第44話 居場所

『閉館』


 王立図書館の入り口には、無情な札が立てられていた。


「……そう、ですよね……夕方、ですもんね……」


 お役所の朝は早く、閉まるのもまた早い。


「……そうですね」


 か細く呟いた独り言が聞こえたのか、隣に立つウェイン卿が相槌を打った。


 ――まずい……! 非常に、まずい。


 何故、騎士達はニコールの家まで付いて来たのか?


 何故、いつまでも帰らずに留まったのか?

 答えは、至って明瞭である。



『ドブネズミは、始末しておきます』



 そうでなければ、ウェイン卿がわたしを送ろうとする理由がない。


 一つたりともない。


 オデイエ卿たちもやけに熱心に一緒に帰れと勧めていた。

 間違いない。この帰りに始末する計画なのだ。



 ――撒くしかない。


 そう思って、口を開いた。


「……あのう、ウェイン卿……?」


 はい、と何故か驚いた様子で振り向いたウェイン卿に、図書館に寄って帰りたいので、先にお帰りください。と言ってみた。

 一瞬、ぽかん、という間のあと、では、お供します。と言われた。


「いえ。遅くなりますので。ウェイン卿はお忙しいでしょうから、先にお戻りください」


「……いえ。お供します」


 ウェイン卿は、至極、思い詰めたような顔で頷いた。これは、もう――



 ……確定である。間違いなく、決行するつもりであると思われた。


 いや、しかし、図書館で目撃者を得ることで、何とかなるかもしれない、と一抹の希望を抱く。

 図書館の職員は、貸し出しカードの名前により、わたしがリリアーナ・ロンサールだと知っている。

 もとより、ウェイン卿は有名人。一緒にいるところを見られたら、今日のところは止めとくか、と思召おぼしめしていただけるかも知れない。


 ニコール達は、わたしの素性を知らない。つまり、今日このまま消されても誰にも怪しまれない。正に絶好のチャンス。わたしは今、追い詰められたドブネズミ。文字通りの窮鼠きゅうそであった。しかも、絶対に猫を噛めないほど弱っちいやつ。


 蜘蛛の糸にも縋り付きたいわたしの目の前には、つい五分ほど前に閉館した図書館が、いつもと変わらず、どっしりと貫禄をたたえ建っていた。


 ひゅう……っと冷たい風が吹き、頭上でプラタナスの葉がさらさらとそよぐ。背後の円形噴水から、こんこんと長閑な水音がささらぎ、噴水前に待ち人を見つけ、顔を輝かせて駆け寄る女性の姿が目の端に映った。


(……無情だ……世のことわりは、ドブネズミに対して冷たい)

 

 呆然と立ち竦むわたしを見やり、ウェイン卿が口を開いた。


「……それほど、お読みになりたい本が……?」


「……は? ああ、はい、いえ、まあ……」


 どっちだよ――?と自分でも突っ込みたくなる返事が零れた。

 どうやら、フードを被っていてなお、隠しきれない悲壮感が溢れまくっていたらしい。


(――いえ、借りたい本はありません。ただ、命が惜しいだけです)


 見上げると、ウェイン卿は僅かに眉根を寄せてこちらを見ていたが、殺気らしきものは見て取れない。銀の髪がさらさらと爽やかに風に揺れている。


「……職員は、まだ残っているでしょう。少し開けてもらえるよう、言ってきましょうか……?」


「は……? いいえ! とんでもありません! だ、大丈夫です!」


 騎士団副団長様が頼めば、おそらくきっと開けてくれるのだろう。

 しかし、常日頃、図書館を運営してくださっている職員の皆様に残業をさせるなどというご迷惑をおかけすることはできない。ルールは、守るためにある。

 例え、この命がかかっていようとも、……ん? あれ?


(ウェイン卿の言動に、そこはかとなく違和感があるような……?)


「……では、屋敷に、お戻りになりますか?」


「ああ、……はい。お時間をとっていただき、申し訳ありませんでした……」


 自分でもびっくりするほど、弱々しい声が出た。



 §



 ――わたしは、自分が嫌いだ。


 誰にも必要とされず、人々に嫌われ、何の役にも立たない。

 伯爵家の血筋でもないのに、屋根裏に居座って、ブランシュや使用人達に迷惑をかけている。

 すぐに熱を出す虚弱な体も、気が弱く、人に逆らえず、いつもうじうじと悩んでばかりのところも、全部、嫌い。



 ――自分が嫌で嫌でたまらないのに、死ぬのはもっと嫌なのだ。


 

 大人しく諦めれば、最後に少しでも好きな人の役に立てるとわかっている。

 それでも、諦めることなどできない。浅ましく生に縋り付こうとする、この執着は何なのだろう。この期に及んでまだ、この人生への期待を捨てきれないのだ。


 だから、わたしは悔やんだ。


 ――もっと早く、逃げ出しておくべきだった! と。



『お嬢さん、すごいね。魔法使いみたい。助かったわ』


 ニコールとペネループは、得体の知れないわたしを、何も言わずに温かく迎えてくれた。

 ここにいて欲しいと手をぎゅっと握ってくれたホープの小さな手。絵本を読んで、とねだってくれたジュリアの声。膝の上に座って甘えてくれた、ジェームスのあたたかさ。


 あの家にいる間、わたしはとても幸せだった。

 あまりに甘く、あまりに暖かく、あまりに心地良い、優しい時間。


 つい、現実から目を背けてしまうほどの。


『もう、これっきりですよ』


(……ずっといられるはずはないと、初めからわかっていたのに)


 幼い頃、優しく接してくれた使用人たちの顔が浮かぶ。優しい場所は、いつだって、すぐに消えてなくなってしまうのだ。


 それでも、束の間でも、居場所をくれたあの二人には、感謝してもしきれない。


 ――別れ際、もっとちゃんと、お礼を言っておくべきだったな……。



 この国で、女性が働いて自立して生きる術はほとんどない。


 仕事というものは男性がするもので、女性達はしっかりした身元保証があれば貴族の屋敷で使用人として雇ってもらえるが、その地位は薄氷に乗っているようなものだ。主人の機嫌や気紛れで、非道な仕打ちを受けることもあれば、いつ辞めさせられてもおかしくない。


 だから、女性たちは早々に婚約して、二十歳になるまでには結婚する。

 親兄弟、夫などの男性の保護を受けられず、しっかりした身元保証もない女性達の行き着く先が、先ほどまでいたクルチザン地区だ。


 もうすぐ、ブランシュはノワゼット公爵と結婚して、屋敷を出る。



 ――そうしたら、わたしの居場所は、もうない。



 たまに、爵位を継いだ兄弟の厚意で、結婚せずに屋敷に残る女性もいる。もちろん、わたしはそういうわけにはいかない。

 ランブラーは従兄で、会ったのも言葉を交わしたのも一度だけ。おまけに、わたしは伯爵の子ではなく、ランブラーとは血が繋がっていない。


 好きに暮らしていいからね、一度だけ会った時、ランブラーはそう言っていたけれど、それはそのうち結婚するまで、という意味だろう。

 わたしと結婚してやっても良い、などと思う物好きは、この国の、いやこの世のどこを探しても見つかるまい。


 ――となると、修道院しかない。


 それすらも、通常、入れてもらうには多額の寄付が必要だった。

 ブランシュの婚約が決まってすぐに、いくつかの修道院に手紙を出した。わたしの悪名を思えば当然だが、ほとんどから断りの手紙か、多額の寄付をしてもらえれば、と返事が来た。


 だけど、ひとつだけ、寄付なしでも、わたしを引き取ってくれるという奇特な修道院があった。

 北の最果ての修道院。

 環境は劣悪で苛酷だと新聞で読んだことがあったが、気にしている場合ではないだろう。

 こうなった以上、一刻の猶予もなく、出立すべきだ。

 と言うか、とっとと発っておくべきだった。



(……ウェイン卿も大変なんだろうなぁ……)


 ――わたしが逃げたら、困るだろうか?


 隣を歩くその整った顔をほんの一瞬、ちらりと見上げる。

 眉を顰めて、端麗な顔を陰らせている様子も、溜め息が零れるほど素敵で、鼓動が高鳴る。


 何か、考え込んでいるようにも見える。

 公爵に命じられたドブネズミ退治が、なかなか進まないことを気にしているのかも知れない。


(今、この瞬間も、わたしを消す算段を付けているの……?)


 考えた途端、胸がずきりと痛み、目の前がじわりと滲んだ。

 慌てて、フードを引っ張って深く被り直す。


 

 もし、行き先を誰にも告げず、痕跡を残さず、王都から離れた遠い北の修道院に入ってしまえば、ウェイン卿はそこまで追ってくるだろうか。


 ―――思うに、追っては来ないだろう。


 何と言っても、公爵もブランシュも大事に至らなかったのだ。死人が出ていない以上、王都の中を手配するくらいはするだろうが、国中を探し回るほど、暇ではないはず。


 そして、最果ての修道院の奥深く暮らすわたしとは、二度と顔を合わすこともない。そうしたら、この苦しいだけの恋心は少しずつ薄れて行き、いつか、ただの思い出となってくれるに違いない。


 けれど……もし、今日のうちに始末するつもりなら、もう活路はない。

 どうやったって、本気の騎士を相手にして、逃げ切れはしまい。

 ウェイン卿は息をするよりも簡単に、この息の根を止めるだろう。


(……もしも今日、わたしの命を奪うつもりなら、それはきっと、あの林の中だ)


 人通りは少なく、悲鳴は木々に吸い込まれる。

 比べて大通りは、いつ馬車や馬が通るかわからない。伯爵邸の使用人や贔屓の業者達もあちらを通る。不穏な企みの実行には人目があり過ぎるだろう。


(つまるところ、ウェイン卿が林の小径を選ぶと、わたしの生存率は限りなく低い)


 死刑判決を待つ囚人のような気持ちで歩みを進めると、林の前の分かれ道に差し掛かった。


 右の道は、明るく広い。配達の荷馬車が、蹄と車輪の音を響かせ、通り過ぎて行く。

 左の小径は、ひっそりと。伯爵邸の裏口に続くその道の先は、今日に限って、黄泉の扉が口を開けて待っているに違いない。


 ――息を詰める。


 聞こえてくるのは、自分の心臓の音だけ。


 ウェイン卿の方を見ると、先程と変わらず、物憂げな様子で考え込んでいる。



 ――そして、開けた右の大通りへと、足を向けた。



(……あれ……?)


「……こちらでなくても、良いのですか?」


 しまった、と慌てて口を閉じる。



「…………」


 返事がないので、ちらりと見上げると、ウェイン卿は眉を顰め、険しい目をしてこちらを見つめていた。


「まさか、とは思いますが、いつも、こんな薄暗い夕暮れ時に、この道を通っているのですか?」


 何か気分を害している様子に、ぎくりとする。


「はい、あの……。近道ですから、屋敷まで少し、早く着きますので」


「この、薄暗くて、人気のない、獣の出そうな、林の中を? お一人で?」


 ウェイン卿は、形の良い眉を顰め、鋭い目付きでわたしをじっと見つめている。完全に、気分を害しているようだった。


 地雷を踏んでしまったようだが、それがどこに埋まっていたのか、わからない。


「獣などは……、怖い思いをしたことはありましたが――」


 言った途端に、じりっと一歩、近付かれた。

 間近に見上げるその瞳は、先程よりももっと、鋭く光っていた。


「怖い思い、とは?」


 その気迫に、身が竦んだ。


「あれは、あの……幻覚を見ただけです。ですから、何もありませんでした。あの……ウェイン卿に、お会いしましたよね? わたしが雨に濡れて、階段を上ろうとしているときに。覚えていらっしゃらないかも知れませんが。あのときは低体温症で、あやうく死にかけましたが、本当に、それだけです」


 身の縮む思いで一気に言うと、ウェイン卿は一歩退いて、元の距離に戻った。


 見上げると、もう鋭利な目付きではなく、ほっとする。


 目を伏せたその様子は、沈んでいるようにも見え、何が何だか分からなかったが、とにかく、怒りは解けているように見えた。


「……余計なことを申しました。本通りで、何も問題ありませんので――」


「いえ、こちらを行きましょう」


 ウェイン卿はそう言って、小径を指し示した。




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