく頷くわたしに向かって、ウェイン卿はこの世の何よりも爽やかに微笑んで見せた。
そのまま、歩き始める。
……ええっと……?
――て、て、手が、触れてはいませんか……?
それは、繋ぐと言うには、あまりに緩く、優しい触れ方で。
驚天動地の事態に、わたしの心臓は、早鐘のように打ち鳴らされていた。
――そして、あることに気付く。
(そういえば、今日はずっと、ウェイン卿の声は冷たくなかった……)
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