白日ハウリング

五十嵐ジュンイチ

白日ハウリング

「取り返しがつかない過ち」


夏休みの過ごし方について先生から注意されていたことが何度もよぎっている。色んなこと…もしかしたら取り返しがつかない過ちを体験することがあるかも知れない。そうやって心も身体も大人になっていきます。ただ本を読んで間接的に知ることもみんななら出来ます。6年生最後の夏休み、時間を作って本を読んで色んなことを知りましょう、と先生は言っていた。


…今のボクに何が出来る?


※※※

真っ新(まっさら)なシーツに交換しておくことを母さんにお願いされている。母さんは三時までに駅前にあるATMから携帯電話料金の振り込みをしに行くのだという。六年生だからもうシーツの交換ぐらい出来るでしょ?と嫌な言い方だ。ちゃんとやるつもりだったのにひと言多いんだよ。もう二時を少し過ぎている。ここからだと多分、間に合わない。最近、雨がよく降っていて外に出るのが面倒だったのよね、と母さんは言っていた。ハチとナナ、碌(ロク)も雨で散歩に行けていない。五月末に三回目のワクチンが済んで、最初に散歩に連れて行ったとき、途中からほとんど全力でボクも母さんも走った。三匹とも生まれて初めての外が楽しかったんだろう。今日は昨日に続けて晴れた。散歩に行くときはリードを離してはダメだと念押された。特に干潟には絶対に入らないで、と言われている。レトリバーの毛に泥が着くと後で取るのが手間になる。なかなか取れない。泥の粘り気か何かで毛が何十本かで固まってしまうし、その部分の色が濃くなる。束ねられたから濃い黄金色なのか、取り切れない泥と毛の混合色なのか分からない。分かるのは脚の付け根に飛び散った目立つ濃い色。泥遊びしたのがすぐバレる。それで何回も叱られているのだ。窓を閉める時、太陽を見ると白と黄の間の光が一直線に目に入ってくる。

三本のリードにつなぐ前から碌は散歩に行くことに感づいて部屋中を走り回っている。ハチもナナも碌につられてソファーに飛び乗ったり、碌を追いかけたりしている。リードを着けるのに10分は掛かっている。

外に出てると田んぼが見える。少しだけ垂れた稲穂が風で揺れていて、その上は遠くにある畑と家が離れて立っている。家をつなぐ電線は空の青さが滲んで所々が途切れて見える。反対側は海を通って干潟を通り抜けた風が気温より少しだけ冷えている気がした。風に当たりたくなる。

干潟を通り抜けることにした。今日、母さんの帰りはきっと遅くなる。散歩から帰って来たら表にある水道でハチたちに水を掛ければバレない。干潟は走る度に泥が跳ねてハチもナナも碌も口を開けて飛び跳ねる。下がぬかるんでいるから家の中より跳べてない。だからさらに跳ぼうとする。習性?遊び心?それを見るのが好きだ。日差しと静かな空、通り抜ける海風、にボクとハチたちの鳴き声が響き渡る。

干潟沿いに森を横目に見ながら野原に行く。ここでハチとナナ、碌を追いかけ回そう。リードを外す。ここの野原は広くて人が来ない。隣の田んぼは午後ほとんど人を見掛けないし、海はここで泳ぐ人を一度も見たことがない。緑しかない所だ。野原は小高い所があったり草で茂っている所もあって、平らな所があまり無い。よく見ると人が通る道の跡らしきものがある。何より見渡しが良い。追いかけ回したらきっとある程度のところで碌は後ろ脚を伸ばして尻尾の方を突き出して前脚と顎を地面に付ける。鼻の近くはシワがよる。低い唸り声。ハチとナナはそれにつられて同じく威嚇姿勢を取るだろう。ボクは三匹をからかって遊ぶ。

※※※


今思えば、あの時から間違えてたのかも知れなかった。先のことを大人は見据えているのだ。ボクはまだ子供だ。言うことを聞いておけば良かった。どうしよう。どうしたらいい?ごめん、ハチ。ナナ…。ねぇどうしたら…誰か、助けて。



「ぴぃーぴぃーぴぃー」

ナナは奥に居ると思う。鳴いているのはハチ。ナナがどうなっているのか分からない。もしかして…ハチだって、こんなことになって…

ボクは何も出来ていない。どうしたらいいか分かんないんだ。けど、けど…


キッズケータイのストラップを引っ張って防犯ブザーを鳴らした。きっとこの野原の向こうの森を越えて干潟を通り越して県道を走る車が気付いてくれるかも知れない。ただ…今はコロナのことで三浦海岸に来る観光客は減っているって先生が言っていた。今までも来ても三浦海岸までで、この干潟には立ち止まらない。宮川公園の風車を観に通る車。近くの江奈のバス停は1時間半ぐらいに一本、ほとんど素通りするバス。ブザーは鳴り響いている。鳴り始めに碌が少し飛び上がっただけだ。外したリードだけで、何も持ち合わせていなくて怖くて穴に近づけない。どうしたらいいの?


「くぁぐぁ、ぴぃーぴぃーぴぃー」

ハチ!…ブザーを止めて110番する。

「どうしましたか?」

「ボクの犬が穴に入って、そしたらそこに蛇がいたみたいで、ハチとナナ二匹入って、ナナは奥の方に入ってて見えなくてハチは、ハチは蛇が絡まっていて咬まれているみたいなんです。助けて。どうしたらいいですか?死んじゃう!」

「分かりました。今どちらにいますか?」

「江奈湾の干潟と森を抜けて、海と田んぼが見える野原にいます。」

「近くの駐在所の警官に電話してみますが、もしかしたらいないかも知れません。いない場合は離れた交番から向かうことになるので時間が掛かります。あなたの携帯電話の番号を念のため教えてもらえますか?」

自分の番号が分からない。調べるには携帯を操作しないと分からない。一度切るしかないか。

「番号が分からないので一旦切ってもう一度掛けます。」

「分かりました。ちなみに消防署には電話しましたか?」

「していません。」

「分かりました。」

電話を切って、自分の番号を探す。分からない。そんなことやったことない。ハチはずっと鳴いている。母さんに電話しよう。

操作していた指が思わず触れワンコールもせずに出てしまった。

「オルソク警備ですが、剣崎翔くんの携帯電話ですか?」

「はい。」

「防犯ブザーを鳴らしたよね?大丈夫ですか?」

「ボクの二匹の子犬が穴に入ってハチが蛇に身体中巻きつかれて肩のところを咬まれてるんです。助けてください。」

「大変だね。分かりました。ただね、お母様の許可がないと急行出来ないの。ごめんね。お母様になかなかつながらなくて翔くんに掛けたの。」

「母さんはさっき出掛けました。」

「そう。じゃあ、後お母様が先月の使用料がまだ未納だから、着金しないとこのサービスは使えないの。だから着金の確認の後に今、翔くんがいる所に行く感じになると思う。それまで平気?」

「平気じゃない!ハチが咬まれてる。巻きついていて怖い!すぐ来て!」

「ごめんね。警察とか消防署には電話した?」

「消防署はまだです。」

「消防署の人は普段からそういうことに慣れているから早く電話した方がいいわ。」

「…なんで…分かりました。」


母さんに電話。

「ただ今電話に出ることが出来ません。御用の方は発信音」

切った。

119番に電話する。

「消防署です。火事ですか?救急ですか?」

「救急です。ハチが」

「あなたの名前と住所を教えてください。」

食い気味に差し込まれた言葉。ボクの話は聞いてくれないかも知れない。

「あの、ハチが穴に入ってしまって今も鳴いてて蛇に咬まれてるんです。」

「人命に関わりますか?誰か咬まれて倒れていますか?」

「誰も倒れてないです。」

「では、警察に電話してください。それでは失礼致します。」

切られてしまった。怒鳴りたい。それ以上にハチの声を確認したい。生きてるよね?平気だよね?ハチはボクをずっと見てる。


自分の番号を携帯電話の中から探して指で地面に書いた。もう一度110番すると

「どうしましたか?」

え、まじで…本当に…

「さっき電話したんですけど、犬が蛇に咬まれてて死にそうなんです。で、ボクの番号を教えることになっていて、掛け直したんです。」

「今どちらにいますか?」

本当に?本当に起きてる出来事なんだよね…ウソみたいだ。

「江奈湾の干潟沿いの森を抜けた野原にいます。田んぼと海に挟まれています。」

「近くの駐在所の警官に電話してみますが、もしかしたらいないかも知れません。いない場合は離れた交番から向かうことになるので時間が掛かります。あなたの携帯電話の番号を念のため教えてもらえますか?」

涙がとうとう出た。

「もうさっきもおんなじこと聞いた。なんで早く助けてくれないの?ボクの番号は0804855OQCIです。」

「落ち着いてください。向かえることが分かり次第、場合によっては駆けつける警官の携帯電話から連絡します。少々お待ちください。」

「はい…」

「消防署には電話しましたか?」

「はい。人命ではないと言って切られました。」

「保健所には掛けましたか?」

「掛けてないです。」

「そちらにも掛けてみることを勧めます。」

「番号を知りません。」

「申し訳ないですが、調べてみてください。」

「もう!分かりました…」


保健所の番号なんて分からない。念のために電話帳を開いてみる。先生の番号があった。先生なら知ってるかも!


「ただ今電話に出ることが出来ません。御用の方は」

ふざけんな。怒りと無力。どうしていいか分からない心境は自分の身体と周りの空気の境目を滲(にじ)ませて立っているのか座り込んでしまっているのか分からなくなっていて、ただハチの視線、を感じるだけだった。隆起して盛り上がる丘の側面に暗い穴。蛇の腹が滑る光を乱反射している。ハチに曲がりくねって巻きつく。左の後ろ脚に一周、ハチの柔らかいお腹に二週して少し食い込んでいる。尻尾の付け根にも一周巻きついて、首、多分右の前脚に巻きついて、左前脚との間から蛇腹が通って背中越しの頭は見えない。時折りゆっくりと流れる長い蛇腹。どこに咬み着いているのか分からない。さっきは左肩だった。顔が穴の暗い方にあって見えない。ナナを咬んでいるのだろうか…


「くふくふくふ」


母さんにもう一度掛けても

「ただ今電話に出ることが出来ません。御用の方は発信音の後にメッセージを入れてください。折り返しこちらから後ほどお電話致します。」

となった。

「ぴー」

「母さん!電話に出て!ハチとナナが蛇に咬まれて死にそう!誰も電話に出ないし、警察も消防署も警備会社も来てくれない。ぅぅねえどうしたらいいの?母さん電話に出て…お願」

「ぴー、このメッセージで良ければ電話をお切りください。録音し直す場合は9を押してください。」


そうだ。動物病院の番号も入っていた。

「ありがとうございます。浦沢動物病院です。誠に恐れ入りますが、只今の時間は営業時間外です。御用の方は17時以降に掛け直」


今のボクには何が出来るの?

ハチとナナのために。


碌はハチの鳴き声に呼応して鳴いている。きっとナナにも届けようとしているんだ。


人はなんでこんなに鈍感なんだろう。


大人だから?こんなに頼んでも、誰もボクを助けようとはしない。


干潟に踏み入り、リードを外した。

取り返しがつかない過ち。


先生は過ちがボクらを大人にすると言っていた。それで大人に近づくなら、成らない方がマシだ。大人のせいにして恨む子供の方がまだマシだ。そんな子供にも大人にも成りたくない。なら、何に成る?このことを教訓に動物を守る社会を担って、未来にハチとナナみたいに助けられない動物を見逃さないレンジャーに成る?そんなの!間違った未来。人生。きれいごと。うんざりする。取り返しがつかない過ちは誰にでもひとつやふたつあるなんて言えるのは、無責任に先だけ見て生きてるからだ。先を見据えたことなんて考えても…そんなことしてももうさっきには戻れない。誰かを呼ぶことしか出来なかったボクは心拍がずっと高鳴り、手足の震えと涙が続いている。もうからかったり、跳んだりする頃に戻れない。それでも身体は大人になっていくって何のため?

ここに来る前のことを思い馳せる。現実逃避。シーツを羽ばたかせて敷いた。ベッドの上のマットを覆って包み込んだ。マットはもう見えない。マットは洗わなくて良いのか、母さんに聞くのが面倒に思った。マットは汗のシミで汚れていた気がする。真っ白いシーツはマットの汚れを隠す。

…今ボクはシーツで干潟を覆おうとしている。さっきまで感覚がない足元は干潟のぬかるみにはまっていく。成長し続ける身体の重さで深く入り込んでいく。



真っ新に生まれ変わって人生を一から始めること。なんて出来ない。



携帯電話が鳴る。警察からだ。

「翔くんですか?」

「はい」

「警察署から向かっているんだけど、きみの居場所をもう少し詳しく教えて欲しい。パトカーに乗った警官の携帯電話からきみの番号に掛けたけど、ワンコールもしないで切られてしまった。何度も。もしかしてキッズケータイみたいな携帯を使っている?」

「はい…」

「そうか。だからきっと知らない携帯電話番号は掛からない設定になっているんだな。保健所からも職員が掛けたが、つながらなかったそうだ。」

「ごめんなさい…」

「いいんだ。江奈湾の近くに着いたらサイレンを鳴らすから道路に出てくることは出来るか?」

「道路からは遠いです。」

「そうか…携帯電話がつながるように設定を変えれたらやってみてくれ。」

「はい…」

「そっちには今から30分から1時間は掛かる。」

「そんなに掛かったらハチは死んじゃう!」

「蛇の身体はどんなか分かるか?保健所に問い合わせてどういう毒を持つ蛇が確認する。」

「分からない…縞々があります。」

「どんな縞々?緑っぽい菱形が沢山あるとか、白っぽい線があるとか、アオダイショウなら毒は無い。ニホンマムシなら毒が有る。」

口に出したくなくてずっと頭にはあった。毒。

「どっちにしても保健所の固定電話か何かから電話させるから出るようにしてください。」

「はい…」


母さんに電話をしてみた。先生にも。もうボクの電話には誰も出ない。警察が来てももうハチはもたない気がする。鳴き声の間隔が長くなっていて、碌ばかりが鳴いている。ボクはもう、あきらめた。つながらない電話。留守番電話のメッセージ。振り込み。人命じゃない。営業時間外。見知らぬ番号の着信拒否設定。鳴らないサイレン。何か分からない蛇。



穴に右手を出す。ハチのお腹に二周する蛇腹を持つ。ハチの向こうから頭を出して一直線に手首に近い橈骨(とうこつ)の辺り皮膚が丸く出ているところを咬まれた。怖くて振り払ってしまった。蛇の頭は一旦穴の奥に弾かれてからこちらを見返して舌が出たり入ったりしている。蛇の全身が震えて変な音がしているし、何か臭う。ほどけた蛇腹の余地で再びハチを巻き直す。ハチは息が荒くなっていた。ナナが奥にはっきり見えた。


遠くでサイレンが聞こえた。と同時に携帯電話が鳴る。左手で出る。


「…すまない、翔くん。」

「…」

「近くで観光客の車が三浦海岸の駐車場で暴走して人をはねてしまったらしい。県外ナンバーの自粛警察絡みで怪我人が出ている。」

「…」

「今、江奈湾沿いの県道を通り過ぎてパトカーはそっちに向かっている。」

「…」

「…許してくれ、翔くん。」


白日。目の前も白く空から覆われていく。間隔が無くなった鳴き声。感覚が失くなった右手と涙の筋道。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白日ハウリング 五十嵐ジュンイチ @junichi-igarashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ