第16話 そして開かれた扉の先に①

春が過ぎ、季節は大地に潤いを蓄え始めた。

来たる夏のためか、そうでないのか。

僕には皆目見当もつかない。


気が付けば5月も中旬で、例年よりもかなり早い梅雨が我々の気持ちを表したような暗くて厚い雲を空に蔓延させる。


どんよりとした空は月曜日の憂鬱な気分をさらに負の方向へ加速させた。


もう五月かと、手に持った傘を開いて学部棟を後にする。


生活環境の変化は時の経過が早いと錯覚させるに十分な要素である。



あの日、感じた胸の温かさは、未だ消えることなくその熱を帯びている。


あの夕暮れの中三人でした自己紹介も遠い過去には感じない。


そんなことを考えながら僕は、今日もあの教室へ足を向けた。


到着した本部棟のエントランスで濡れた傘の露を払い、再度ひもで括った。

目的の教室まで向かう動作はすでに体に染みつき始めている。


いつものように教室の扉を開くと、そこにいたのは二人の同級生と一人の先生。


「おお、斎藤。遅かったじゃないか」

「弘樹、お疲れ」

「弘樹君、お疲れ様」


最早、日常の中に溶け込み始めた一連の流れに、僕の顔には自然と笑みが零れる。


「お疲れ」


鞄を下ろしいつもの席に座った。

一枚の紙が目の前の机に置かれている。


『天文サークル夏合宿計画表!!』


一番上に大きく印字された題号にはそう書かれていた。


「なんですか、これ?」

「おお、気になるか斎藤!」


相変わらず上等な背広のポケットに、両手を突っ込んだ森センが少年のような顔で

その紙を渡してきた。


僕が紙を手に取ると愛子さんが内容を説明をしてくれた。


どうやら夏休みにサークルで合宿に行こうという計画のようだった。

行先は奥多摩湖、八王子からは近からず遠からずといったところだ。


日程は2泊3日でキャンプ場に宿泊するらしい。


「楽しそうですね」


僕がそう言うと残りの三人は少し驚いたような顔をした。


「驚いた、君は行きたがらないのかと思ったよ」

森センの言葉に二人も頷く。


森センはポケットから手を出すと、僕の背後に回り僕の肩を揉み始めた。


「いやあ斎藤も変わったな。よかったよかった」


少し痛みも感じたが、大きく温かいその手を止めるように言うことはなかった。


そんな様子を見て、目の前の二人は


「じゃあ決まりだねー代表!」

「そうだね、細かいことをだんだんと決めていこうか」


楽しそうに二人で話を始めてしまった。


今は一枚の紙の中の予定でも、それが実現したら一体どのようなものになるのであろうか。

まだ見ぬその現実に僕の胸は高鳴る。


場も和み、いろいろな計画が立ち始めたころ、


「盛り上がっているところ悪いが君たちに言っておかなくてはならないことがある」


それとなく、そして気まずそうに森センが話に割って入った。


「このサークルは大学非公認だから、費用負担は全額自分持ちになる…………

ただ現地へのレンタカー代くらいは僕が出そう」


申し訳なさそうにする森センに僕は憐みどころか尊敬の念を抱いた。


若干32歳にして大学の准教授、見てくれも悪くない好条件なのに独身。

潰れたサークルの再興に尽力し、さらには他人である僕たちの為にレンタカーまで借りると宣言する。


そんな勇姿を見ては、すべて甘えるわけにはいかない。

幸いにも合宿までには猶予がある。


「構いませんよ、バイトなりなんなりして自分で稼ぎますから」


無意識のうちに僕の口は動いていた。


すると目の前の三人は本日二回目の驚きの表情を浮かべる。


「弘樹君、やっぱり変わったよ」

愛子さんはそう言うと少し嬉しそうにほほ笑んだ。


「弘樹は変わっていってる。私たちのおかげかしら」

今日は月曜日で静かだった杏香さんも、今はいたずらっ子のような顔でそう話した。


二人のダイレクトな意見に顔が熱くなるのを感じる。


「そ、そうかな…………」


「「うん!」」


自分が変わってきている。

少しずつ成長してきているのかもしれない。


そもそも、先ほどのお金の問題も大学入学当初よりバイトをしていたから僕にとっては大した問題ではなかった。


無駄に使わず貯金をした為、金額だってそこそこにある。


ただ自分でも驚いたのは二人よりも先に森センにそう言ったことだ。


以前であればそんなことはなかったであろう。

彼女たちの意見に合わせていたはずだ。



自分でもその変化に気が付き、僕の変化を気が付いてくれる人たちがいる。


こんなこと今までにあったであろうか。




(みんなのおかげだよ…………)


口から出そうになったその言葉はまだ心にしまっておくことにした。


未だに残る胸のしこりが、すべて溶け切ったときにそれを言おう。

そう僕は誓った。



「そうか、それなら自分たちの金銭的な余裕に合わせてプランを考えるといい。そういった面で物事を考えるのは社会に出てから役に立つからな」


そう言うと森センは踵を返し教室のドアを開く。


「先生??どちらに? 」

杏香さんの問いに


「なあに、自分の仕事をしに行くのさ」


そういって彼は振り返ることもなく、手のひらを振りながら教室を後にした。


「仕事ってなんだろねー? 」

手を伸ばし伸びをしながら愛子さんは僕らに聞いた。


僕も杏香さんも知らないと言わんばかりに目を閉じ首を横に振った。


ただ僕には少しわかるような気がした。

それでも彼女らにその事を言うつもりはなかった。


それがせめてもの男の礼儀というやつなのかもしれない。


僕は初めて好きになれそうな先生の為に、思っていたことを胸の奥にしまった。


外を見ると厚い雲の隙間から光が差し込む。


幻想的な雰囲気にまるで映画のワンシーンのようだと思いつつ、

早く梅雨が終わることを願った。













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