1-16 泣き出しそうな空の夜
航と店の前で別れた朱莉は、町の雑踏に航が紛れて見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた。
(大丈夫かな・・航君。何だか様子がおかしかったけど・・・・。)
実は朱莉は航とカフェで会話をしている間、ずっと航の様子がおかしくて気がかりだったのである。妙に思いつめた表情をしていたり、時には何か考えごとをしているような心ここにあらずと言った様子・・そして最後に別れ際に見せた今にも泣きだしそうな航の顔が頭にこびりついて離れなかった。
「航君・・・一体どうしたの・・?何があったの・・?相談があるなら話・・聞いてあげるのに・・。」
朱莉はまさか航が自分のせいで情緒不安定になっているとは思いもしていなかった。その時、朱莉のスマホに着信を知らせるメロディーが流れてきて、我に返った。
着信相手は明日香からだった。
(え?明日香さん?ひょっとして何かあったのかしら?!)
朱莉はすぐにスマホをタップした。
「はい、もしもし。」
『あ、朱莉さん。あのね、実は今蓮君と晩御飯食べてる最中なのよ。』
「え?今ですか?」
朱莉は腕時計を見ると時刻はそろそろ19時になろうとしている。
『そうなの、ちょっと水族館で長居をしちゃって遅くなったの。ごめんなさいね。今少し蓮君に代わるわね。』
するとすぐに電話越しから蓮の声が聞こえてきた。
『もしもし、お母さん?』
「うん、そうだよ。蓮ちゃん。いま晩御飯食べているんですって?」
『そうなんだ。あのねー今ご飯食べてるお店、すっごいんだよ!天井に星がいっぱい写ってるの!え~とねえ・・確かプラネタリウムって言うんだっけ?』
「え?ひょっとしてプラネタリウムをみながらお食事ができる店なの?」
『うん、そうだよっ!』
蓮の楽しそうな声が聞こえてくる。するとそこで一度会話が途切れ、次に明日香が電話に出た。
『もしもし、蓮君から話聞いたでしょう?』
「はい、聞きました。すごいですね・・・明日香さん。そのお店、プラネタリウムになっているんですか?」
『ええ、そうなの・・・帰ったら詳しく聞かせてあげるわ。とりあえず、そういうわけだから今日は蓮君が帰れるの20時過ぎそうなの。悪いわね。』
「いえ、お気になさらないで下さい。だって・・・。」
朱莉はそこで一度言葉を切った。この先の言葉を言うのは・・・なんとなく自分が辛かったからだ。
『だって・・何かしら?』
しかし明日香は話の続きを促してきた。朱莉はそこで一度呼吸を整えると言った。
「明日香さんは・・・蓮ちゃんの本当のお母さんですから。」
すると、明日香の嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。
『え?あ、そ・そういえばそうよね。フフ・・・。それで最低でも何時までにマンションへ戻ればいいかしら?』
「明日は幼稚園がある日なので、21時までに帰宅できるようにお願いできますか?」
『ええ。分かったわ。でも安心して?絶対にそこまで遅くなることはないから。それじゃ電話切るわね。』
そして電話は切られた。
受話器越しから聞こえてきた蓮や明日香の声は・・・とても楽し気で、朱莉は寂しい気持ちが込み上げてきた。
(蓮ちゃん・・・。明日香さんとはずっと疎遠だったのに・・・あんなに楽しそうにして・・・やっぱり血を分けた親子の絆の力・・なのかな?ほんの少しでもいいから・・私と蓮ちゃんの間に血のつながりがあれば良かったのに。そうすれば、こんな不安な気持ちになることは無かったのに・・・・。)
そして朱莉は六本木の空を見上げた。昼間はあんなに晴れていたのに、今の空は泣き出しそうな曇り空になっている。
朱莉は思った。
まるで今の自分の気持ちを表しているかのような空の色だ―と。
航は暗い気持ちで電車に揺られていた。明るい車内でドアの窓に映る自分の顔はとても暗い表情をしていた。
(全く・・・何て顔してるんだ・・・。)
朱莉と別れて、こうして電車に乗っていても頭の中は朱莉の事で一杯だった。結局航は4年という歳月が流れていても、朱莉の事を忘れられないでいた事を改めて思い知らされた。
(俺は・・・最低な男だ・・。朱莉のいない寂しさを埋める為に・・美由紀を利用したようなものだ・・・。)
でも朱莉に対する自分の気持ちにはっきり気がついてしまった今となっては、これ以上美由紀と付き合うわけにはいかなかった。美由紀が自分の事を本気で好きなことが良く分かるからこそ・・・別れるべきなんだと航は思ったのだ。
(せめて・・・美由紀がもっと軽いタイプの女だったら・・・俺もこんな風に悩む事は無かったのに・・・。いや、そもそもこんな考えを持つ事自体が駄目なんだ。俺は・・本当に何て最低な男なんだ・・・。)
航は決めた。
今夜の仕事が終わったら、美由紀に別れを告げるのだと。
(そうだ・・・美由紀は・・いい女だ。俺みたいな不誠実な男より・・・もっといい相手が・・きっとすぐに見つかるに決まっている・・。)
そして航は目を閉じた―。
午後8時―
今にも雨が降りだしそうな上野駅に航は降りたった。空を見上げながら航は呟いた。
「チッ・・・。この分だと夜分には雨が降ってきそうだな・・。全く・・23時から対象者を外で見張っていないとならないのに・・・。」
とにかく雨が降るまでにアパートに帰らなければ―。
航は急ぎ足で自分の住む雑居ビルのアパートへと急いだ。
カンカンカンカン・・・。
雑居ビルの狭い階段を上り、アパートがある階まで登ってきた航は自分の部屋のドアの前で美由紀がまるでうずくまるように座り込んでいるのを見て驚いた。
「み・・美由紀っ!」
「航君・・・?」
美由紀は顔をあげて航を見ると言った。
「良かった・・・・航君。部屋に帰って来てくれて・・・。」
「何言ってるんだ?ここは俺の部屋だ。帰ってくるに決まっているだろう?とりあえず・・中に入れよ。」
折角ここまで美由紀がやってきたのだ。無下に帰らせる事は出来ず、航は美由紀を部屋に上げることにした。
「今コーヒー淹れてやるから、座って待ってろよ。」
1DKの古びたアパートに美由紀を招き入れると、美由紀は小さく頷き部屋の隅に置かれたローソファに座った。
そんな様子の美由紀を見ながら航は小さなキッチンへ向かい、ヤカンに水を入れるとコンロの火にかけた。
航が2人分のコーヒーの準備をしている間、美由紀はずっと黙ったままでいる。
(まいったな・・・。)
約4年間交際してきて、こんな状態の美由紀を見るのは航は初めてだった。いつも、よく話し、よく笑う美由紀が・・・まるで今では別人だった。
「ほら、美由紀。飲めよ。」
航は美由紀の前の小さなテーブルにコトンと湯気の立つコーヒーカップを置いた。
「・・・。」
美由紀は黙ってコーヒーに手を伸ばすとフウフウ冷ましながら静かに飲むと、今にも消え入りそうな声で口を開いた。
「ごめん・・・なさい・・・。」
「え?」
その声はあまりにも小さく・・・航の耳にはよく届かなかった。すると、再度美由紀は言った。
「ごめんな・・さい・・・。航君・・・。」
「・・・何で謝るんだ?」
航はなるべく優しい声で美由紀に尋ねた。
「だって・・・夜から・・仕事なのに・・・仮眠だって、取らなくちゃいけないのに・・それなのに・・私・・勝手に航君の・・・アパートに・・押しかけちゃったりして・・・。」
「美由紀・・・。」
「航君・・・・私・・こんなだから・・・航君に・・捨てられちゃうの・・?」
美由紀の顔は・・・涙で濡れていた—。
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